第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング

 

三縁の慈悲、無縁の慈悲

 慈悲、救済について、学者の誤解、偏見もあるので、「慈悲」の学問的な解釈を、小川一乗氏(大谷大学)の説明で理解しておく。

三縁の慈悲、無縁の慈悲

 小川一乗氏(大谷大学)は、慈悲に誤解があるという。道元には、慈悲が薄いということもいわれるが、それも誤解であると思う。それは、別に考察」したい。  文字で説明されている「空」を自己の心の内に證得すること(「自内證」)が「悟り」である。悟りの強調が、慈悲の軽視というのは誤解である。悟らないと、充分な慈悲が働きださない。慈悲についても、誤解する学者が多い。

(注)

慈悲の起原

 ここに説かれている、「捨」は、上からの慈悲、エリート主義ではない、傲慢ではない精神が説かれている。だから、慈悲を行う人には、確かに、「捨」のない人、無我でない人がいる。慈悲を言うのが、すべてエリート主義、傲慢なのではない。どういう苦が解消すると宣言、説明しなければ、苦悩する人がわからない。慈悲を言うべきである。しかし、慈悲を行う者は、「捨」の実践が伴うものでなければならない。慈、悲、喜、捨も、思想ではない。思想としての理解ならば、何の社会貢献もない。だから、これも、思想ではなくて、体得し、社会へ実現していくことである。修行の未熟な者は、この慈悲喜捨が体現されていない者があるだろう。それならば、エリート主義、傲慢と批判されても当然である。 仏教、慈悲に非はない、エリート主義、傲慢はない。人が未熟なのである。学者は、そこを混同して、仏教を誹謗してはならない。坐禅が空の證得(悟り)、慈悲喜捨の能力獲得・体現に導くのであるから、坐禅、悟り、大乗仏教、慈悲喜捨を否定して、主体的でなく受動的な縁起説のみが仏教であるなどという原理主義的偏見をいうべきではない。人の未熟さを批判すべきである。

(注)

三縁の慈悲

(注)
衆生縁の慈悲
(注)
法縁の慈悲
(注)
無縁の慈悲
 「慈悲」については、中村元氏の詳細な考察があるので、それも参照したい。 大乗の慈悲は、空による慈悲、自他不二(自他平等)の慈悲による。
 無縁の慈悲を行える者には、自我を立てて、他人という対象をたてないで、慈悲を行う。「私があなたを救う」ということではない。結局、エゴイズム、二元観を自己が超えていかない限り救いはない。指導者は救えない。比較がないから、エリート主義も差別もない、「俺が救う」という観念がないから、傲慢もないだろう。
 中村元氏の考察を参照して、さらに考える。

(注)
(研究を離れて)
 自己洞察にうすい自分の偏見ですべての人間を浅く解釈してしまうような知性、学解の不遜さから「人間の根底への不信」を持つ学者が、誠実な大乗の精神を否定してはならないだろう。時代と国に制約されて、カースト制のあったインド大乗仏教や、封建社会で発展した中国禅、日本禅にも、エリート主義、差別性も混入しているだろう。しかし、大乗や禅は、無縁の慈悲という誠実な実践も強調した。それを批判し、捨てる学者、評論家が、今、それ以上の思想の何を提供できるというのだろうか。
 未熟な禅者(自分を含めて)が多い。未熟なところは、その人の、その未熟なところを批判してほしい。先入見や好き嫌いで、誠実な実践的仏教そのもの、臨床的仏教・臨床的禅そのものを否定しないでほしい。学問・研究は、厳密であってほしい。自己の先入見や感情などを優先せずに、事実を解明してほしい。学者は、それを期待されているエリート(経典研究の専門家であり、経典を読む能力がすぐれていると自他ともに認める)である。

 次のテーマは、別に考察」したい。
 
このページの本アイコン、ボタンなどのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」