第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング
無住処涅槃=大智度論
十二縁起説だけが仏教ではない、坐禅だけが道元ではない、信だけが道元ではない、悟りだけが道元ではなく、白隠ではない。
中国の禅僧を道元は批判することが多い。なぜか。
白隠は、仏にならず地獄へ行くという。なぜか。
道元や白隠の仏道を理解するための手がかりになる一つが、大乗仏教の「無住処涅槃」である。
無住処涅槃=大智度論
大乗仏教は、般若経でも、唯識(ゆいしき)でも、自利(自分の喜びで満足する)をとって修行を終わりとせず、利他行を実践することを強調した。その一つが「無住処涅槃」(むじゅうしょねはん)である。
『大智度論』は般若経(大品般若経)の注釈書である。龍樹作と言われていたが、ラモット氏がこれを否定した。しかし、その反論も多く、三枝充悳氏や武田浩学氏が、やはり、龍樹作とみてよいとされる。
『大智度論』は、無住処涅槃を説く。
『大智度論』は不住涅槃を説く
武田浩学氏は、『大智度論』を詳細に点検してみて、『大智度論』には、一貫して「不住涅槃の思想」(「無住処涅槃」)が説かれていると結論された。
「要するに、『大智度論』全体を精査した結果からは、この「不住涅槃の思想」以上に『大智度論』が執拗に言及している思想は無い、と断言できるのであり、『大智度論』を一貫する主題は「不住涅槃の思想」であると見てよいのである。」(1)
『大智度論』が無住処涅槃について説いている文の一例をあげておく。
「慈悲は是れ仏道の根本なり。所以いかんとなれば、菩薩は衆生が老病死の苦、身苦、心苦、今世後世の苦等の諸苦の悩むところを見て大慈大悲を生じ、是の如きの苦を救って、然る後に発心して、阿耨多羅三藐三菩提を求む。また大慈悲力を以ての故に、無量阿僧祇世の生死の中において心厭没せず、大慈悲力を以ての故に、久しくして涅槃を得べくして而も證を取らず。是を以ての故に、一切諸仏の法の中にて慈悲を大と為す。若し大慈大悲なければ便ち早く涅槃に入る。
また次に、仏道を得る時、無量甚深の禅定、解脱、諸の三昧を成就し、清浄の楽を生ずるも、棄捨して受けず、聚落城邑の中に入って、種種の譬喩因縁もて説法し、其の身を変現し、無量の音声もて一切を将迎し、諸の衆生の罵詈誹謗を忍び、ないし自ら伎楽をなす、みな是れ大慈大悲の力なり。」(2)
坐禅が悟りだととどまってもいけない
次は、坐禅が悟りだといって、自分だけの喜びを取らない、という。坐禅のみが悟りだといって、世間の人々の救済をしない、ことを批判するのが、龍樹である。道元は龍樹を尊重している。
「仏の智慧のよくする所は、遍く知る者あること無し。大慈大悲の故に、世世に身命を惜しまず、禅定の楽を捨てて、衆生を救護したまふは人みなこれを知る。仏の智慧においては比類して知るべく、了了と知ることあたわず。」(3)
もし、仏教が他者の救済を重視したにであるとすれば、無住処涅槃は当然の要請である。なぜなら、人々の苦悩は尽きない。現代でも状況は変らない。出家が、自分では悟りを得た、もう何もすることがない、と思うのがいかに無慈悲、非非情なことであるか。世間には、多くの苦悩する人々がいる。その苦悩の解決の援助に働け、苦悩がなくならない限り、自分の喜びはない。これが、大乗の無住処涅槃である。道元禅師も白隠禅師もそれを強調したのである。
(注)
- (1)武田浩学「『大智度論』を一貫する主題は「不住涅槃の思想」ではないのか」(『印度仏教学研究』98号、平成13年3月、297頁)
- (2) 『大智度論』大正、25巻、256c。
- (3) 『大智度論』大正、25巻、257a。
(臨床的な禅、すなわち、禅の実践指導)
仏教者は、信、解(思想の分別による理解)、行(坐禅など)、證(悟り)、のどれを得(あるのであるが)ても、その喜びに執著して、それに留まり、他者の救済を怠るな、という。世間には、苦悩する人が多いのだから、自分だけの喜びでよしとするな、というもっともな注意である。これを否定するのが、信の仏法、坐禅が悟り、仏教は思想であり学解でわかるという、学者や禅僧である。「おれは病気ではないから、社会に医者は不要である。医者の行為など、ありえない」というようなものである。
仏教や禅で、世間の人々の苦悩のカウンセリングをしていた。それを解明し、現代でも、それを実行することができる。それを解明して行くのが「臨床仏教学・禅学」である。
(道元の悟りは坐禅のみ説に対する批判)
道元禅師が「無所得・無所期(悟)」というのを、悟りがないという意味だと解釈する人がいるが、そうではなくて、無住処涅槃、どの喜びをも取らない、どのような境地をも得たと執著しないで、慈悲行に働くのが、仏道だという主旨である。悟り(見性体験)がないわけではない。
(十二縁起のみが仏教という説に対する批判)
十二縁起(因縁)は、愚痴病の初心者でも習わせるものである。これのみが仏教であるはずがない、そんな浅いところで仏教がわかったつもりになって喜んで、世間の人々の苦を見捨てる。それが釈尊の仏教であるはずがない、というのが龍樹の主張からもわかる。
(6/11/2003、大田)
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