もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

    

推薦図書

『誤解だらけの仏教』柏樹社

秋月龍a氏(元花園大学教授)、1993年。

教者に学ぶな、正師・覚者につけ

 秋月龍a氏は、もと、花園大学の教授であった。仏教学・禅学に、あまりに、誤解が多いので、正師に学べという。
 「仏教を学ぶ者は、「正伝の仏法」を学ばなければならない。正伝の仏法を学ぼうとする者は、正師に就かなければならない。間違っても、道元禅師のいわゆる「教者法師」(きょうじゃほっし)に学んではならない。いわゆる仏教学者とか、仏教の本を書く説教者などに就いて学んではならない。彼らは、釈尊は「<縁起の理法>を悟った」などという、とんでもない誤った仏教を教えるからである。「仏教」は"仏陀の教え"であり、同時に我々すべてが"仏陀に成る教え"である。そして、「仏陀」とは"覚者"である。「覚」とは"目覚め・自覚・自証・悟り"である。自ら覚らない者、自ら証しない者に、仏法を説く資格はない。彼らにできることは、せいぜい"教えを説く"ことぐらい、すなわち説教である。"法を説く"こと、すなわち説法はできない。だから、禅宗では、古来法を説く(説法)師家と、教えを説く(説教)布教師との、役割りの分担を厳しく区別してきた。いや、たとえ説教する師であっても、和尚なら必ずそこに何ほどかの悟り(自証)がなければならない。「ノミのキンタマ八つ割り」ほどでも、「悟り」体験がなければ、禅僧とは言えないからである。そして、「悟り」(覚・証)は、常に"直覚"でなければならない。だから、「頓悟」(はっと悟る)というのである。」
         (『誤解だらけの仏教』柏樹社121頁)

縁起を悟ったというのは誤り

 おうむのように、仏教学者は、釈尊は縁起を悟ったというが、それは誤りだという。
 「仏陀は何を悟ったのか。学者たちは「縁起の理」を悟ったのだ、と言う。そして、それを受けて、今日では仏教を説く僧尼たちまでが、「仏陀は縁起の理を悟った」という。私は、この説に強く反対である。釈尊が悟ったのは、「縁起の理法]などではない。釈尊は、「無我の我」を悟ったのである。「無位の真人(臨済)・無相の自己(久松抱石)・本来の自己(秋月龍 )」を自覚したのである。それが仏陀の「悟り」である。」・・「悟り」が先にあった! そしてその「悟り」の内容を、人々に説くために、教説の形で示されたものが、「縁起の理法」であり、「四諦の法門」であったのである。これだけの思想的な整理ができず、釈尊の「悟り」が、あたかもストレートに[縁起の理」そのものであるかのように説くのは、明らかに今日の学究たちの独断 による妄説と言わなければならない。」 (124、126頁)

悟りが先であった

 「「悟り」が先にあった!そしてその「悟り」の内容を、人々に説くために、教説の形で示されたものが、「縁起の理法」であり、「四諦の法門」であったのである。これだけの思想的な整理ができず、釈尊の「悟り」が、あたかもストレートに「縁起の理」そのものであるかのように説くのは、明らかに今日の学究たちの独断による妄説と言わなければならない。」(126頁)

研究者も覚者であるべき

 こういうふうに、仏教学者が誤りをいうので、やはり、仏教という実践宗教を研究する学者は、実践し、覚者にならなければだめだという。
 「私は、真の仏教学は、「三学」の学でなくてはならず、真の仏教学の学問する主体は、道元禅師のいわゆる 「唯仏与仏」なる「仏」(覚者)でなければならないと主張するものである。」(234頁)

無相の自己の自覚

 「古人は「空」を「真空無相」(否定面)と「真空妙有」(肯定面)の表裏即一として理解した。それを「悟りの心理学」風に述べると、先の木村の「真空」(実は「無相」)から妙有」ということになる。より体験的に言うと、「死んで生きるが禅の道である。・・・・  座布団の上で自我(エゴ)に死にきって、「真空無相」の境涯に入ると、ふしぎに「自我(エゴ)がなければすべてが自己(セルフ)になる」ということで、「真空妙有」の境涯に出る。この「物我(我とそれ)一如、自他(我と汝)不二」の「自己」(無相の自己=無位の真人=本来の自己)の自覚が「菩提」(悟り)である。だから、「死んで生きる」(死−復活)と言い、「<無我の我=無心の心>の自覚体認」というのである。」 (150頁)



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