第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング

 

無縁の慈悲=中村元氏

 松本氏や高崎氏は、救済(慈悲)は、エリート主義、差別性ありという。しかし、部派仏教教団が在家の苦悩する人々への救済(慈悲)を忘却したので、初期の大乗仏教をになった人々が、無縁の慈悲を強調した。これは、エリート主義、差別性のなき慈悲である。現代のカウンセラーが担当しているような心の病気、対人葛藤などの苦悩を治療することと同じなのである。それが、エリート主義、差別性ありと言えようか。
 中村元氏の慈悲についての研究を参照する。

対象のない慈悲とは

 「無縁の慈悲」は、対象のない慈悲だという。中村元氏によれば、大乗は「無縁の慈悲」を強調したが、そういう主張がすんなり理解されたわけではない。しかし、大乗の人々は、できると主張した。  無生法忍(禅の悟り体験と思われる)を得ると不退転の境地に入るといわれる。不退転となり諸法の実相を得ると、衆生の苦を知り、あわれむべきことを知り、衆生の苦を空とみないで慈悲に働く方便力を得るというのである。諸法の実相を得ることが、大悲を妨げないという。
 悟りを得ると、空を知るが、衆生の苦を知る方便も得る。衆生の苦をあわれむ方便を得る。結局、無生法忍で、苦のない根源を知るからである。  空は、無我を悟る。救済の援助をする自らは、空であることをはっきり自覚して、我空で動く。しかし、方便力で、衆生の苦を観る、観るがゆえに、そのまま放置しない。自分は無我で、衆生の苦を方便で観て、慈悲を行う。行って行っているという意識を持たない。
 さらに、衆生が苦から解放されるのは、こちらの功績ではなくて、苦悩する衆生の側の潜在力である(実践的にもそうである。衆生側が我を捨てない限り、救われない)ことを知っているのが、悟道者であるから、「私が救う」という意識はない。あれば、無我を悟っていない。

(注)

無縁の慈悲

 だから、エリート主義があれば、それは空の悟りを得ていない者である。空の悟りを得た者には、「高ぶらない」慈悲、エリート主義、差別性がない慈悲がある(充分でない者もいるとは思うが)。
 中村元氏は「ところでこの「無縁の慈悲」というものは、大乗仏教の思想体系においていかなる意義を有するものなのであろうか?」といって、こういう。  人間の行為は熟すれば何事もなしていることを知らぬものである。タバコの禁煙も最初は苦しいが、やがて熟して禁煙し続けて苦しくも無い。やがて、禁煙しているという意識もないが、禁煙は続いている。慈悲も熟せば、慈悲して慈悲している意識がなくなるというのである。しかも、坐禅と動中の工夫を続けた者は、自分の心に、種々の思いが動くのを観ている。もちろん、エリート意識、差別意識も動くのも気がつく。そして、やがて、我空・法空を悟る。それにより、自他不二、無差別・平等の人間の本性を悟る。そこから、エリート意識、差別意識は、真実ではなく染汚の心であることをはっきりと自覚する。自他不二からの慈悲についても中村元氏が考察している。それも参照する。

(注)
 親はわが子の苦しみをほうってはいない。無限に救済の援助の行為をする。そこにさえ、エリート主義、差別性、傲慢はない。
 医者やカウンセラーの中にも、粟野氏のように、いかなる自利にもならないように自己洞察を続けながら、救済の援助をする人がいる。ここにも、エリート主義、差別性、傲慢はない。
 坐禅や仏教の心理学(悪見のところ)は、心の病気などを治癒できるのに、それを知らず勉学せず、そういうことをしないことを自己弁護する学説を強く主張する。自分が坐禅さえしていれば「悟り」だと主張する僧侶は、人を救わない。そういうことが何十年も続くので、誠実な学者から偏見、独断、不毛の議論と批判された。しかし、中村氏などが明らかにするように、大乗の菩薩、一部の禅者は、自分の心の執著を常に観ているという工夫を続けていた。自分の心に、エリート意識、差別意識が起こるのを観て、捨てる。そういう工夫を続ける。そして、悟るのは、我空、法空を悟る。エリート主義、差別のない自己の本性を知る。それで、煩悩がすべて現行しなくなるのではない。さらに自分の心の洞察、煩悩の捨棄が続けられる。終ったと思い、他者を救済しないのは、「慢」や「貪・瞋・癡」がまだある。救済行のために、苦悩する人と会話すると、また、貪・瞋・癡・悪見・慢が起きるであろう。苦悩する人にあいながらの修行が生涯続く。
(5/28/2003、大田)
 
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