もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
仏教学・禅学の批判

大乗の慈悲=中村元氏

 大乗の「慈悲」について、中村元氏の研究を見る。 無縁の慈悲(138)対象がなければ救わない?(1)中村元「大乗仏教の思想」(中村元選集21)春秋社、1995年、136頁。 利他を修めて、自利の心なし(110)
自分の苦、他者の苦を見る(113)苦の共感(106) 慈悲は苦を脱せしむ(117) すすんで地獄に入る(122) 無縁の慈悲(138)対象がなければ救わない?(1)中村元「大乗仏教の思想」(中村元選集21)春秋社、1995年、136頁。
  • 上下のない慈悲(1)中村元「大乗仏教の思想」(中村元選集21)春秋社、1995年、152,168頁。

    (注)

    慈悲が悟りを生む

    慈悲が悟りを生む(1) 自分には、過酷(2)

    (注)

    慈悲の起原

     ここに説かれている、「捨」は、上からの慈悲、エリート主義ではない、傲慢ではない精神が説かれている。だから、慈悲を行う人には、確かに、「捨」のない人、無我でない人がいる。慈悲を言うのが、すべてエリート主義、傲慢なのではない。どういう苦が解消すると宣言、説明しなければ、苦悩する人がわからない。慈悲を言うべきである。しかし、慈悲を行う者は、「捨」の実践が伴うものでなければならない。慈、悲、喜、捨も、思想ではない。思想としての理解ならば、何の社会貢献もない。だから、これも、思想ではなくて、体得し、社会へ実現していくことである。修行の未熟な者は、この慈悲喜捨が体現されていない者があるだろう。それならば、エリート主義、傲慢と批判されても当然である。 仏教、慈悲に非はない、エリート主義、傲慢はない。人が未熟なのである。学者は、そこを混同して、仏教を誹謗してはならない。坐禅が空の證得(悟り)、慈悲喜捨の能力獲得・体現に導くのであるから、坐禅、悟り、大乗仏教、慈悲喜捨を否定して、主体的でなく受動的な縁起説のみが仏教であるなどという原理主義的偏見をいうべきではない。人の未熟さを批判すべきである。

    (注)

    三縁の慈悲

    (注)
    衆生縁の慈悲
    (注)
    法縁の慈悲
    (注)
    無縁の慈悲
     無縁の慈悲を行える者には、自我を立てて、他人という対象をたてないで、慈悲を行う。「私があなたを救う」ということではない。結局、エゴイズム、二元観を自己が超えていかない限り救いはない。指導者は救えない。比較がないから、エリート主義も差別もない、「俺が救う」という観念がないから、傲慢もない。
     「慈悲」については、中村元氏の詳細な考察があるので、それを参照したい。 (注)
     自己洞察にうすい自分の偏見ですべての人間を浅く解釈してしまうような知性、学解の不遜さから「人間の根底への不信」を持つ学者が、このような誠実な大乗の精神を否定してはならないだろう。時代と国に制約されて、大乗仏教にも、エリート主義、差別性もある部分があるだろう。しかし、無縁の慈悲という誠実な実践も強調した。それを批判し、捨てる学者、評論家が、今、それ以上の思想の何を提供できるというのか。
     未熟な禅者(自分を含めて)が多い。未熟なところは、批判してほしい。浅い了見で、誠実な実践的仏教、臨床的仏教・臨床的禅を否定しないでほしい。

     次のテーマは、別に考察」したい。 (参考)(詩もどき) わたしが救う
     
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