もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
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仏教学・禅学の批判
無住処涅槃についての学説
十二縁起説だけが仏教ではない、坐禅だけが道元ではない、信だけが道元ではない、悟りだけが道元ではなく、白隠ではない。
中国の禅僧を道元は批判することが多い。なぜか。
白隠は、仏にならず地獄へ行くという。なぜか。
道元や白隠の仏道を理解するための手がかりになる一つが、大乗仏教の「無住処涅槃」である。
無住処涅槃=大智度論
現代人にピンときて、すぐ実践できるようでもないが、個人に応じて、問題に応じて、修行法を変えるべきという言葉を抽出する。
因縁観も、貪瞋痴を抑制するという修行の初期段階に用いられている観法であるので、十二縁起は初心者にも簡単に理解、観察されることである。初歩段階である。
大智度論
『大智度論』巻1では、ある病気には、薬であっても、他の病気には、薬とはならないように、「仏法の中にて心病を治するもまたかくのごとし。」と言って、おおよそ、次の対機指導が主張されている(1)。
- (A)貪欲病には、不浄観を用いる。不浄観は、瞋恚病には効果がない。理由は、身の過失を観ずるのが不浄観であるから、もし瞋恚の人が過失を観ずれば、瞋恚の火をますからである。
- (B)貪欲病には、慈心を思惟する観法を用いる。慈心は、貪欲病の人には害となる。理由は、慈心は衆生の中において好き事を求め功徳を観ずるものだから、もし貪欲の人が好き事を求め功徳を観ずれば、貪欲をますからである。
- (C)愚痴病には、因縁観を用いる。因縁観は、貪欲病、瞋恚病の人には害となる。理由は、先に邪観するために邪見を生じる。邪見は愚痴であるためである。
- (D)常に著する顛倒の衆生は、諸法の相似相続を知らないから、無常観が効果がある。
これについて、中村元氏は、こういう。
「ナーガールジュナは慈心というものを個別的な一種の精神療法と考えている。すなわち怒りっぽい人には慈心を涵養させる必要があるが、貪欲のあり人が慈心を起こすとかえって貪欲を増すからいけない、というのである。」
「この見解は天台宗はじめシナの仏教にも継承されている。
右の立言は慈しみが貪欲とつながるものがあるという事実を明らかにしている点で興味がある。慈しみとは人間的な愛情にもとづいているが、人間的な愛情は同時に欲情に転化する危険をはらんでいるのである。」(2)
(注)
- (1)大智度論、大正、25巻、60a-b。
- (2)中村元「大乗仏教の思想」春秋社、1995年、149頁。
(臨床的な禅、すなわち、禅の実践指導)
仏教や禅の初心者は、貪・瞋・痴などで何か悩みを持つ場合がある。その場合には、その個人の悩みに効果のある坐禅法を指導すべきであることになる。そうでないと、高度な坐禅修行に進むことが難しい。
また、すべての人に、悟れ、そして、他者を救済せよ、慈悲行を行え、と説法するのも在家仏教の場合には、弊害があることがある。貪欲の大きい者が、それを聞いて、自分の貪欲を充分に自覚しないうちに途中で修行をやめて、世の為、救済のためと称して、自己の財欲、名誉欲など種々の貪欲をまして、社会を害する行動をするおそれがある。仏教や禅を己の欲望達成の手段に利用するのである。偏見ある学説を主張して己の名誉欲などを満足させるとか、カルト教団の設立をするなどがその例であろう。誰にでも同じような仏教、禅指導では問題がある、というのである。
このようなことは、現代でも真理であるから、仏教や禅の指導者は、その個人をみて、対機指導しなければならないのだろう。在家仏教であるから、その人を手元で生涯、指導するのではなくて、自己都合で勝手にやめていくから問題が生じる。
学者が知識を教えるのと違って、禅の実践指導は臨床的な治療の現場であるので、独特の難しさがある。
(十二縁起のみが仏教という説に対する批判)
龍樹が、「愚痴病には、因縁観を用いる。因縁観は、貪欲病、瞋恚病の人には害となる。理由は、先に邪観するために邪見を生じる。邪見は愚痴であるためである。」というような趣旨からわかるように、十二縁起(因縁)は、愚痴病の初心者でも習わせるものである。これのみが仏教であるはずがない、というのが龍樹の主張からもわかる。
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