第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング

 

無所得・無所悟=大智度論

「證得」したものはすべて超えてゆけ=『大智度論』

 大乗仏教は、みな、実践を重視しており、思想の了解ではなくて、人格上の実現を要求した。無住処涅槃、無所得無所悟(道元禅師も、これを言う)、空も空、慈悲行(実践)の強調などで、現している。
 竹村牧男氏は、「般若心経」が、そうであることを明らかにしたが、『大智度論』(龍樹作)の「空も空」ということで、それを確認しておく。

 「空を学するのと、空に入るのと、どのような差別がありますか」という問いに対する答えの中に、次の答えがある。  初め「空を学す」というから、初めのころから、「空」についての、文字での理解は果たされている。さもないと、学することはできない。そして、学するという因によって、「空に入る」という結果を得る。すなわち、しばらく学して後、空に入る。最初から、空に入るのではない。
 さらに、「なぜ菩薩は、この法を行じて、しかも涅槃の證を取らないのですか」という問いに対して、次の答えがある。「證を取らない」ということは、「ここが仏法の悟り、つまり、究極だ」と思って、そこに執著して、そこに留まることである。その趣旨は、仏道には、もっと、先があるのに、浅い段階に留まり、苦悩する他者を救わないことを批判するのである。    声聞、辟支仏(小乗とされる)は、無我になると、(生にも他者を救う、などの)愛著を捨てて、自分の涅槃に入る。しかし、菩薩は、空(無我)に入っても、そこを愛著しない。
 菩薩は禅定に入って後、智慧を得る。修行しているうちに、一念をも留めざるに至り、直に畢竟空の中に入るのである。空を学解したのではない。学問的、思想的了解ではない。「空」は対象的な何かを見るのではなく、空に入るのであるから、證する所が無い。「空に入る」のは、体験であり、得るのではない(無所得である)。対象的なものを見たのでもないから、「證」するのではない。「證」とするようなものは見ない。
 「深く空に入るが故に」という。空に入るから、無我に入るのである。無我に入るから、見る主体はなく、従って対象的に見られるもの、思想的な「空」もない。「空もまた空なること」を知る。また、その時には思想的な、対象的な、感受されるような「涅槃」もなく(空)である。「涅槃もまた空」であるから、證する所が無い。

 禅でも、自己を忘じるといわれるが、自己が何かを見る(そうであれば、自己と客観が対立していて無我ではない)ようなことではないことをうかがわせる。

 これで最高のものを「證得」したと思うと、仏道の向上につとめることを中止してもよいことになる。しかし菩薩は、どこにも「證」を取らない。「一切衆生に苦を離るること」を得させようするためである。つまり、仏道は、それ以外のところで、「證」して終るのではない。この段階は師以外の他者とのかかわりが生じて難かしい修行研鑚が要求される。
 これが、『大智度論』(般若経の註解である)、つまり、般若経典の「無所悟(證)」の主張である。たしかに、自分だけが悟るのは、やさしい。他者の苦悩を救うのは、実に難しい。空で悟ることが「自他一如」であるならば、他者を救うことをしないで、その前で、仏道が終るというのは不完全である。
 大乗仏教は、次のような仏道の階位を主張する。坐禅(修行)が悟りであるという主張は、いかに、程度の浅い自利だけの思想であるかが大乗から批判されるであろう。もちろん釈尊は、解脱・成道の後、他者の救済に生涯働き続けた。

新発意菩薩 久発意菩薩
不退転菩薩
一生補処菩薩
発心 面授
(師に会う)
修行
(坐禅など)
自分の苦の解決 無生法忍
(見性体験、悟)
地上(悟後)の修行
(方便など)
慈悲行
(他者の苦の解決)
一生補処菩薩

 「無住処涅槃」に引用した文にも「證を取らず」の語がある。  なお、「空に入る」というのは、無生法忍を体験することである。『大智度論』には、無生法忍について多数の箇所で述べられている。次の記事で、それに触れている。無生法忍を得ると「不退転菩薩」になるというほどに、仏道の階位において、きわめて大きな転機である。おそらく禅でいう「見性体験」であると思われる。悟りを得た者は、そう主張するようであるが、学問上は解明されているとはいい難い状況である。仏教や禅の学問は、まだ、解明していないことが多い。  なお、ここには、「無所得・無所悟」のうち、「無所得」には、少ししか、ふれていない。それは、『大智度論』の別なところに論じられている。

(注)

(現代的意義)
 多くの僧侶や、道元禅を研究する学者は、道元が「無所得・無所悟」というのを、「坐禅のみが悟りで、悟りの体験はない」と解釈して、悟りの否定を主張しているが、このように『大智度論』に、道元の「無所得・無所悟」と同じものがある。無所得・無所悟(證)といっても、証(證)体験がないという意味ではない。道元は、龍樹を尊敬しており、道元と龍樹は通じる考えが多い。道元が無所得・無所悟というのは、龍樹のいう意味である可能性が高い。ほかの点でも似た考えが多いからである。
 坐禅は「安楽」だから、それでいいのだ、「坐禅が悟りだ」というのは、浅い段階で、證(および、安楽の喜び、貪り)を取ってしまう執著なのである。仏道の全行程を知っていないと、浅いところで「これが證だ。これが究極だ」と勘違いして、その先へ進もうとしない。だから、仏教経典は、「仏道の階位」を教えてきた。道元禅師が経典も尊重する意味が、ここにある。
 経典を読むだけでわかった気になる(学者のようなもの)、坐禅して心が平安になってそれが悟りだと勘違いする(「伝統宗学」のようなもの)、見性体験してこれが究極だと思いたがる(見性体験さえすれば最高だと勘違いして、弟子を見性させることだけに熱心になり、世間の苦しむ在家救済をしない)。そうすると、苦悩する他者の救済を見捨てて、それぞれ「證」だと勘違いしたところだけを他の人(苦悩する人ではなく、苦悩しない学生、苦悩しない僧侶たち)に教えようとする。みな、違う。もっと先がある、思想的了解、坐禅、見性体験、などを重視せずそれをも超えて(実践もせず否定ではなく、経験して後、さらに越えていく)、苦悩する人を救うという難しい段階がある、と「大乗仏教の階位」は教える。もちろん、後継者の育成は必要であるが、それを口実に衆生の救済の段階を軽視してはならない。
 道元禅師にも、大乗仏教の階位と同じものがある。道元禅師は、悟道の後の救済行、言葉にすること(「道得」という)を強調している。坐禅すれば終わりとは言っていない。それが、僧侶からも、学者からも無視(自分に不利なもの、嫌いなものが見えない心理、無視・否定する心理)されてきた。
  (6/16/2003、大田)
 
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