第2部 慈悲行=他者の苦悩のカウンセリング
現代の救済者=精神科医、カウンセラーに働く自利、エゴイズムの自覚
仏教の慈悲、仏教のエゴイズムのない行動(無我の実践)を考えさせられる講演録を入手した。粟野菊雄氏は精神科医で「あわの診療所」の所長である。ここまで、仏教の無我の実践(思想ではない)、エゴイズムの自覚のある方がおられることを知り、感銘を受けた。仏教や禅が、こういうことを説く。道元の言葉で言えば「名聞利養をむさぼるな」「我見・我執を捨てよ」「我利・自利を捨てよ」ということに当たる。
精神科医は、クライアント(患者)に接して、苦悩の現場、苦悩の臨床にあたる。そして、現実に個々の苦悩に助言を与える。それを通して、その自分の心の弱さ、自利、執著も見えてくる。自己を深く洞察する。
精神科医が、それを日々、自覚し、実践しているのに、なぜ、仏教や禅の僧侶や学者は、これを自覚・実践しない人が多いのでしょうか。仏教の学問の限界をまざまざと見ます。
精神科医やカウンセラーは、苦悩する人を救済する。慈悲行である。仏教は、苦の四聖諦があるように、苦からの解放が主な目的として始まったのだから、昔は、仏教者が、今の精神科医やカウンセラーが行う、これら(心理的苦悩の一部)の救済行を行っていた。
この精神科医は「救済」の現場で、自利にならないように常に自戒しているというが、まさに、それが仏教・禅の実践であることを理解することを通して、慈悲・救済は、決して、上からのエリートでもなく、エリート主義でもなく、差別性でもなく、傲慢でもないかもしれない、ということを宗教評論家、仏教学者に、もう一度、大乗の菩薩、慈悲を評価していただきたいと切に願う。
粟野氏は、臨床心理士、カウンセラーに「自戒」していただきたいこととして、講演されたが、それから、仏教・禅を導く立場にある師家、学者が自戒すべきことではないかと思うことを述べてみる。人によって、違う受け止め方もあるだろうが、私が粟野医師から受け止めた感想である。
(注)粟野医師の言葉は、仏教学者のおちいりやすい偏見、エゴイズムにも関係する。HP「現代の仏教を考える会」の「研究者のエゴイズム」に掲載する。
ここには、仏教・禅の実践指導者(師家、禅会の指導者など)の自戒を中心とした感想を述べる。
精神科医、カウンセラーが学ぶべきこと
粟野医師は、大学で講演した。聴衆は龍谷大学の臨床心理学の先生と学生であるようだから、臨床心理士、カウンセラーをめざす人、現にそうである人が多いであろう。その人たちに向かって行った講演において、問題をかかえた他者の「救済」を行う場合の注意である。自利、私利を自覚していることが、仏教者を超えるほど真剣に行われている。粟野医師は、苦悩の現場で、自己の心をよく観察していて、坐禅の場合の「動中の工夫」に似たことが実践されているようである。自己洞察は、文字の思惟・理解のみで深化するものではなくて、自己と他者の苦悩の現場で、その生きて動いている心を注意深く観察することで醸成されることを証拠だてる例ではないだろうか。
A)医学的診察の重要性
粟野氏は、具体的な症例を説明した後、「症例から学ぶ大切なこと」として4つ、あげられた。仏教の慈悲行、私利を捨てるという禅・仏教にかかわり深い部分だけを引用して、仏教者としてどうなのか考察したい。
「(1)医学的診察の重要性
まず、”どんな症状であっても、それが心理的に完全に説明できるように思えたとしても、『症状』である限り、必ず神経医学的な検査、その他の必要と判断される医学的検査や診察を経てから、治療に入らなければいけない”ということです。何の異常も見付からないことが九割九分九厘だと思います。
この何の異常所見も見付からなかった、というのが大事なことなのです。大人の場合、それは、『今後、心理療法、精神療法だけの治療を試みても構わない。』ということを意味します。しかし症例2の例から、子供の場合には、それではいけない、ということも分かります。」(1)
この症例の子供は、4歳の時に自閉症と診断され、それ以後、毎週プレイセラピーを受けた。小学4年の時に、粟野医師のもとにきた。粟野医師の所見で、脳の器質的異常を認めたので、「改めて脳波検査を受けて頂きましたが、明らかなてんかん性の異常が認められました。そこで、抗てんかん薬の投与を始めました。」(2)
その結果、劇的に奏効しました。
「この子にとって、週に1回のプレイセラピーは、それなりに意味のある治療だったとは思います。しかし、問題なのは、4才時の検査が最初で最後の医学的検査で、以後、小学校4年生までをプレイセラピーのみで過ごさせられた、ということです。(中略)
週1回のプレイセラピーは、ひょっとしたらその子どもにとっては大切な時間を浪費させたことになったのかもしれません。」(3)
<仏教者が自戒すべきこと(A)>
次のようなことに注意して、来る者に、期待と違うことを長く行って、時間、命をむだにしないことだろう。
- 禅の指導者の場合にも、参禅に来たものが、うつ病などになっていないかを注意して観察する必要がある。禅に最後の救いを求めてきたかもしれない。初対面で、厳しい指導やわけもわからず「「ただ坐れ」では、絶望してしまうかもしれない。
- 心の病気や、他の病気が潜んでいないことを現代医学の検査、診断を受けたことを確認すること。うつ病、神経症、統合失調症、種々の心身症などの疑いのある人には、医者にかかってもらうように、すすめる。薬物療法が必要と医者が判断した場合、それを受けながら、坐禅してもらう(3−6カ月)。薬物については、医者の判断にまかせる。
- 自分のもとに来る者が増加するという喜び(自利である)を指導者や学者が取るべきではない。人数の増加を喜び取り、来る者が他の病気にかかっていて別な解決を期待していることがないことを常に戒めていること。他の宗教やカルトの場合、金、財産、人生まるごとの奉仕などを目当てにすることがあるので、自利・我利をむさぼるのは容易にわかるが、他のところへ行くほうが、その人のためになるかもしれないのに、参禅者、受講者、読者が増加して喜ぶのは、自利・我利、名誉欲をむさぼることであることを充分自戒すること。
- 来る者の苦悩、問題をよく聞いて、禅で解決できないことであれば、はっきりと言うことによって、来る者の命、時間をむだにしないよう自戒する。
- 最初から、他者の救済をめざすという、いわゆる「菩提心」のある人は少ない。自分で、種々の悩み、心の病気、心身症、などの問題で参禅する人が大部分である。そういう在家を相手にした坐禅では、私の場合、3−6カ月で効果を見ることにする。
自分で坐禅して悩む心のプロセスを観察して、自宅でもどこでも心を見るコツを覚えてもらい、3−6カ月で一応の効果を見ることとして、そこで参禅を終えて自立することを目標とすることをすすめたい。坐禅会に依存する心が起きるのはよくない。禅を参考にして、アメリカのマサチューセッツ大医学部で開発された「ストレス緩和プログラム」(日本では「ZENカウンセリング」と呼ぶ)は、カウンセリングは、2カ月で終えて、あとは自立して自宅で禅から開発された「瞑想」を実践できるというのが標準であることが参考になる。この程度の期間で、心の病気、病気からの痛み、などの緩和のための継続的「瞑想」を自主的に実践していくことを習得できるわけである。
坐禅の場合も、宗教的問題(真の自己、生死、悟り、菩提心、他者のためになりたい、など)ではない参禅希望者は、その個人の問題を具体的に早く解決する手立てを講じないで長くひきとめて、依存心をうえつけるのは、粟野医師のいう指導側の自利かもしれない。よくわからず何か期待して長く依存してはクライアント(患者)の利益にはならないだろう。宗教的問題での参禅は、数年かかるであろうが、それは、種々の悩み、病気などの苦悩は解決した人が行うものである。もうカウンセリングではない。それは、別であろう。
- 去っていく人をひきとめないこと。人数の増加を喜ぶのを自戒する。新宗教などは、組織維持の収入が必要であるから、信者をひきとめるのは、当然の要求であるが、真にクライアントのためを思うカウンセリングであれば、人数の増加を喜ぶ指導者の我利が、来る者の、時間、命をそこなうことがあることを充分自戒する。
(注)
- (1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」(『教育』第38号、龍谷大学教育学会、2003年)、31頁。
- (2)同上、30頁。
- (2)同上、31頁。
(B)命の状態の変化への留意
「(2)命の状態の変化への留意
人をある期間、診ているときには、状態・状況の流れに対して忠実に対応していくというのはもちろんですが、その過程でも、不連続的な変化への留意、例えば身体で言えば、”何か新たな器質的な異常、医学的な異常はないのだろうか、”という疑問を頭の片隅に、置いておくことは必要です。命は変化するものです。1秒前でも、昔は昔です。無です。今の命を見てください。」(1)
<仏教者が自戒すべきこと(B)>
- 参禅者の変化を気をつけてみておき、病気が悪化していないか、別な病気が起こっていないか、薬物療法をやめていないかなど、禅に誤った期待をしていないことを気をつけてみておく。
- 自殺念慮が生じていないかを注意しておく。自殺念慮がある場合、医者の薬物療法を受けるようすすめること。参禅にとどめては、いけない。
- 他の症状も、禅で治るようなことは断言しないこと。何か症状を感じる場合、すぐ、医者の診察を受けるように助言する。現代医学の検査、診断を受けて、異常がないことを確認してから、参禅を継続してもらうこと。
- 参禅者の中には、(自分から打ち明けなくても)心の病気や心身症の人がいる可能性があるので、精神医学、心身症などの基礎知識をもっていれば、参禅よりもまず医者にかかるように助言できるので、心の病気、心身症などの基礎知識を学ぶ。参禅者の様子から病気が疑われる場合、禅にひきとめて、参禅者の命、時間を損なわないように気をつける。
- 最初ばかりではなく、参禅者の変化を気をつけてみておき、気がつかないで、厳しい指導をして自殺に至らせたり、医者の診察を受けることを遅らせることのないように気をつける。
(注)
- (1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」(『教育』第38号、龍谷大学教育学会、2003年)、32頁。
(C)本末転倒に注意
「(3)本末転倒に注意
”治療者”として人に対するときには、”患者を、自分の信奉する理論や、自分の得意とする治療技法の中に閉じ込める傾向がある”ということを忘れてはいけません。治療者が患者の症状のどこかに、自分の信奉する治療技法に当てはまる部分を見つけるのは容易なことです。それが何時の間にか、患者の存在全体をそれらの中に押し込めて、患者を操作する全能者として、治療者が患者の前に立つことがあります。しかし、治療者が全能者であるわけはありません。」(1)
<仏教者が自戒すべきこと(C)>
- 参禅者、学生の苦悩、問題は種々で、深浅があり、複雑である。自分の得た禅経験、学問知識だけを過信して過大視しないこと。自分の得た経験、学問では解決できないことが多いことを自戒しておく。
- 禅も万能ではない。禅に向かない悩み、病気、人がある。自分の禅体験、学問に、何でもあてはめようとしないこと。人間は複雑である。標準的なモデルからはずれているケースが多いことを自戒しておく。
- みだりに期待をもたせるようなことを言って、引きとめない。自分の手におえないこと、参禅に向かない人には、他の選択をするよう助言すること。
(注)
- (1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」(『教育』第38号、龍谷大学教育学会、2003年)、32頁。
(D)治療者自身の問題に敏感であること
「(4)治療者自身の問題に敏感であること
最後に、大切なことは、”治療者は、自分を支える道具や、自己満足を得るための道具として患者を利用してはならない”ということです。
治療者自身の不安感の手当てをするために、また”相談を持ちかけられる程、重要な自分であること”を終わらせてしまわないために、”患者の自立の邪魔”を無意識のうちにしてしまう傾向も、”治療者”にはちょっとあるのではないかと思います。ちょうど子供の自立の際に不安になる母親のようなものかもしれません。」(1)
<仏教者が自戒すべきこと(D)>
- これは、禅の指導者、学者にとって、最も重要なことであろう。何らかの自己満足、自利のために勧誘し、ひきとめることがある。自己の喜びのために学問することがある。
- トップや幹部が、自分の弱さ、不安を紛らす、糊塗するために、何かのグループ、会を維持している。そういうことでは、参加してくる人の自立をさまたげる。
- 禅の指導者の自利は、参禅者に尊敬され、参禅者になくてはならない重要な人と思われることに喜びを見出すこと。つまり尊敬される喜び、頼られる喜びを取ること。こういう微細なエゴイズム、自利の喜びを取ることを持戒しなければならない。カルト宗教者は、自分から自分が尊敬されるべき人物である(XXの生まれかわり、神、全能者、神の伝え手、著名な古人と会話できる、など)と言い出すから、自我に執著した最も浅い人間として尊敬に値しない者であるとわかりやすい。しかし、誠実そうに見える僧侶、学者、カウンセラーが、自覚されにくい自利を持つ。頼られる人物でありたい、尊敬される人物でありたい。自分の学説に同調してくれる喜びをとる。そういう自分の喜びを満足させるために引き止めたり、去っていかれるのを不安に思い引きとめようとする自利を知らず知らず認める危険がある。
- 仏教者、禅者は、無我の精神から言えば、自分が尊敬されてはならない。参禅者が、指導者に依存しないように指導しなければならない。どこでも坐禅できるように自立させるように指導することが重要である。
- 坐禅会、道場(雰囲気)、指導者、指導者の説法、著書などに執著、依存する心がめばえることを放置する(こういうことに自覚のない師家・学者には粟野医師がいうような自覚されにくい自利があるだろう)ことのないように自戒する。いつでも、どこでも、自分を洞察できるように指導すれば、自立しやすい。
- 粟野医師が言うように、人が、坐禅会、道場、指導者、指導者の説法、著書などに依存している(無意識に)のを喜ぶのは、指導者の自利であり、未熟な指導者である。そういう依存に無関心な指導者では、心の病気などの苦悩さえも解決に導けず、悟りを得て、自立させることがむつかしい。指導者が、参禅によりお布施をもらう場合には、特に、収入への執著の危険(無意識の)があるだろう。お布施をもらわない指導者であっても、尊敬されたい、重要な人物の立場でいたいという自分の感情を満足させる自利(粟野医師のいうような自覚されにくい自利)があるだろう。仏教、禅の「無我」は思想ではなく、こういう生きて働く実践が重要であろう。
- 「私の指導の結果、XXは、問題を解決した」と得意げに書く、テレビで話す仏教者がいるが、そういうふうに、他の人を利用して、自分の手柄話にしない。来る人が有名人の場合は、特に、それをしたがる仏教者がいるが、他人の名を、己の宣伝に利用しないように自戒する。そのような手柄話をする人、書く人は、他者を利用して、己を尊敬させようという自利、我利がある。自我を認めて、その尊敬されることをもくろみ、「無我」の実践ではない。
(注)
- (1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」(『教育』第38号、龍谷大学教育学会、2003年)、32頁。
(E)自己洞察の深化が必要
「以上の4点は、次のように言い換えられるのかもしれません。つまり、「私たち人間は、自分たちが、”自然を前に為す術(すべ)も無く、己の思いを手放しにして、自然の為すがままに、身も心もゆだねて立ち尽くしている存在である”、ことを忘れてはならない」、と。
このような自己洞察があって、はじめて、私たちは、他の心の叫びに耳を傾けられるのではないでしょうか。
しかし、自己洞察の深化の程度と、治療者の全能者振りの程度は、ときに反比例し、そして最も自己洞察のレベルの低いものが、全能者組合の理事長となり、その周囲をプチ全能者たちが取り巻き、そして、その周りを子羊の群れが取り囲む、という図式が成立しがちです。これでは本当の治療は成立しません。
現在、臨床心理学の分野で活躍されている方々には、釈迦に説法でしたが、将来、心理学の臨床に携わろうとしておられる方々が治療者として立つときに、以上のことを思い出して下さいましたら、非常に有り難く存じます。」(1)
<仏教者が自戒すべきこと(E)>
- 小さな猿山の「お山の大将」になって、小猿を支配して、喜び、得意ぶるな。宮沢賢治の「どんぐりと山猫」という童話の「山猫」理事長や、「どんぐり」子羊になるのでは、見苦しい。山猫は、子羊を競わせ、支配するエゴイスト。どんぐりは、山猫に気にいられようと顔色を見て動く、精神を支配されたどれい。心を扱う現代の組織にも、山猫とどんぐりのいる組織が多いらしい。
- 「己の思いを手放しにして、自然の為すがままに、身も心もゆだねて立ち尽くしている存在」という。これは、禅・仏教の中道、無我の実践(思想ではない)に通じる。心の問題については、自分の知性、自分の無力を自覚して、自己をみつめるのが仏教、禅である。
- 人々の種々の苦悩に関係した、精神科医、カウンセラー、宗教、心理学、心の問題の種々のグループなどが数多くあるだろう。その組織、グループには、「最も自己洞察のレベルの低いものが、全能者組合の理事長となり、その周囲をプチ全能者たちが取り巻き、そして、その周りを子羊の群れが取り囲む、という図式が成立しがちです」。組織の構成員が、自分の地位、金、名誉、心の安定(自分に心の弱さがあるのだが、組織の活動に参加することで心の安定を得ている場合、など)などの「自分の利益」を優先していることに自己洞察がなく、新入して来る患者、クライアントに応対するようでは、深く悩む人は治らないだろう。いたずらにながびかせることがおこる。
- 禅者、学者が何かの組織に所属する場合、同じような弊害が起こる危険性がある。これは、私自身も自戒していなければならない。組織のトップ、実際の実力者(幹部)の、私利なき(無意識の自利もない)誠実さが、最も大切である。子羊はトップやプチ次第である。組織外の人々、社会の利益を害してまで「組織の利益」をはかる「御用学者」「御用禅者」になってはいけない。種々の形で発現する微妙な、自利、私利をよく洞察するべきである。粟野医師の卓見に敬服する。
- 粟野医師が指摘する微妙な自利は、仏教の学者にもあるだろう。「最も自己洞察のレベルの低いもの(学者)が、全能者組合(学問が最高であり、実践などで仏教がわかるはずはない、という学者グループ)の理事長となり、その周囲をプチ全能者(知性をほこる学者)たちが取り巻き、そして、その周りを子羊(迎合する浅い宗教者、学生、社会人、などか)の群れが取り囲む、という図式が成立しがちです」。
学者は、自分の学者としての立場をおびやかす批判者(実践が重要という)がいると、自分の感情が葛藤を起こすので、それをおさめるために経典を恣意的に操作する自利が働く危険がある。粟野医師がいうような、臨床的救済について自己の無力さを自覚せず、己の知性、学力を誇り、誠実な臨床的救済行為を否定する学者がいるとすれば、粟野医師から批判されるだろう。
- 仏教学者、禅学者は、とにかく、実際に苦悩する現代人の臨床的助言を全くすることができない点に、粟野医師がいわれるように、自己洞察、苦の洞察の力に欠けているようである。学問の喜びという「自利」を取っていて(それは宇井伯寿氏が自己指摘し、佐橋法龍氏も肯定したもので、ほとんどすべての学者がそうであろう)、人の心、自分の心の洞察に欠けるであろう。もし、「仏教の学問は、そういうもの(救済)ではない」という学者がおられるとすれば、「では、その学問の対象となる”仏教”は、結局、何を目標とするのか」という問いかけが必要であろう。「縁起説を思惟し理解することが仏教である」というとしたら、そういう”仏教”の想定する相手(対告衆)は何で、どのような問題(苦悩?)を解決できるとして釈尊が始めたのかということを深くつきとめていくべきであろう。何の苦悩もない学者、学生を相手とし、縁起説を理解する喜びを与えるだけが、その仏教の目的か。それが釈尊の説いたものか。それで、何になるのか。それとも、他の貢献があるのか。
(注)
- (1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」(『教育』第38号、龍谷大学教育学会、2003年)、32頁。
(F)自分に都合のよい情報ばかりに基づく
「おわりに」の部分で、次のメッセージがある。禅や仏教の実践者(私を含む)、学者への厳しい警告でもある。
「人は、各々、依って立つ場と、現在の配役を持っています。そして、その配役をこなす中で、二度と再び巡り来ることの無い、この命を、生き生きと発現させるべく、瞬間瞬間、工夫する権利と義務があります。同時に、周囲の人の命に対しても、可能な限り様々な工夫をして生きるのを援助することが大切です。
今日、自分がその配役を果たせたのか、はなはだ疑問に感じます。私の臨床医としての経験は決して充分なものとは言えません。むしろ、偏っている、といった方がいいと思います。限られた経験の上で配役をこなす時、「葦の髄から天上を覗く」かのように、「自分を傷つけない情報・自分に都合の良い情報・自分のアテに見合った情報」ばかりに基づいて、物事に取り掛かりますと、自己満足は出来ても、最も大切な、実物の命そのものを損なってしまいます。偏った情報に基づいて治療に取り掛かれば、心身の命を損なってしまいます。そうならないように自戒しながら日々過ごしているつもりですが、他人の至らないところは、直ぐ目に付いても、己の至らない点には、なかなか気がつかないものです。本稿につきまして、ご批判、ご指摘をいただけましたら、この上ない幸せに存じます。」(1)
<仏教者が自戒すべきこと(F)>
- 「二度と再び巡り来ることの無い、この命を、生き生きと発現させるべく、瞬間瞬間、工夫する権利と義務があります。同時に、周囲の人の命に対しても、可能な限り様々な工夫をして生きるのを援助することが大切です。」
- 「葦の髄から天上を覗く」かのように、「自分を傷つけない情報・自分に都合の良い情報・自分のアテに見合った情報」ばかりに基づいて、物事に取り掛かりますと、自己満足は出来ても、最も大切な、実物の命そのものを損なってしまいます。偏った情報に基づいて治療に取り掛かれば、心身の命を損なってしまいます。そうならないように自戒しながら日々過ごしているつもりですが、他人の至らないところは、直ぐ目に付いても、己の至らない点には、なかなか気がつかないものです。」
- この二つの警告は、肝に銘じておく。禅や仏教のめざしているところも、こういうことのないように自戒していくことである。残念ながら、仏教者、学者に、こういう「自利」に都合のよい言葉だけを選択的に抽出して、自己に都合のよいように解釈した教義、学説を捏造し、釈尊や道元禅師、白隠禅師の精神を曲げたものを作っていることが観察される。これは、学者の感情(注)を自己満足させているのである。そのような心の弱さ、微妙な自利を洞察できていない。学問にさえ、自己の感情を満足させる自利がある。粟野医師は、私のいうようなことが学問にもあるだろうということをご理解してくださるだろうと思う。(注)学者の感情とは、坐禅や救済(カウンセリング)よりも学問が好き、カウンセリングのような他者との関わりは嫌い、宗門当局者から尊重されたい、坐禅を強調する禅僧が好きではない、坐禅が嫌いな禅僧たちも多くそういう禅僧たちに学問的な根拠を与えてやってそういうグループから尊重されたい、そういう組織からの仕事をもらいたい、等々数多くの感情があるだろう。そういう私利の感情を自己洞察できない人は、粟野氏のいわれるごとく、本当に苦悩する他者を救うことはできないのは当然である。学者としても、そのグループからは尊重されようとも、社会からは尊敬されないだろう。いずれは歴史が明らかにする。)
- 最後に、私自身にも、その弱さがあることを自戒して、一層の修行をしなければならない。私も組織的活動にも参加している。組織だけの利益ではなく、社会の利益との調和を常に考えていたい。他人のあらはよく見えるのだが、自分のあらは見えない、これを自戒とする。だから、仏教の学問における偏見ということを、共同してあきらかにしていく人が多く現れることを期待したい。一人では、また、あらを出しているのが見えなくなりがちだから、多くの人が研究し、私利なき誠実な批評をしてくれる仲間がいたほうがよい。
- 粟野医師は、自分だけの利益を警戒し、どのような自己の利益にもおちないように気をつけながら、苦悩する人々を救済していく「菩薩」であると思う。それでいて、自己をほこらず、自己の無力さを自覚して謙虚である。学者や評論家がいうような、エリート主義、差別性、傲慢さはない。こういうところが、大乗の菩薩、慈悲であると思うが、なぜ、何も臨床的活動をしないで他者の批判だけをする学者、評論家が、粟野医師と同じような精神、慈悲行(救済)を、上からの慈悲、エリート主義、差別性、傲慢だというのだろうか。なぜなのか?
(注)
- (1)粟野菊雄「精神医学の基礎知識」(『教育』第38号、龍谷大学教育学会、2003年)、41頁。
(5/11/2003、大田)
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