第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング

 

教義の思索だけ、坐禅だけの僧侶批判=大乗からの批判

 部派仏教教団が、自分たちだけこもって坐禅修行したり、教義の研究に専念して、在家の苦悩する人々への救済(慈悲)することを忘却したので、初期の大乗仏教をになった人々が、それを批判して慈悲を強調した。
 医者やカウンセラーのように、心の勉強をしているのに、他者のカウンセリングを行わない状況に相当する。社会からお布施をもらって生きているのに、社会にはお返しをしないのかという当然の批判が大乗なのである。組織内の自分たちだけの生活維持になっていた。現代の宗教や学問が似た状況になっている。僧侶や仏教研究者がおこなわず、臨床心理士などのカウンセラーが有料で行っている部分が、仏教の目標とした領域と重なる。

部派仏教教団は人々の救済を忘れて研究に没頭した

 静谷正雄氏は、大乗仏教が起こった背景を次のとおり説明している。

(注)
 インドの部派仏教(小乗)教団は、研究に専念して、苦悩する世間の人々を忘却した。日本では、道元禅師の時代の伝統仏教教団は、寺院内での教学研究か、修行に専念するのみで、一般民衆に接触せず、貴族と接触するのみであった。そういう状況を批判して、「利他・慈悲の強調」をしたのが、インド大乗であり、道元禅師であった。
 今の仏教学者も、研究に専念して、苦悩する世間の人々を忘却しているといえなくもない。その学者が、慈悲(カウンセリングである)を否定するのだから、迷いが深い。日本の精神的、社会的問題が解決するはずがない。仏教や禅が担当していた領域では、世間の人々を臨床的に救済援助(慈悲)しているのは、カウンセラーや精神科医である。そしてごく一部の僧侶である。仏教学者は、研究のみである。個別的・臨床的救済は全くしていない。そういうあり方を否定したのが、大乗や道元の利他・慈悲の強調だった。
(5/25/2003、大田)
 
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