もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学

西田幾多郎

宗教を論ずる者

 仏教や禅が研究者によって誤解される。今でも、仏教は縁起説の思惟のみであるという抽象的な論理でのみ解釈する者がいる。

自己の根底に徹すること
 西田は、禅の悟り(見性)について、次のように言う。
「私は、唯、禅に対する世人の誤解について一言して置きたいと思う。禅というのは、多くの人の考える如き神秘主義ではない。見性ということは、深く我々の自己の根底に徹することである。我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。」(1)
学者が自分の宗教を捏造
「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。それには、先ず自己に、或る程度にまで宗教心というものを理解していなければならない。」(2)
 仏教を研究する者が、事実を説明しようとせず、自分自身で考えた概念のみを取り上げて自分の論理で解釈した仏教を捏造してはならない。

宗教を論じる者は自ら宗教意識を持つべき
「宗教を論ずるものは、少なくも自己の心霊上の事実として宗教的意識を有つものでなければならない。然らざれば、自分では宗教を論じているつもりでいても、実は他のものを論じているのかもしれない。」(3)

「体験者には、それは自明の事であろう。災するものは、抽象的思惟である。」(4)
 仏教も宗教であるから「心霊上の事実」がある。宗教経験がある。それを説明しなければならない。たとえば、ある程度の「不安」はほとんどの研究者が体験しているから、「不安」は、理解できるだろう。しかし、「ガンの痛み」の経験は、経験したものにしか理解しえない。「痛い」では、抽象である。私の現実の「痛み」ではない。痛みの局地は、言葉もないであろう。理解したつもりでも、正確ではないであろう。
 仏教には、信、苦悩、苦悩の滅、成道、見性などが語られる。これらも「心霊上の事実」である。体験しない者には、正確には理解しえないであろうということを研究者は謙虚に自覚しておくべきである。最近の仏教学・禅学の研究において、経験の理解を無視して抽象論理だけで解釈し、仏教、非仏教と断定しようとする者があるのは、危険なことである。言葉しか信じられない研究者は、言葉にできない、言葉になる前の「心霊上の事実」は理解しえない。言葉しか信じないような研究からは、宗教の真実は何も明らかにされない。
 「私は不信の人間」という研究者では、仏教の「信」も正確には理解できないだろう。「信」も心霊上の事実であるから。せめて、宗教的意識は持たねばならない。「宗教を論ずるものは、少なくも自己の心霊上の事実として宗教的意識を有つものでなければならない。」

縁起説の現実化には実践、体験が必要

 「心霊上の事実」として、自己の実存が危機に瀕したことのない研究者には、真に苦悩を理解しえない。仏教は縁起説ではあるが、抽象論理にとどまってはならない。仏教は縁起説ではあるが、縁起説の抽象論理を思惟するので足れりとするのではなくて、縁起説で説明される現実の苦悩をいかにして滅するか、そこが仏教研究に求められるであろう。つまり、縁起説の抽象的思惟、理解にとどまらず、現実に多く存在(思想的には実体がなかろうと現実には苦悩する)する「心霊上の事実」としての苦の原因を現実に指摘し、現実に滅するための指導をし、現実に苦から解放するという、縁起説の現実化、生活化、救済行への現実適用である。その段階になると、坐禅も必要であり、自己自身のエゴイズム(煩悩障)の自覚、現行の抑制(持戒などといわれる)の実践が必須となるのである。坐禅は、縁起説を否定するものではないのである。縁起によって苦悩が生じているものには、坐禅すれば現実の苦悩が滅するのである。坐禅は縁起説の現実化の一つである。

臨床心理学などのように「心霊上の事実」に取り組む仏教

 精神医学や臨床心理学が、現代の人々の苦悩を救済している。その臨床の現場は難しい。その学問は抽象論理にとどまることを許さない。現実に種々の苦悩を持つ人を現実に救済しなければならない。基礎研究と臨床適用が必須である。理論を知るばかりでも、治療者の人格がクライアントに信頼されなければ、治療行為がなりたたない。治療行為を重ねる経験により、複雑な苦悩の事例に適応していく。
 仏教も、縁起説で苦の原因と解消の道を説明している。しかし、臨床現場での治療行為にあたるものがなければならない。抽象論理的説明の「縁起説」だけでは、現実の救済はできない。現実の救済の行動が仏教の「実践」「体験」である。信への指導(縁起の説明が含まれる)、持戒、禅定、念仏などである。従って、仏教が論理の理解だけという「自利」「我利」にとどまらず、実際に社会への貢献を考えるのであれば、「体験」「実践」を否定してはならない。
 現代、日本の仏教で種々の苦悩が救済されないのは、仏教研究者が仏教を抽象的思惟の段階にとどめようとするからであろう。仏教研究者が己の怠慢を糊塗するように抑圧が働き、文字の研究だけで仏教研究の責任を果たしているかのような説に固執する。そのような仏教では、ごく一部の、学問、知識のないことを苦悩するという学問コンプレックスの悩みしか対応できない。現代人の種々の苦悩には、何の力もない。それゆえ、臨床心理士のような、現場の苦悩には全く力のないのが仏教研究者であろう。
 学者の自己自身の知性の慢心が猛省されなければならないと思う。

(注)
 
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