第1部: 苦の解決手法=仏教経典による検証

研究メモ1部 

「臨床的仏教」=『大乗起信論』=(1)止観

 現代の曹洞宗の坐禅では「止」のみが実行されていることになる。臨済宗の公案禅の場合には、それぞれの公案がめざす「智慧」(=観)が含まれていることになる。残念ながら、現代の心の病気、虐待・いじめ・差別・非行・犯罪の心理、組織人のエゴイズムなどの「智慧」には貢献していない。
 しかし、こういう現代人の問題の「智慧」を洞察に加えると、現代に貢献できる。たとえば、ここでいう「止」は「止観」のうちの「止」であるが、不安障害や依存症などの心の病気の領域でいえば、不安・焦燥・悲哀・怒りなどの苦悩の感情が起きているまさにその時に、逃避、虐待、アルコール・食べ物、いじめ、他者攻撃などをしたくなる心理作用が起きたのを洞察し静観していることが、「止」や坐禅である。自分や他者を害することになる行為をしないように、自分の苦しい感情と、行為への衝動心理が起きて、消えていくのを洞察している。こうして、種々の心の病気や虐待・非行・いじめなどの他者を苦しめる行為が消失・治癒していく。  このように、坐禅(当時「止観」のうちの「止」)に、「智慧」をおりこめば、坐禅は、現代の倫理、宗教、心理療法では解決できず、ゆきづまりをみせている種々の病弊の解決指針となるものである。  だが、目的をもたない坐禅や、悟りのみをめざす公案では、現代社会には貢献しない。現代に必要な智慧を織り込んだ坐禅が貢献する。

止観

 『大乗起信論』の止観を竹村牧男氏の『大乗起信論読釈』でみておく。
 後世には「坐禅」と言われるが、実際に自利(自分の苦を解決)、利他(他者の苦を救う)が達成される坐禅には、二つの要素が含まれている。止と観である。どちらかを欠くと、自利、利他が実現しない。現代の坐禅が、苦の解決に充分貢献しないのは、自己と他者の苦を観ることを軽視しているせいであろう。
 「止」は、思考(分別)などを止めて、もの、こころ、苦などを観察していることである。「観」は、自己・他者の苦の解決のための智慧である。「止」の時に、どのような方針で行うかの指針が「観」である。 (注)

止観のうち「止」

 止観のうちの、「止」について、いくつかの特徴をあげる。「止」の実践のしかたである。この注意は、現在、坐禅を実習する者にも役立つことがあるだろう。『起信論』では、数息観、随息観は用いない。 (注)

正念

 初期仏教の「八正道」の中に、正念がある。後世の禅でも「正念」が強調される。『起信論』でも正念が説かれる。  これによれば、「正念」は、止観のもっとも熟した境界であることになる。そして、さらに、正念は、坐禅している時ばかりではない。 (注)

真如三昧と不退

 「止」(観と併習して)が熟してくると、真如三昧が現成する、という。これは、見性体験(無生法忍である。道元が批判する『六祖壇経』の「見性」ではない)のようであるが、研究の余地がある。 (注)

大乗の唯識観に通じる

 『起信論』の止の修習は、インドで実践を重んじた大乗の瑜迦行派の唯識観に通じる。  ところで、「止」だけが単独で修習されるのではなくて、「観」が併修される。別に詳細にみていく。

(注)
(現代人の問題軽減に)
 悩む人、心の病気になる人は、心が散乱するようなところがあるので、「止」に似た坐禅で、これを軽減することができる。しかし、一部の指導者がいうような「目的を求めず坐禅する」というような無方針の坐では、自利も利他も実現しない、と『起信論』は警告しているのである。
 後世には「坐禅」と言われるが、実際に自利(自分の苦を解決)、利他(他者の苦を救う)が達成される坐禅には、二つの要素が含まれている。止と観である。どちらかを欠くと、自利、利他が実現しない。現代の坐禅が、苦の解決に充分貢献しないのは、自己と他者の苦を観ることが軽視されているせいであろう。臨済禅は、別の「観」が発達している。
 「観」を取り入れる坐禅、特に、現代人の苦悩解決の観、現代人の悟りへの観を取り入れた坐禅が研究開発されるべきであろう。
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