もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と哲学
宗教と哲学ー西田幾多郎
哲学とは
宗教は自己を明らかにすること
迷いと悟り
哲学とは
哲学は、自己、人間、世界、神などの根本問題を論理的にあきらかにすることであると言います。
◆「哲学はいつも、ものの根本的なことがらを問題にしているのだと考えられます。」(X97)
◆「生き方としての哲学が求めているもの、あるいはただの「知る」ことに満足できなかった哲学の、究極において求めているものは、このような究極的な「善」、よきもの、わたしたちを真に幸福にするものであったと言うことができるでしょう。」(X171)
◆「哲学と一口にいっても、扱うテーマはそれぞれの哲学によってちがいます。テーマ自体が難しそうな感じを与えますが、簡単な言葉にしてしまえば、「人間とは何か」「世界とはどういうものか」「どう生きるのが賢明なのか」といったものが扱われているのです。」(『この一冊で「哲学」がわかる』P37)
西田の評価
哲学といえば、カント、ヘーゲル、キルケゴール、サルトル、ハイデガーなど西洋の哲学が紹介されるが、日本独創の哲学は少ないらしい。哲学者の田中美知太郎(京都大学名誉教授)は、西田を過大視することは戒めつつ、西洋のものを紹介するだけの哲学ではなく、日本で最初に自分自身の哲学を始めたと評価する。
◆「わが国の哲学界には鑑賞家や演奏家はいても、われわれの鑑賞に堪える作曲家はまだ出ていなかったわけで、西田幾多郎がようやくその仕事をはじめたというところであろう。これを「世界無比の独創的」というような形容詞でかつぎあげることは、むしろ滑稽なことであろう。」(X67)
西田哲学は、キリスト教にゆきづまった西洋の人々から注目されているという。また、批判もある。その評価と批判は、これからの課題である。
西田幾多郎の言葉
これから、西田の言葉のごく一端をのぞくが、理解が困難かもしれない。しかし、だから、「禅は難しい」と思わないでもらいたい。これは「哲学」であって、「禅」ではない。人間を言葉にすることが難しいのだ。禅の実習と体得はやさしい。親鸞聖人も『教行信証』という書物を書いたが、それを読んだり、理解できなくても、念仏のやさしい実践で、自己の真実を自覚して、安心を得る。
禅も哲学も、自己とは何かを探求しているものであり、哲学は難しくても、どう言っているのか、のぞいてみて、一言でも、魂の琴線に触れる言葉がみつかれば幸いと思う。
真の宗教を持たない人は不誠実
私は、宗教は人間を縛る傾向があるので、宗教にも縛られるなというのが、禅の目標であると言った。しかし「だから、宗教を持つのはやめよう」というのは、自己に不誠実な人だと秋月教授はいう。
宗教は自己を明らかにすること
「宗教の問題は、我々の自己が、働くものとして、如何にあるべきか、如何に働くべきかにあるのではなくして、我々の自己とは如何なる存在であるか、何であるかにあるのである。」(C337)
「宗教的意識というのは、我々の生命の根本的事実として、学問、道徳の基でもなければならない。宗教心というのは、特殊の人の専有ではなくして、すべての人の心の底に潜むものでなければならない。此に気附かざるものは、哲学者ともなり得ない。」(C349)
真の宗教は「自己とはいかなる存在であるか」を明らかにできるものである。宗教を持つといいながら、人間が作り上げた教義や組織などに縛られ、主体性を失って教団に精神的に従属しているようでは、自己をあきらめたのではない。それでは、真に救われる宗教ではないことは、昨今の宗教がかかわる事件を見て誰もが思う。だが、宗教を持たないのは、真に自己を持たないのであり、また危うい。いたずらに、思想や物事に迷わされ、自殺したり、心の病気になるのは、「自己の在所」を見失うからである。
自我の弱さ
宗教心の裏付けのない個人、自分、人間は、弱いものである。それは、過ちをおかすものである、真実が見えないものである。夏目漱石も若い友人あてに、こう書いた。
「自己以外のものを頼りにするほどはかないことはない。しかもその自己が何より頼りにならないとしたら、森田君、我々はいったいどうしたらよいか」
国際連盟の発展に貢献した新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、ベルギーの法学の大家と話していた時、宗教に及んだ。彼に「日本の学校には宗教教育はない。」と言うと、彼は、驚いて「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」と質問された。それから新渡戸は、日本の宗教について考えるようになった。
現代の日本では無宗教でもとおるが、欧米社会では、無宗教の人は信用されない、と言う。人間は愚かであり、殺すな、うそをつくな、いのちをそまつにするな、など人間として必須の道徳があろう。それさえも、守れないのが、一部の人間であるから、争いや犯罪が多く、心の病気も多い。人が宗教を持たなければ、その道徳は個人の判断にまかされる。しかし、個人の判断は、利己的であり、盲目的であり、あてにならないものである。自分とはあてにならないものである。道徳は、人間の意志的努力で、我意である。その人間は弱い。そこに基礎をおく道徳などあてになりはしない。宗教を持つ人は、自己の行為、思考が絶対者にみられているという自覚があるから、悪事を抑制する力があると判断される。しかし、宗教を持たない人には、その抑制力がない。監視するのは自我だけである。その自我が信用ならないものであり、自我を信用する者は、独善的で、利己的で、かわいた精神の持ち主である。
自己に誠実
しかし、宗教も注意が必要である。宗教の中には、代表者を絶対者として崇めさせ、信者を教団の利益のために働く歯車、奴隷のごとくにする教団がある。真の宗教を持たないと、いつ、そのようなものに関係させられるかしれない。せっかく、めぐまれた一度きりの貴重な人生を、俗物人間のあやつり人形になるのは、いかにも残念なことである。真の自己に目覚めなければならない。
真の宗教を持たない人は、自己の在所を持たない人であり、いつ、いかなる罪をおかし、精神の崩壊にあうかもしれない。また、我利を追う人間による宗教や各種の誘い(セミナーなどの名目で)にあやつられるかもしれない。自己とは何かを自覚する本当の宗教を持たないのは、自分自身に不誠実である。人間として生まれながら、人間を知らず、様々な精神の危険にさらされていながら何の対策も講じていないのである。
鈴木大拙は、自ら禅を修めて、世界に禅を紹介した禅学者である。大拙と西田幾多郎は親友であり、互いを影響しあって、禅学と哲学との研究に邁進した。秋月元花園大学教授は、東大で哲学を学び、臨済禅を修行し、悟道の印可を受けた後、大拙の禅学の指導を受け、鈴木禅学の後継者となった。その秋月教授は、次のように言う。
「実存とは、実に自己の自己に対する誠実の意にほかならない。故に、もしも人が、自分は実存の〃限界的底面〃などというものを、いまだかつて一度も自覚することなく生きて、しかもなんの不安も不足も感じないというならば、それは彼の自己がまだ真に実存にまでなり得ていない、人間として低い段階にあることをみずから告白するに等しい。そして、それはひっきょう自己が自己に対する誠実さの問題というほかにない。」(Y180)
秋月教授の批判は、近代人の大部分、さらに禅者にもおよぶ。批判される禅者は、自己の無なることを悟らない、自我の努力で形の坐禅を指導する禅僧である。真の自己にめざめていない。
「近代人の大部分は、そしてわけてもわが禅者たちは、きっと「いまごろ〃神〃なんて」と、頭から一笑にふしてしまうことであろう。しかし、問題は、そのさいにその人自身が、「神」という言葉で実際に何を意味しているかである。自分で時代錯誤の幼稚な神観を頭の中に描いておいて、そしてそれをいくら賢そうに否定してみても、それはただ問題自体に対するみずからの無知と不誠実さとを物語る以外の何物でもないであろう。」(Y223)
かくのごとく、自己に誠実な人は、真に宗教について、自己について真剣に考えなければならない。京都大学の教授であった哲学者、西田幾多郎の、自己観、人間観、世界観を、よく聞こう。
迷いと悟り
人は、様々な苦悩、迷いをもつ。これに関して西田は次のように言う。苦悩は「自分」にかかわる事柄に起こる。
「我々は我々の宗教的意識から、宗教的問題について苦悩し、努力する。単に我々の自己を越えたもの、我々の自己に外的なるものについては、我々の自己は苦しまない。唯、それが我々の自己存在に関するもの、即ち我々の生命に関するものである時、それについて苦しむのである。その関係が深ければ深いほど、我々はそれについて苦しむのである。」(C343)
「宗教的に迷ということは、自己の目的に迷うことではなくして、自己の在処に迷うことである。」(C337)(C349)
自殺する人は、「自己の所在」がなくなった人にも見られる。職場にしか自己の所在を見ていなかった人は退職した時、自己の在所を失う。自己の所在を、若いうちは、親が認めてくれる、結婚したら配偶者が認めてくれる。しかし、そういう外的なものにのみ、自分の所在を認めていると、それを根底からくつがえす出来事が起こる。その相手もろとも根底からくつがえる。どんなことがあっても、くつがえらない「自己の在所」をみつけることが大切であろう。
「仏教においては、すべて人間の根本は迷にあると考えられていると思う。迷は罪悪の根源である。しこうして迷ということは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起るのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方によるのである。故に大乗仏教においては、悟によって救われるという。私は、この悟という語が、一般に誤解せられていると思う。それは対象的に物を見るということではない。もし対象的に仏を見るという如きならば、仏法は魔法である。それは自己自身の無の根底を、罪悪の本源を徹見することである。道元は仏道をならうことは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなりという。それは対象論理的見方とは、全然逆の見方でなければならない。」(C341)
人間が迷う、苦悩するのは、自己の真の正体を知らないためである。特に「自己」を実体あるものと誤解し、そういう自己を対象的にながめて、その不十分なこと、それが傷ついたと、それが死に行くものであると、考えて苦悩する。「自分は、これこれこういうものだ」と対象的に描いているが、その描かれた「自分」をまた、考えている自分があるではないか。自分は、対象的には知ることができないのだ。
そこで仏道は、対象論理的でなく、そのような「我による見方」を離れることを教える。全く「自我の眼」がすたった時、真の自己が知られる。それによって、対象論理的に見る自己が真の自己ではないと悟る。自己を対象的に見ることによる迷い、苦悩から救われる。
参考文献
A『場所・私と汝』 西田幾多郎哲学論集1 岩波文庫
B『論理と生命』 西田幾多郎哲学論集2 岩波文庫
C『自覚について』 西田幾多郎哲学論集3 岩波文庫
D『善の研究』 西田幾多郎 岩波文庫
E『西田幾多郎随筆集』 岩波文庫
F『西田幾多郎』 上田閑照 岩波書店
G『西田幾多郎の生涯』 上杉知行 燈影舎
X『哲学入門』 田中美知太郎 講談社学術文庫
Y『絶対無と場所』 秋月龍 民 青土社
Z『破鞋−雪門玄松の生涯』 水上勉 岩波書店
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