第1部: 苦の解決手法=仏教経典による検証

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煩悩の捨棄(大乗仏教=華厳・大智度論・中国天台)

 仏教は、「煩悩」を捨てよ、という。初期仏教経典や大乗唯識が詳細に分析しているが、他の大乗でも、煩悩の捨棄を強調している。エゴイズムの捨棄であり、自分や他者の苦悩解決のために当然である。

煩悩の捨棄(大乗仏教)

大智度論

 大智度論によれば、無生法忍は不退転菩薩に入る重要な契機である。その無生法忍を得ると、煩悩が尽きるとされている。
 「菩薩は無生法忍を得て、煩悩已に盡くるも、習気を未だ除かざるが故に、習気に因って及び法性身を受け、能く自在に化生す。」(14)
 また、無生法忍を得ると諸法実相を知るとされる。
 「是の無生法忍を得るが故に、即ち菩薩位に入り、菩薩位に入り已り、一切種智を以て、煩悩及び習を断じ、種種の因縁もて一切衆生を度す。」(15)

 「若し一心に諸法の実相を観じて清浄なれば、則ち無明蓋盡く。無明盡くるが故に行も盡き、乃至衆苦の和合の集、皆盡く。」(16)
 諸法の実相を知る智慧は、菩薩の場合は、般若波羅蜜と呼び、仏の場合、一切種智と呼ぶ(17)。次にあるように、般若の智慧を得ると涅槃を得る。
 「菩薩は此の因って大悲心を発し、常楽の涅槃を以て衆生を利益せんと欲す。此の常楽の涅槃は実智慧より生じ、実智慧は一心禅定より生ず。」(18)
 禅定から般若の智慧が生まれ、般若から涅槃が得られる。大智度論では、坐禅が悟り、で留まるのではなくて、坐禅から諸法実相を知る般若の智慧が生まれ、実の涅槃を得るというのである。
 このように、大智度論によれば、無生法忍を得ると、煩悩の習気は残るが煩悩の現行をなくする(「伏」)。そして、仏の一切種智と同じ諸法実相の般若の智慧を得る。大智度論は、無生法忍を得ると、煩悩障と所知障を断じて、諸法実相の智慧を得るという。

華厳経

 唯識ではないが、華厳経もみておく。華厳経では、十地の階位の第七地で無生法忍を得て即時に第八地に入り、不退転の法を得ると言う。やはり、煩悩の捨棄を重視している。
 この不動地に入った菩薩は、執著を離れ、煩悩の現行がないという。
 「菩薩は此の忍を成就すれば即時に第八の不動地に入ることを得。深行の菩薩となりて、ーーー一切の執著を離れーーー諸の諠諍を離れて寂滅現前す。(19)   梵世に生まるれば欲界の煩悩は皆現前せざるが如く、不動地に住するも亦復是の如く、一切に心意識の行は皆現前せず。」(20)
 また、七地以前と違って無功用の智慧を得るという。
 「菩薩は此の第八地に住すれば、大方便善巧智の起す所の無功用の覚慧を以て、一切智智の所行の境を観ず。」(21)

中国天台の摩訶止観

 以上のように、インド大乗仏教では、仏教の目的として、煩悩障、所知障の伏断捨をあげている。それを中国では、どう受け止めたのか。中国仏教の初期の頃の天台を見ておく。天台大師は『摩訶止観』には、経典を引用して、煩悩障を対治して心解脱を得る、そして、無明を離れて智解脱を得るという。
 「また、仏は、二障において解脱を得るなり。涅槃にいわく、「愛を断ずるが故に心解脱を得、無明を断ずるが故に智解脱を得」と。地持のなかに説く、「愛を煩悩の首となす」と。故に心解脱は煩悩障を対治するなり。一切の無明の穢汚を遠離して一切の所知において知ること障礙なきを智浄と名づく、智浄はすなわち慧解脱なり。もし智の所知の礙なるをもって智障と名づくれば、無明をもっての故に智において礙あり、まさに無明をもって智障の体となすなり。入大乗論にいわく、「出世間の無明はこれ智障なり、世間の無明は賢聖はすでに遠離す」と。すなわちこれさきに煩悩障を断ずるなり。」(22)
 無明のほうが断じがたく、まず、煩悩障を対治し、その後、無明(所知の礙、所知の障)を断じて、智解脱を得るという。詳細な階位は、異なるが、二障を断じるのが仏教の目的ないし目標であることは同様である。
 「無明は長遠なり、たとい上地なりといえどもなお分に在ることあり。大論にい  わく、「処処に破無明三昧を説くは、初めに破すといえども、後にさらにすべからく破すべければなり」と。」(23)

(注)
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