もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
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仏教学・禅学の批判
対機指導ー法華経
本人の希望に応じて指導する=法華経
仏は三乗を説く(岩波(上)176,180,206,216=中村元「大乗仏教の思想」(中村元選集21)春秋社、1995年、110頁。
法華経上204、四聖諦では無上正等覚ではない。
法華経上208、説かない人。
現代人にピンときて、すぐ実践できるようでもないが、個人に応じて、問題に応じて、修行法を変えるべきという言葉を抽出する。
因縁観も、貪瞋痴を抑制するという修行の初期段階に用いられている観法であるので、十二縁起は初心者にも簡単に理解、観察されることである。初歩段階である。
法華経
『法華経』では、ある病気には、薬であっても、他の病気には、薬とはならないように、「仏法の中にて心病を治するもまたかくのごとし。」と言って、おおよそ、次の対機指導が主張されている。
「此の菩薩はよく声聞乗の法、独覚乗の法、菩薩乗の法、如来地の法を演説し、一切の行処に智随って行ずるが故に、よく衆生の根性、欲解所行に異なりある諸聚の差別に随い、また受生の煩悩、眠縛、諸業の習気に随いて為に説法し、信」(1)
これについて、中村元氏は、こういう。
「ナーガールジュナは慈心というものを個別的な一種の精神療法と考えている。すなわち怒りっぽい人には慈心を涵養させる必要があるが、貪欲のあり人が慈心を起こすとかえって貪欲を増すからいけない、というのである。」
「この見解は天台宗はじめシナの仏教にも継承されている。
右の立言は慈しみが貪欲とつながるものがあるという事実を明らかにしている点で興味がある。慈しみとは人間的な愛情にもとづいているが、人間的な愛情は同時に欲情に転化する危険をはらんでいるのである。」(2)
(注)
- (1)八十華厳経、大正、10巻、202c。
- (2)中村元「大乗仏教の思想」春秋社、1995年、149頁。
仏教や禅の初心者は、貪・瞋・痴などで何か悩みを持つ場合がある。その場合には、その個人の悩みに効果のある坐禅法を指導すべきであることになる。そうでないと、高度な坐禅修行に進むことが難しい。
また、すべての人に、悟れ、そして、他者を救済せよ、慈悲行を行え、と説法するのも在家仏教の場合には、弊害があることがある。貪欲の大きい者が、それを聞いて、自分の貪欲を充分に自覚しないうちに途中で修行をやめて、世の為、救済のためと称して、自己の財欲、名誉欲など種々の貪欲をまして、社会を害する行動をするおそれがある。仏教や禅を己の欲望達成の手段に利用するのである。偏見ある学説を主張して己の名誉欲などを満足させるとか、カルト教団の設立、金儲け優先のカウンセラーになるなどがその例であろう。誰にでも同じような仏教、禅指導では問題がある、というのである。
このようなことは、現代でも真理であるから、仏教や禅の指導者は、その個人をみて、対機指導しなければならないのだろう。在家仏教であるから、その人を手元で生涯、指導するのではなくて、自己都合で勝手にやめていくから問題が生じる。
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