第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング
四無量心
仏教は、苦の解決をいう。苦には、心理的な苦や肉体的な苦があるだろう。苦を感じている他者の苦を軽減する援助をすることが「利他」であろう。「救済」であろう。それを実践することが「慈悲」であろう。文字に向かって研究し、一般的な講義をするのでは慈悲行ではない。慈悲行は、苦悩する人に会い、話を聴き、苦悩解決のための指導をしなければならない。一人に対して、3か月、3年かかる。慈悲行と学問研究は本質的に異なる。
仏教研究者、宗教評論家などに、慈悲、救済をいうのは傲慢という発言がある。その主張は正しいのだろうか。仏教学者がそんなことを言っていいのだろうか。その是非を考えるのに参考になる仏教の教えがある。「四無量」である。それを考察しよう。
大乗仏教は、特に、利他をいう。戒(摂衆生戒)にまで、利他が言われているほどである。
利他というと、現代の医学や臨床心理学の領域が重なるであろう。大乗仏教は、利他を否定しないで、むしろ強調した。そして、利他を行ないつつ、利他の心を空じることを教えた。利他を意識せず行う利他が、傲慢なのだろうか。大乗の利他を心底、理解して「傲慢だ」と言っているのであろうか。
利他を行なう者は、医者やカウンセラーである。そのような人にも、自利になる利他があるだろう。たとえば、職業として、報酬をもらわない限り、治療や苦悩のカウンセリングをしないような例である。また、思いあがりの利他もあるであろう。無償、または、それに近い形で、苦悩する人を救っていても「私が救っている」という気持ちを持っていれば、思いあがりであろう。「慢」があるであろう。「自己」を空じていない、無我になっていない。それなら「傲慢」といわれてもしかたがないところもある。だが、一歩、譲って、そのような「傲慢な医者、カウンセラー」でも、もし、病気で死ぬことをちりょうする医術やうつ病で自殺することを防止させる指導力があるのならば、患者は喜ぶであろう。社会貢献であろう。傲慢は、軽い心の醜さ(意業)であり、治癒させる力は偉大な貢献行為である。心を病んで自殺する人もいる。仏教はそういうことを治癒させるのも利他という。ひとのいのちを救う治癒行為、カウンセリングまで、否定してはならないであろう。批判されるべきは、利他行ではなくて、「傲慢」の意識である。
傲慢な救済者もいるだろう。しかし、それは、仏教を深く実践しない人の場合である。仏教を実践する人は、自己の汚心を探求する。利他を行ないつつ、「捨」の実践も行った。それは「傲慢」とはいえないであろう。仏教は、無我をいい、慢をいましめてきた。そうであれば、「私が」という意識ではなく、「慢」もない利他をめざした人がいたに違いない。だから、「四無量」の教説が大乗で強く主張された。
「四無量」について、研究者の説明を聞くことにする。
四無量心
四無量心というのは、慈、悲、喜、捨という四つの無量な心があるというものである。小川一乗氏の説明はこうである。
「ともかくも、『智度論』において、龍樹が取り上げている慈悲というのは、四無量心ということです。この四無量心から慈悲ということばが遺われ出している。四無量心というのは、悟りを開いた釈尊の心には、慈、悲、喜、捨という四つの無量な心があるというものです。ですから、これは大乗仏教以前からある考え方です。伝統的な説明では、慈というのは楽を与える。悲というのは苦を抜く。そして楽を与えられて、苦が抜かれた姿を見て喜び、あの人の苦を私が抜いてやったのだ、あの人に私が楽を与えてやったのだという、そういう私という思いを捨てるというのが捨です。」(1)
「そのように、大乗仏教になって、非常に注目され、大きく取り上げられるようになった四無量心の中に説かれる慈と悲ということが、大乗仏教における慈悲のルーツであろうと思います。」(2)
苦悩する他者に説法し、修行法を指導(慈悲である)して、苦悩していた人が、何カ月か、何年か後に、「おかげで救われました。あなたから教えてもらっていなかったら、私は自殺していたでしょう。ありがとう。」と言って喜ぶ。それを聞いて、指導した者は、「それはよかった。」と、こちらも喜ぶ。これは、「喜」である。そして、その指導の長い期間にも、喜を見た時にも、「私が救ってあげつつある。私が救った」とは思わない。それが「捨」である。慈悲行をやってみればわかるのであろう。こちらが指導しても実践しない自己は救済されない。こちらが救うのではない。本人が実践するから救われる。本人の自己が救うのである。
(注)
- (1)小川一乗「大乗仏教の根本思想」法蔵館、1998年4刷、437頁。
- (2)同上、438頁。
無縁の慈悲に見る「四無量心」
中村氏が「無縁の慈悲」にいう精神は、「四無量心」の「捨」であろう。自分が救うという「傲慢」さが、捨棄されている。
中村元氏は「ところでこの「無縁の慈悲」というものは、大乗仏教の思想体系においていかなる意義を有するものなのであろうか?」といって、こういう。
「慈悲は空観にもとづいて実現されるのであるから、慈悲の実践をなす人は「自分は慈悲を行なっているのだ」という高ぶった、とらわれた心があるならば、それはまだ真の慈悲ではない。慈悲の実践は、慈悲の実践という意識を越えたところにあらわれる。
『われなお慈悲心を起こさず。何んぞ況んや毒害心をや。』
この道理を、至道無難禅師はよく説明している。
『物にじゅくする時あるべし。たとえばちひさきとき、いろはをならひ、世わたる時、文書くにもろこしの事も書きのこす事なし。いろはのじゅくするなり。仏道も修行する人、身のあくを去るうちはくるしけれども、去りつくしてほとけになりて後は、何事もくるしみなし。又慈悲も同じ事也。じひするうちは、じひに心あり。じひじゅくするとき、じひをしらず。じひしてじひをしらぬとき、仏といふなり。』
『じひはみなぼさつのなせるわざなれば身のわざはいのいかであるべき。』(『無難仮名法語』、『禅門法語集』上、332−333ページ)
『主に忠おやには孝をなすものとしらでするこそまことなりけれ』(『無難仮名法語』、『禅門法語集』上、336ページ)
すなわち現象的な自己を無に帰したとき、慈悲が絶対者からあらわれるのである。そうして慈悲行は個我のはからいではなくて、個我を超えた絶対者から現われ出るものなのである。
このような態度を盤珪は、不生禅の立場から基礎づけている。すなわち万象は夢のごとく空中の華のように空無なるものであるということを説いたあとで、次のようにいう。
『是れを慥(たしか)に知ったる時は、日用一切の上で空華をしり、夢としって取りもせず捨てもせず、吾にたがふたるは、夢の差ひとしり、順したることは、夢の順なりと知て、差ふことを憎まず、順したるを愛せず、憎むまい愛すまいと云ふ用心もせず、金銀財宝も、その如く捨てもせず欲もなく、ありの儘でさばく時には、鳥の虚空をとぶ時、空の中に鳥の足跡なきが如く、魚の水におよぎてさはりなきが如し。親をば親の如く、子をば子の如く、兄弟妻子他人知人、只それぞれの儘でたがひもせず、何の子細もなきなり。去るに依て、道元和尚も、「水鳥の行くも帰るも跡たえてされどもみちはたがはざりけり」と詠ぜられたる如くなり。』(『心経抄』、『禅門法語集』下、122ページ)
空の倫理とは、鳥が大空を飛ぶように、他のものにもとらえられず、自由なこころもちで行動することである。各自が私心や欲望を去って、普遍的なあるべき理法にしたがい、自己の自由を確保することによってこそ、道徳が守られる。
このような気持ちを涵養し、現出するためには、心が平静でなければならない。人に対する同情(哀愍)というものは、静慮パーラミターに摂せられるものである。」(1)
(注)
- (1)中村元「大乗仏教の思想」(中村元選集21)春秋社、1995年、139頁。
無縁の慈悲=中村元氏
慈悲を行いつつ、慈悲を空じている
三枝充悳氏は、四無量について、次のように説明する。
「慈と悲とは、原語を異にしながらも、相互に流通し合って用いられ、とくに区別を立てる要もなく、また慈悲を一語とみなす例も多い。しかし、分析(分別と術語化する)を主とする論者によれば、慈は他に楽を与え(与楽)、悲は他の「苦を抜きとる(抜苦)と、区分する。
さらに、仏教の最初期から、慈と悲とに加えて、喜(ムディター)と捨(ウベッカー、ウペークシャー)とが一括して説かれることが多い。喜とは、みずからの喜びと同時に、他を喜ばすことをいい、捨とは、平静を指して、こころに動揺も偏向もまったくない在り方を表現する。それは、いわば完全な無差別から、さらに無償に通ずる場に、いわゆる「無縁の慈悲」を招き寄せて、なんらのかかわりをもたぬものに対しても、大いなる慈悲をもって接しつつ、しかも慈悲ということそのものを空じているという。このような慈悲喜捨は、どこまでも限りなく広げられて、これを四無量(心)と呼ぶ術語の成立を見る。」(1)
利他は、一人の他者に向かい6カ月、5年、20年行う行為である。主に語業、身業である。だが、「利他を行ないつつあるという傲慢な思い」は、その思考する時だけの意業である。利他の時は、利他の身・口・意の行為がある。傲慢の意と利他の意は同時にはない。利他と、傲慢とは別物である。利他を強調することは、傲慢ではない。利他を空によって強調することもできる。
(注)
- (1)中村元・三枝充悳「バウッダ・仏教」小学館、156頁。
(以下は、文献の裏づけのない感想である)
キリスト教の指導者には、利他を行いながら自分が利他するとは思わない至誠の人が多いように思える。自分が関与した信者が救済されたのは、神父・牧師の自己によるのではなく、神のおぼしめしが救済された人に働いたのであろうから。クリスチャンである医師は、治療して患者のいのちを救うが自分をほこらない。傲慢さはないであろう。そのような「捨」がキリスト者にできるのであれば、仏教者もできるに違いない。仏教はこころの病を救済する。救済したのは、仏教を指導した禅僧(自分)ではなく、救済された本人の自己である。自分(僧侶)の手柄ではないのだから、傲慢になれるわけではない。
肉体の病気ではなくて、心の病気を治していのちを救うのが仏教である。肉体の病で失うはずのいのちを救済するのも慈悲であり、こころの病で失うはずのいのちを救済するのも慈悲である。心を病んだことによって自殺していく人々が、十年間で、30万人に達した。今は自殺しなくても心を病んで積極的な社会活動からひきこもり、いのちを十分に生きているとは思っていない何百万もの人々がいるであろう。その人々も、その心の病でいつ死を選ぶかはかりしれないという危機的状況にある。「キレ」やすい人々も多くなったという。こころの病から抜け出る方策を知らず、ものや非行行為への依存、犯罪に走る人々も多いだろう。
自分に傲慢さがあるのを感じる人の場合、他者にもすべてある(特に慈悲を強調する人に)と誤解することもあるだろう。人というのは、根底は一つ(清浄心、空などと)であるというが、傲慢とは、煩悩の一つにすぎない。煩悩は、すべての人にあるわけではない。利他を強調する人がすべて傲慢であるわけではないであろう。自分で深く実践しない学者や評論家が自分の狭い見解(我見・我執から起きる)で、至誠の仏教を謗るという過ちを犯す。歴史上、種々の領域の学問が過ちを犯して、社会を害し、罪なき国民を苦しめた例があるだろう。人間は根底に清浄なものを持つが、それを自覚しなければ、過ちを犯し、他者を苦しめ、苦悩からの解放を妨害し、ひいては、苦悩する人々の多い社会の存続となり、自分や自分の子孫に住み難い環境を作ってしまう。自他一如、自分と環境は一如である。こころを病む人を救済する仏教、慈悲は、決して傲慢ではない。指導的立場にある人は慎重に、自分の心の闇を観てほしい。
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