第1部:
苦の解決手法=仏教経典による検証
研究メモ1部
4部
5部
煩悩の捨棄(大乗仏教=唯識・華厳・大智度論・中国天台)
仏教は、「煩悩」を捨てよ、という。これが誤解されている。生きるのに必要な欲まで捨てることを意味すると思っている誤解が多い。そうではなくて、自分や他者を傷つけるエゴイズムを捨てよということである。
坐禅するのみとか、縁起思想を対象的に思惟するのみではなくて、エゴイズムの捨棄という人格的な向上が要請されるのが仏教である。だから、釈尊は持戒と禅定をすすめた。大乗仏教もこの基本は変わらない。
道元の仏道は禅が悟りで、それ以外の目的はない、といわれることが多いが、それは、一面観に落ちた解釈である可能性がある。大乗仏教は、煩悩を断じて、涅槃と菩提を得る、というが、その伝統仏教とほど同じことを道元が言っている言葉もある。
坐禅するのみとか、縁起思想を対象的に思惟するのみで、それ以外の生活が煩悩まみれでよいとは大乗仏教は言わない。煩悩にあたるものは、認知行動療法では、固定観念や認知のゆがみといわれている。こういうものを強く発動すると、自分は心の病気になり、他者を攻撃、差別し、ひどい場合には、非行、犯罪を犯す。たとえば、「悪見」は、多くの心の病気にあり、「貪」は依存症、過食症などの心の病気、金を得られない限り何もしない学者・評論家・著名人にあり、「瞋」は、人格障害などの一部にあり、批判者を怒る学者、宗教者にあり、「貪・瞋・癡・慢・悪見」などは、他者を差別、排斥、いじめる者、独裁者、カルト宗教者、犯罪を犯す者の一部にある、というごとくである。
こういう煩悩が社会を害し、多くの人を苦悩させる。だから、煩悩(エゴイズムの心理である)を捨てよと仏教は強調したのである。道元も煩悩の捨棄を強調している。それなのに、学問の名で否定する動きが強い。坐禅が悟りとか、縁起の思惟のみが仏教であるというのは、偏見である(1)。
煩悩の捨棄は難しいが、自分には難しい(自分には不利だ)から否定しようという(意識的、無意識的に)のは学問ではない。これを野放しにしては、自分や他者を害するので、煩悩の捨棄の努力をしなければならない。煩悩の捨棄、修正は、臨床心理学でもあきらかにされてきた。それをいうのは、自分でそれを守らなければならなくなるから、仏教、道元禅ではないことにしよう、というのでは、自己都合、自己関連付けである。釈尊や道元がそう主張したということ、学問的真理をあきらかにしなければならない。煩悩の問題は、エゴイズムから起きている現代社会の諸問題の根源をいいあてているのである。
煩悩の捨棄(大乗仏教)
唯識説
煩悩(三毒、六煩悩、十煩悩)
伝統仏教では煩悩を断ずることを目標としていた。それが達成されることが、悟りであり、涅槃と菩提を得ることである。道元にもそういう言葉がある。
原始仏教でも、煩悩の捨棄を言うが、倶舎論では「迷理惑」(見惑)と「迷事惑」(修惑)の二つを言った。二種の煩悩を除くのを目標とするが、まず、見道によって、煩悩や我見などの見惑を除くことを目指している。その後、修道で、微弱な惑を除いていく。倶舎論でも、アビダルマ論書でも、煩悩などを実体視してしまって、法執を除くということが軽視され、他者の苦悩を救うことをせず涅槃に入ることが目標とされた。
大乗仏教では、煩悩の捨棄や、二障を言うが、定義が異なる。煩悩障と所知障という。
大乗仏教が、煩悩(それぞれの煩悩をさらに煩悩障・所知障の二障に分けて分析する)を除くことを目標にしていることを確認しておく。まず、唯識説では、深浦正文氏の「唯識学研究 下」および竹村牧男氏の「唯識の探求」「唯識の構造」によって、概観する。
10種の煩悩と20種の随煩悩
唯識説は、不善(悪)の心によって、業(行為)を起こし、自分の苦を生じたり、他者を苦しめるのだと分析している。惑・業・苦の教説である。惑は、煩悩である。煩悩には、特に強いものを十あげて、根本煩悩とする。それを「本執」ともいう。貪・瞋・癡・慢・疑・薩伽耶見(我見)・辺執見・邪見・見取・戒禁取の十である。薩伽耶見(我見)から戒禁取までの五を「悪見」という。悪見を一つとみて、六煩悩(貪、瞋、癡、慢、疑、悪見)とすることもある。
「貪」(とん)は、むさぼりである。迷いの世界のものに執著することで、求めても得られず苦をもたらす。
「瞋」(しん)は、憎しみ怒ることで、心の不安と悪行につながる。
「癡」(ち)は、おろかさで、真実在と諸現象に関し何ら了解するところがないこと。無明ともいい、一切の惑や煩悩の初めにあって、それらを導くものである。
「慢」(まん)は、思いあがりの心である。自己を他に比べて、自己の優越意識を確保しようとする心理作用である。自分と他者を比べて自分をすぐれているとし、他の人をあなどる心である。七つの慢がある。慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢である。
「疑」(ぎ)は、仏教の種々の真理の教えに関し、理解しえず猶予すること。(2)
五つの「悪見」
「悪見」を詳細に見ておく。「悪見」は六煩悩(貪、瞋、癡、慢、疑、悪見)のうちの一つである。悪見は、顛倒の見であり、五つに分類される。薩伽耶見(我見)、辺執見、邪見、見取、戒禁取である。
「我見」(薩伽耶見)は、五蘊和合の仮者(自分の心身)を常一主宰の我身と執着する、「我身の執」と、さらに、その身に付属する人、物を固持して我所有と執着する「我所有の執」とに区分される(3)。自分と自分のものにこだわる心作用、我執である。空、無我のうえに成立している身心に対し、これこそが実の我、これはその我に所属するものと誤った考えを持つこと。
「辺執見」(偏見ともいう)は、一辺に固執するかたよったものの見方である。誤って我と執著したその我に対し、あるいは常なるもの、あるいは断滅するものとする顛倒の見方。
「邪見」は、因縁果の法則を無視した考え方である。他の四見に該当しない邪執はすべて邪見とされる。
「見取見」(見取)は、自分の考え方、主義や主張、イデオロギー等を絶対視し、固執することである。自己の見解を固執し、他人の見解を否定するから、諸々の諍論、対立をひきおこす。
「戒禁取」とは、仏道の目標達成になる正しい戒、律など以外の実践、戒律を、正しい戒律であると主張し執著することである。また、それを行う者を勝れて正しいとする誤った見解。要するに誤った「宗教の実践」に対する執著のことである。
20種の随煩悩は別に記載する。
二執(我執・法執)と二障(煩悩障・所知障)
10種の煩悩と、20種の随煩悩のそれぞれに、二執と二障の区別がある。二執は、我執と法執である。「我執」は、実の有情ありと執ずる実我の盲見で、すべての煩悩を引き起こすもとたるものである。「法執」は、実の諸法ありと執する実法の盲見であり、真実のありようを知ることをさまたげる。この二つとも、五つの悪見のうちの、薩伽耶見(我見)であり、常一主宰の我ありと盲執して、その体に迷うのが法執で、その用に迷うのが我執である(4)。
二障は煩悩障と所知障である。煩悩障は、能取の取(主観への執着)で、我執によって起こる根本煩悩・枝末煩悩のことで、所知障は、所取の取(対象への執着)で、法執によって起こる根本煩悩・枝末煩悩惑のことである。我執とは、あるものの体を認めた上でその用に対して執されるものであって、法執とはその体を執するものである。故に法執なき我執はありえず、我執なき法執はありうる。煩悩障が、涅槃を得るのをさまたげ、所知障が菩提の證得をさまたげる。(5)。
所知障と煩悩障とは貪・瞋・癡・慢・疑などのあらゆる煩悩の一つ一つすべてにそなわっている。たとえば、肉体へ貪りをおこす場合、所知障がはたらいて肉体そのも(法の体)を実体視し、同時に煩悩障がはたらいて肉体の作用(法の用)の上にわたしというものを設定する。(6)
思想の了解と現実化とは別物
『成唯識論』は、煩悩障を「有情の身心を擾悩(にょうのう)」するもの、所知障を「所知の境と無顛倒の性を覆」うものとする。煩悩障は、本人に情的な苦悩の自覚がある。所知障は、知的な迷いであり、知られるべきものを知らせぬ働きであり本人には苦悩の自覚がない。しかし、その無知を強引に押し通す時、他者を苦悩させることがある。
竹村牧男氏は、二障の意義について、次のように述べている。般若心経の「空」についての所見であるが、縁起などの仏教の教説もすべてである。縁起ゆえに空ともいうが、縁起や空を思想的に理解しただけでは、我執も法執も断じていない。仏教は、思想的了解ではなくて、体現化を目標としたのである。きれいごとを言うばかりの人を重視したのではなくて、実際の人格のようなことと実際の救済能力が重視されたのである。
「『般若心経』は、諸法は、空性を特質としており、したがって、不生不滅・不垢不浄・不増不減であるといいます。このことに関して、事物には実体がなく、実体がないので生・滅などないとその理路を理解することができます。しかし、この理解はあくまでも理解であって、真に空や不生不滅等に徹した立場ではありません。空を対象的に了解したとしても、それだけで自己と世界の空が真実、体現されたとはいえず、了解する自己というものが無意識のうちに実体的に残存しています。本当に空そのものに徹したとき、不生不滅の当対に一如しますが、それは活動してやまない生命の先端であり、色を見、音を聞き、しかも跡をとどめず、主体のままにあります。そこに無心の自己がいて、無相の世界があります。自己と世界と分れる以前の一真実の世界があります。そこはつかまえられず、不可得です。しかも活発発地に作用してやまないことでしょう。」(7)
頭のよい僧侶や学者は、縁起や無我を学んで、実体としての自分はないが現象としての自分(我)はある、と理解して、「悟り」を否定し、仏教がわかった気でいることが多いであろうが、それも違う。
「実体的存在ではないが現象としての自分(我)はある、という了解・認識は、現象とはいえやはり自分というものを対象的に設定して、主語として立てて、それに対して述語するという形になっています。何らか我というものが対象的に把握されています。しかし本来の自己は、単に対象化されたものではなく、むしろ主体の側、対象化されない側にあるでしょう。この生きているかけがえのない自己に即して、その自己そのものは、決して対象化されえないわけです。」(8)
「ただそういう了解・理解は、空ということを対象的に了解した立場であって、本当の意味で「不生不滅」等になりつくした立場ではありません。空ということが了解されているだけで、それが現実化しているわけではありません。空ということを対象的に了解している当の主体そのものが、まだ空化されずに残っている立場です。本当に自己そのものも空になりつくしたところは、八不のただ中というべきところです。」(9)
思想の理解だけではなくて、実際に二障を断じた人でないと、「苦しみ悩める人々に関わっていく」ことができないという。そこに修行の必要性がある。
「我執に発する煩悩(煩悩障)を断じ尽くせば生死輪廻から解放されて涅槃に入ります。しかしただそれだけです。法執に発する煩悩(所知障)をも断じ尽くせば、菩提(覚りの智慧)が実現して、本来の生命の可能性を十分に発揮していくことができ、苦しみ悩める人々に関わっていくことができます。大乗仏教は、ここにこそ、人間のもっとも理想とすべきあり方があると考えたのでした。そこで実際に本体を持たない世界に根ざして、法の空も説き、法執の迷いを自覚させようとしたのです。」(10)
無明は分別起の煩悩障
また、二障については、倶生起(くしょうき)と分別起とに分けられる。倶生起とは、有情の身の生ずるとく倶(とも)に任運に生起するもので、先天的である。分別起とは、世間の生活の中で、いろいろな慣習や言語・思想を学ぶ中で、起こされるもので、後天的である。
「十二縁起の無明は、「分別起の煩悩障」と規定するのが唯識の説なのである。あえていえば、「意識的な我執とそれに基づいて悪心が、苦果を結ぶ業を発する」ということである。それのみが新たに業を積むのである。一方、倶生起の煩悩障は、業果の発現を助ける(潤生)用を起こし、所知障には発業の用はない。様々な執・障の中で、様々な煩悩の中で、特に分別起の煩悩障こそが迷いの生死輪廻に向けて発業するというこの的確な分析に、我々は苦の解脱への手がかりを見出すことであろう。」
「十二縁起等の説は「これを簡略にいえば、無明=惑から業が、業から苦が、しかもその苦にすでに内在する惑がさらに業を、業が苦を、というように、展転して相続する惑ー業ー苦の連環において、輪廻の構造を解明したものである。」(11)
『成唯識論』
『成唯識論』で確認すると、煩悩障を転じて、涅槃を得る、そして、所知障を転じて、無上覚を證する、という。
「煩悩を転ずるに由て大涅槃を得、所知障を転じては無上覚を證す。唯識を成立することは、意、有情に斯の如き二転依の果を證得せしめんが為なり。」(12)
見道以前において、分別起の二障の現行を伏し、見道において種子および習気を断捨する(13)。煩悩を断じて大涅槃と無上覚(菩提)の一分を證得するわけである。
(注)
- (1)経典や道元の語録には多くのことが記述されている。坐禅だけ、縁起だけという主張は、現実に存在した釈尊や道元禅師の宗教のすべてを解明する学問的態度ではないであろう。自分(が好きだと感じるもの)の喜びへの貪り、見取見、偏見などがある。最近、心理学が仏教、禅に肉薄してきて、かえって仏教や禅の理解に参考になってきた。認知行動療法でいう「根本解決にならないものへの執着」「認知のゆがみ(選択的抽出、自己関連づけ、白黒思考など)」が学問の場で観察される。まさに、道元が我見・我執を捨てよということに類似するだろう。
- (2)竹村牧男「唯識の構造」春秋社、昭和60年、105頁。
- (3)深浦正文「唯識学研究 下」永田文昌堂、昭和四十三年、三版、167-174頁。および、竹村牧男「唯識の探求」春秋社、平成四年、263−273頁。
- (4)深浦正文「唯識学研究 下」永田文昌堂、昭和四十三年、三版、486頁。
- (5)竹村牧男「唯識の探求」一九三−四頁。なお、深浦正文、前掲、四八七頁。
- (6)横山紘一「仏教思想へのいざない」大明堂、235頁。深浦正文、前掲、487頁。
- (7)竹村牧男『般若心経を読みとく』大東出版社、2003年、96頁。
- (8)同上、129頁。
- (9)同上、101頁。
- (10)同上、109頁。
- (11)竹村牧男「唯識の構造」春秋社、昭和60年、119頁。121頁−122頁。
- (12)成唯識論、大正三十一、五一頁上。
- (13)深浦正文「唯識学研究 下」永田文昌堂、昭和四十三年、三版、六六九頁。
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