第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング
三縁の慈悲、無縁の慈悲
慈悲、救済について、学者の誤解、偏見もあるので、「慈悲」の学問的な解釈を、小川一乗氏(大谷大学)の説明で理解しておく。
三縁の慈悲、無縁の慈悲
小川一乗氏(大谷大学)は、慈悲に誤解があるという。道元には、慈悲が薄いということもいわれるが、それも誤解であると思う。それは、別に考察」したい。
「ところで、大乗仏教の基本精神は慈悲ですが、その慈悲の精神が龍樹の空の思想にはないということを言う人がいるのです。龍樹は空を説いたけれども、慈悲行は説かなかったという、そういうことが一般の通念として言われているようです。さらには、「空を重んじれば悲が軽くなり、悲を重んじれば空が軽くなる」などと言われたりしますが、それはとんでもないまちがいだと思います。空ということが明らかにならなかったら、仏教の慈悲は明らかにならないのです。」(1)
文字で説明されている「空」を自己の心の内に證得すること(「自内證」)が「悟り」である。悟りの強調が、慈悲の軽視というのは誤解である。悟らないと、充分な慈悲が働きださない。慈悲についても、誤解する学者が多い。
(注)
- (1)小川一乗「大乗仏教の根本思想」法蔵館、1998年4刷、435頁。
慈悲の起原
「仏教といえば、慈悲の精神というけれども、いつごろから慈悲ということがいわれ出したのか。なにによっているのかということを、ほとんどの人は確認していないのではないでしょうか。チャンドラキールティの『入中論』の中の説明を見ると、それと同じ説明が、龍樹の『智度論』の中に何回も出てきています。ですから、チャンドラキールティは龍樹の教えに基づいて慈悲の説明をしているということが明らかなのです。したがいまして、大乗仏教の言う慈悲というのは、龍樹の『智度論』に説かれている内容のものであるということができます。」
(1)
「ともかくも、『智度論』において、龍樹が取り上げている慈悲というのは、四無量心ということです。この四無量心から慈悲ということばが遺われ出している。四無量心というのは、悟りを開いた釈尊の心には、慈、悲、喜、捨という四つの無量な心があるというものです。ですから、これは大乗仏教以前からある考え方です。伝統的な説明では、慈というのは楽を与える。悲というのは苦を抜く。そして楽を与えられて、苦が抜かれた姿を見て喜び、あの人の苦を私が抜いてやったのだ、あの人に私が楽を与えてやったのだという、そういう私という思いを捨てるというのが捨です。」(2)
ここに説かれている、「捨」は、上からの慈悲、エリート主義ではない、傲慢ではない精神が説かれている。だから、慈悲を行う人には、確かに、「捨」のない人、無我でない人がいる。慈悲を言うのが、すべてエリート主義、傲慢なのではない。どういう苦が解消すると宣言、説明しなければ、苦悩する人がわからない。慈悲を言うべきである。しかし、慈悲を行う者は、「捨」の実践が伴うものでなければならない。慈、悲、喜、捨も、思想ではない。思想としての理解ならば、何の社会貢献もない。だから、これも、思想ではなくて、体得し、社会へ実現していくことである。修行の未熟な者は、この慈悲喜捨が体現されていない者があるだろう。それならば、エリート主義、傲慢と批判されても当然である。
仏教、慈悲に非はない、エリート主義、傲慢はない。人が未熟なのである。学者は、そこを混同して、仏教を誹謗してはならない。坐禅が空の證得(悟り)、慈悲喜捨の能力獲得・体現に導くのであるから、坐禅、悟り、大乗仏教、慈悲喜捨を否定して、主体的でなく受動的な縁起説のみが仏教であるなどという原理主義的偏見をいうべきではない。人の未熟さを批判すべきである。
「そのように、大乗仏教になって、非常に注目され、大きく取り上げられるようになった四無量心の中に説かれる慈と悲ということが、大乗仏教における慈悲のルーツであろうと思います。」(3)
(注)
- (1)小川一乗「大乗仏教の根本思想」法蔵館、1998年4刷、436頁。
- (2)同上、437頁。
- (3)同上、438頁。
三縁の慈悲
「『智度論』で龍樹は、『無尽意経』に基づいて、慈悲に三種を数えています。衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲という三つの慈悲を説いています。そして、この三縁の慈悲を、曇鸞は『浄土論註』で取り上げて、衆生縁の慈悲は小慈悲である、法縁の慈悲は中慈悲である、無縁の慈悲は大慈悲であるとランクづけをしています。」(1)
「如来の大悲ということがありますが、それはけっして、如来だからその慈悲は大きいのだというようなことではないのであって、大慈悲というのは、無縁の慈悲のことを指しているのです。」(2)
(注)
- (1)小川一乗「大乗仏教の根本思想」法蔵館、1998年4刷、438頁。
- (2)同上、438頁。
衆生縁の慈悲
「この「縁」というのは、「御縁」という意味ではないのです。チベット語やサンスクリットで、このことばを見ていくと、アーランバナということばで、「対象」という意味、所縁のことです。
そうしますと、まず、衆生縁の慈悲というのは、衆生を対象としてはたらく慈悲ということです。つまり衆生が日々の日暮らしの中で悩んで、苦悩している姿を見て、そこにはたらくのが衆生縁の慈悲であるということです。しかし、それはいちばん小さい慈悲だというのです。私たちは、慈悲といったらこの衆生縁の慈悲のことと思っているのではないでしょうか。困っている人を助ける、これが慈悲だと考えているのではないでしょうか。しかし、これは人情となんら変りはありません。」(1)
(注)
- (1)小川一乗「大乗仏教の根本思想」法蔵館、1998年4刷、438頁。
法縁の慈悲
「次に法縁の慈悲というのは、法というのは仏法で、仏の教えを対象としてはたらく慈悲ということです。たとえば、諸行は無常であるという教えに照らし出されると、いつまでも生きていたいという思いや、自己への執著の思いがはっきりとしてくる。つまり、諸行は無常であるという教えに照らし出されることによって、自分の我執の世界が見えてくる。そういうはたらきをなすのが法縁の慈悲です。ここでやっと仏法に出会うのです。衆生縁の慈悲は人情の世界であって、まだ仏法と出会っていない世界であるともいえます。」(1)
(注)
- (1)小川一乗「大乗仏教の根本思想」法蔵館、1998年4刷、439頁。
無縁の慈悲
「それから最後は無縁の慈悲です。これを出離の縁のない者に対する慈悲というように解されるときがあるようですけれども、それは、仏教の教義としてはまちがいで、対象のない慈悲ということです。対象がないということはすでにおわかりのように、空性ということ、空という事実においてはたらく慈悲が無縁の慈悲なのです。」(1)
「だいたい仏教で言う慈悲というのは、無縁の慈悲がいちばんの基本です。無縁の慈悲を抜きにして、衆生縁の慈悲も法縁の慈悲もほんとうは成り立たないというのが、仏教だと思います。困っている衆生がいれば助けるということは、そのかぎりでは人情だけれども、その根底に無縁という、わが身の命の事実をともどもに明らかにしていくという基本線があれば、衆生縁の慈悲も仏道になっていくわけです。しかし、無縁の慈悲がなければ、それは単なる人情に終わるわけです。ですから、小慈悲、中慈悲、大慈悲ということについて、小慈悲は人情の世界、中慈悲は仏道を学ぶ世界、大慈悲は仏道に生きる世界と考えてはどうでしょうか。人情の世界にはたらくのが小慈悲であり、仏道を学んでいるものにはたらくのが中慈悲である、仏道に生きる人にはたらくのが大慈悲である。そういうようにいいますと、法縁から仏道が始まると決めつけることになりますが、もとよりそうではありません。そういうものを踏まえたうえで、無縁の慈悲を根底にして、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲というものを明らかにしていくと、すべてが仏道になっていく、そういうように言えるのではないかと思います。このような三縁の慈悲ということが、大乗仏教における慈悲の基本的な教義ではないかと思います。」(2)
「慈悲」については、中村元氏の詳細な考察があるので、それも参照したい。
大乗の慈悲は、空による慈悲、自他不二(自他平等)の慈悲による。
無縁の慈悲を行える者には、自我を立てて、他人という対象をたてないで、慈悲を行う。「私があなたを救う」ということではない。結局、エゴイズム、二元観を自己が超えていかない限り救いはない。指導者は救えない。比較がないから、エリート主義も差別もない、「俺が救う」という観念がないから、傲慢もないだろう。
中村元氏の考察を参照して、さらに考える。
(注)
- (1)小川一乗「大乗仏教の根本思想」法蔵館、1998年4刷、439頁。
- (2)同上、439頁。
(研究を離れて)
自己洞察にうすい自分の偏見ですべての人間を浅く解釈してしまうような知性、学解の不遜さから「人間の根底への不信」を持つ学者が、誠実な大乗の精神を否定してはならないだろう。時代と国に制約されて、カースト制のあったインド大乗仏教や、封建社会で発展した中国禅、日本禅にも、エリート主義、差別性も混入しているだろう。しかし、大乗や禅は、無縁の慈悲という誠実な実践も強調した。それを批判し、捨てる学者、評論家が、今、それ以上の思想の何を提供できるというのだろうか。
未熟な禅者(自分を含めて)が多い。未熟なところは、その人の、その未熟なところを批判してほしい。先入見や好き嫌いで、誠実な実践的仏教そのもの、臨床的仏教・臨床的禅そのものを否定しないでほしい。学問・研究は、厳密であってほしい。自己の先入見や感情などを優先せずに、事実を解明してほしい。学者は、それを期待されているエリート(経典研究の専門家であり、経典を読む能力がすぐれていると自他ともに認める)である。
次のテーマは、別に考察」したい。
- 道元には、慈悲が薄いということもいわれるが、それも誤解であると思う。
- 四無量心。
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