禅と日本文化

柳宗悦と民芸運動

宗悦の宗教、美の遍歴

 柳の民芸運動と宗教観がどのように形成されたかを概観します。柳は若くして、父、妹の死にあい、また、自分の息子の死も経験した。身近な人の死から「生死」の問題に関心を持った。学生時代には心理学を専攻し、宗教哲学、特に神秘主義の研究から初めて、東洋哲学への関心から、東洋工芸に関心がむかい、民芸の美の発見、それを生み出した他力の信仰に研究が結びついていった。

『白樺』創刊

 柳は、明治二十二(一八八九)年、海軍提督を父として東京で生まれた。学習院高等科在学中に、武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌『白樺』を創刊した。柳は、神秘的宗教詩人ウイリアム・ブレイクや後期印象派の画家などについて執筆した。神秘主義者とは、西洋において、自然や神との合一体験を持ったという人々である。神秘主義は、禅の悟りと同じ場合もあるように見える。

宗教哲学の研究

 柳は、東大で心理学を専攻し、西洋のキリスト教の神秘主義を研究し、大正四年『神に関する知識』で、論理的知識の限界と知的直観の重要性を説いた。
 ドイツの神学者エックハルトはローマ法王から否定されたが、柳はエックハルトに誤りはないと主張した。エックハルトは禅と同じ自己を忘れる体験をして、聖書をその面から解釈したものであると私は思うが、柳もそう考えている。
 知性の色眼鏡で見ないでものをじかに見ることを、柳は「直観」と呼び、「直観」について多くの研究をした。神秘主義の研究をするうちに、老荘、大乗仏教など東洋思想に豊かな世界が蔵されていることに気づく。
 禅ともめぐりあい、大正四年バーナード・リーチ宛て書簡に、こういう。  柳は禅について深い理解を示し、鈴木大拙、久松真一と同様、真の人間観として西洋に紹介すべきだといった学者の一人である。
 柳の論文に実に多くの禅への言及がある。

(注)

東洋工芸への関心

 大正四年、二十五歳の時、朝鮮から『白樺』のファンが李朝の白磁の壷を持参したのを見て、民衆の手による日常雑器の中に美を発見した。朝鮮、中国を旅して、その民族の工芸の美に敬意を表し、日本植民地政策の批判と朝鮮文化の保存の活動した。
 当時の日本人は朝鮮の美に無知であり、植民地としたこの民族に非道を加え、侮蔑をもって見下していた。柳は、朝鮮の壷に感銘し、これを生んだ朝鮮民族に敬意を持った。大正八年、朝鮮で独立を求めて2百万人が蜂起した時、日本政府は軍隊に鎮圧を命じ、大勢の朝鮮人を殺した。柳は政府を批判する論稿『朝鮮人を想う』を読売新聞に発表した。当時は政府の政策に反対するものは投獄されていたから勇気ある発言であった。『朝鮮とその芸術』など朝鮮の芸術に関する書物の刊行、李朝工芸の隗集を始め、大正十三年、朝鮮民族美術館を設立した。

民芸への関心

 柳は、木喰仏の研究、探索から民衆の手仕事の美に巡り会った。その研究を通じて、後に著名な陶芸家となる河井寛次郎、浜田庄司と知り合い、美の共通認識を得て、「民芸」の新語を作り、多くの民芸論を刊行し、民芸運動を展開した。
 大正十五年『雑器の美』という最初の民芸論(1)を発表し、民芸運動に指導的役割を果たした。

(注)

民芸美論

 『工芸の道』(昭和3年)、『工芸文化』(昭和17年)で、民芸美論の確立、民芸の存在と意義の重要性を説いた。無名の工人が、自然や伝統や実用性にたすけられて、生み出したとして、民芸を仏教の他力道になぞらえる。
 『美の法門』(昭和24年)では、信と美の深く結ばれた世界の実在を示して、多くの衆生(少ない天才ではなく)を招くという。その論理はこうである。  柳は、名もない民衆がなぜ、民芸品の美を生み出すかの理論的根拠を仏教経典の中に見いだした。

(注)

妙好人と一遍上人

 名も無い民衆が素晴らしい美を生む理由を探求する時、名も無き民衆の中に現れた妙好人とに類似性があることから、念仏の研究に入り、念仏から民衆の美の理論を引き出した。
 妙好人とは、念仏の篤心者である。ほとんどは、田舎の無学な社会的地位の低い人であるが、念仏信仰の極致まで達しており、いつでも、自分が阿弥陀仏の浄土にいるとの自覚を得て、絶対の安心を得ている。 柳には、念仏や妙好人に関する論文も多い。

茶道論

 茶道に用いられる茶碗で国宝級のものは、朝鮮の民衆が作った雑器だった。それは、庶民が無造作に大量に、素早く作ったから、巧まない美が恵まれたというのである。日常雑器の中に美があることを四百年前に気づき、茶の湯に取り入れた初期茶人に、柳は畏敬の念も持ち、茶の湯の美をも研究し『茶と美』『茶の改革』などの書物を刊行した。また俗化した茶道に対して、厳しい批判がある。

病気になる

 柳は、浜田、河井と共に、日本、朝鮮、中国の各地を歩いて、民芸品を隗集して、日本民芸館に保存し、展観し、民芸の美の研究に尽くした。晩年の五年間、柳は病気がちだった。日記には、病気の苦悩や、「妻の兼子と言い争って、妙好人の境地になり切れずに苦悶する姿が描かれている。」(1)
 深い宗教の学問的研究を重ねて、すばらしい業績を残してきたのに、この様子を見ると、彼自身の体得は十分ではなかったことがわかる。やはり、宗教は学問を超えたものに、本当の安心がある。
 こうもいう。体験的闘病の心得である。がんを告知された人の心得である。  良い悪い、善悪を超えて、現状を受け入れていくのがいい。現状(今、ここ、自分にあるもの)は、大きなものから与えられたものであるから、小さな自我でじたばたしないのが法則にあっていて、葛藤がおこらない。仕事の品質向上や、社会の悪や、他人の苦を見過ごすというのではない。
 昭和三十六(一九六一)年、七十二歳で没した。

(注)
 
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