もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

推薦書目次   竹村氏著後半 
推薦図書

『仏教は本当に意味があるのか』
    竹村牧男 大東出版社、1997年
  • 凡例 『仏教は本当に意味があるのか』という奇妙な題の本である。著者は東洋大学(当時筑波大学)の教授である。精神的に混迷する現代、また、心の教育の必要性が言われ始めた現代において、仏教は本当に意味を持ち得るのか、時宜にかなった問題提起であろう。本書は七章から成るが、そのうち六章までの内容の概要をご紹介する。これは、十二支縁起のみが仏教であるという松本史朗氏への批判の書でもある。仏教に関心があるとか、仏教の学問はおかしい、などの問題を持つ人は読んでもらうことをおすすめしたい。

    Index
    第1章 釈尊と大乗仏教
      仏教とは何か
      様々な仏教宗派
      開祖の権威も認めない
      大乗仏教の仏
      深い宗教体験
      大乗には深い真実
    第2章 仏教の言葉と真理
      覚者の言葉は経典
      経典を読む注意
      真理の階層性
    第3章 大乗仏教の覚り
      無上正等覚を説く法華経
      八 不 を 覚 る
      他 の 大 乗 経 典 で も
      釈 尊 の 覚 り と の 関 係
      「中論」の縁起解釈=因果異時か同時か
    第4章 縁 起 思 想 再 考
      縁 起
      西 田 哲 学
    第5章 大乗仏教の共同体
      常 に 働 く 仏
      信 仰 共 同 体
    第6章 現 代 社 会 と 仏 教
      末 期 的 現 代
      現 代 的 意 義
      見 通 し は 厳 し い

    若い人たちへ

    第1章 釈尊と大乗仏教

    仏教とは何か

    《キリスト教は欧米社会では限界につきあたって、現代をささえる宗教として仏教が期待されている。ところが、日本でも「仏教」とは何かという根本問題について、学者も僧侶もあきらかにしていない。》(A3)
    ◆「では仏教とは何なのか、一体それはどういう意味があるのか、ということになると、案外このことは明確ではない。またこの根本的な問いに対して、あまり仏教僧も仏教学者も答えてくれていないように思われる。」(A3)
    ◆「仏教学という学問は、正にこの「仏教とは何か」を明らかにする学問のはずである。しかし、現在の仏教学は、この問題に応えているであろうか。私の見るところ、極く一部を除いて、ほとんどがかなり細分化されたテーマを追っているのみ、というのが実情である。仏教学者の大半は、仏教とは何かを明らかにしようという課題は意識せず、好事家が欣ぶような末梢的な問題を詮索し、業績をあげて満足している。」(A4)

    様々な仏教宗派

    (「同じ仏教の中に、まったく対局に位置するような思想が存在している。」(A4)阿弥陀仏を信仰する浄土真宗、自己の外に何ら権威を立てない禅宗、加持祈祷を行う密教、はては開祖を信仰する教団もある。一体、どれが本当の仏教なのだろうか。宗派のエゴを除いて客観的な立場では明確になっていない。仏教といいながら、極めて変化に富んだ教義内容を持った宗派が幾つもあって、一体仏教の本質は何なのかということに根本的な疑問を竹村氏は持ったのである。)
    《竹村氏は、大学入学後、禅のサークルに入って以来、三十年近く仏教を学んできた。ずっと「私の仏教」を追い求めてきた。最近、仏教とはこういうものではないか、このことを基本に考えていくべきではないかということを考えるようになった。》(A5)

    ◆「今までうやむやに付されてきた問題も明るみに出しながら、真剣に仏教とは何か、その答えを求めてみたいのである。それは同時に、真の宗教はどうあるべきか、の問いの追求でもありたいと考える。」(A5)

    開祖の権威も認めない

    《仏教の本質は何かをさぐろうとして、まず釈尊の言葉そのもの(金口)が、原始仏教経典かというと、そういうわけでもない。『阿含経』や『ニカーヤ』などの最も古い仏教経典でさえも、後に形成された教団の解釈として形成されたものである。今では、釈尊そのものの言葉を拾いだすことは困難である。》(A14)
    (では、著名な教団の開祖の解釈が仏教の本質をとらえているのであろうか。客観的な真理を追求したいという学究として竹村氏は、そういう権威は無条件には認めない。しかし、このように誠実な態度をとる学者ばかりではなく、自己の利益(その組織で地位や職業を得るため)のために教団におもねる学者も多いから我々は、学者の書いたものだからと言っても、そのまま信じてはならない。戦争中の大本営発表や、現代の企業や教団において事件事故が起こった時、最初の発表が後になって、不実であったことが露見する例が多いのをみても必ずしも権威ある人々の言うことが、それだけでは正しいわけではない。)

    ◆「私は、その宗教の開祖であることだけをもって、あるいは教団の正統性だけをもって、無条件にその価値があるとは考えない。そういう考え方は、一種の権威主義であろうと思う。それ自身の価値に拠るのではなく、外的要件によって価値を認める権威主義は、宗教の世界の最も対極にあるものと思う。たとえば、正統教団が組織防衛の方を自己目的としていく中で圧殺していった思想の方に、かえってより深い宗教的真実が存している例はいくらもあることである(一例に、カトリックにおいて異端とされたエックハルト等)。我々は、釈尊が説いたから、あるいは正統教団の説だから、との理由で直ちにそれのみを真とし、他を虚妄とする態度は採るべきではないであろう。」(A15)

    大乗仏教の仏

    《こうして教団の解釈ではなくて、経典そのものを検討してみる。大乗経典を検討してみると、仏とは、歴史上の釈尊ではなくて、いつでもどこでも我々のもとにおられる存在である、と『無量寿経』(浄土真宗などの経典)も『法華経』(天台宗や日蓮宗の経典)も言っている。》
    ◆(これらの大乗経典には、「歴史上の釈尊の、しかも眼に見える姿を見て、それのみを仏と考えている者に対する強い批判がある。一言でいえば、常住の大悲こそが仏なのだとの力強い主張がある。」(A25)
    ◆「一方的に、歴史上の釈尊のみが価値がある、とも言い切れない。大乗経典の明かす仏も、人間存在の中に自覚された宗教的真実として、それはそれとしてかけがえのない価値を有するものと私は思うのである。」(A33)

    深い宗教体験

    《そのような仏は、大乗教徒が勝手に作り上げた架空のものであろうか。そうではなくて、大乗経典は「明確な自覚を伴う宗教体験に基づくと考えられ、その限り、決して意味のないものとは思えない」(A36)。
    また、その内容を検討すると、確かな宗教体験にもとづき、人間の深い真実がある。》

    ◆「空思想等において、大乗仏教の方に世界のより深い真実が語られていると判断せざるを得ない。それはまた、覚体験(宗教体験)の確かさや深さを証していると思わずにはいられない。」(A36)

    大乗には深い真実

    《大乗仏教には、人間の深い真実が語られているから、歴史上の釈尊と関係がなくてもよいのである。竹村氏は、思索と体験に、基づいて、主体的にどこまでも究明していきたい、と思われる(A37)》

    ○「大乗仏教の世界に生きるとき、我々は即今・此処の足もとに、仏の大悲を恵まれた存在としてあることが自覚されていく。つまり、自己成立の根本が照らされるのである。そして、他者とのかかわりの中の自己に目覚める等、豊かな宗教的真実に生きることが可能となる。少なくとも、無我の実現を通じて自利・利他の主体と転開するという道筋において、いわゆる小乗的な立場の克服が可能となるのである。」(A38)

    第2章 仏教の言葉と真理

     引き続き竹村氏の論考を見る。大乗経典は、歴史上の釈尊ばかりでなく、釈尊と同じく自己も客観も共にないという実存の真実を自覚体験した人をすべて仏として認め、それらの人の言葉も仏説とした。大乗経典は、覚体験することが一応の究極としている。仏教には、真理の階層性があって、覚体験のない人には理解しえない真理がある。

    覚者の言葉は経典

    《第二章は「仏教が、真理を説いているということは、どのようにして認められるのであろうか。」(A40)
    という問いに始まる。
    まずは仏教そのものの論理に貫かれているはずの経典の言葉を、有力なより所とする(A41)。
     次に、大乗経典は釈尊が説いたものでないことは明白になっているが、いかなる意味で仏説としての経典と言えるか。昔から、大乗は仏説ではないという説(大乗非仏説)も主張されてきた。
    これについては、仏は歴史上の釈尊ばかりでなく、「後世の者にも、釈尊と同等の覚体験を有するに至った人」
    「あるいはまた、釈尊の覚りを追体験した人もいたであろう」そこで証された世界を語ったものは、同じように仏説と認めてよい(A55)。覚体験とは、覚りの体験のことである。》

    経典を読む注意

    《次に経典は仏説といっても、多くの経典の中には矛盾対立するものがある。それをどう扱ったらよいか(A57)。経典を読む場合に、注意すべきことがある。第一に、相手に応じて説く。第二に、経典の言葉には、表面上とは異なる隠された意図がこめられていることが多く、その真意を汲み出さなければならない。第三に、だから種々の異説も意味があり、一概に否定すべきでない。第四に、そうであれば、経典の種々の言葉は究極の真理との距離が種々ある。つまり、種々の言説について、真理の階層性があるということを前提として解読しなければならない(A65)。第五に、相手の能力を考慮せずに真理を直接述べた部分(第一義)がある。》

    真理の階層性

    《仏教には、真理の階層性がある。中論、中観派、瑜伽行派、瑜伽師地論などの階層説を紹介している。
    ◆「いずれも、究極的には言語を離れた世界に真理を見、しかもそこに発して様々な地平の真理がありうることを一様に示している。」(A72) 《言語を離れることを「非安立」といい、言語を離れた真理を勝義諦(しょうぎたい)という。竹村氏は、大乗の論書を検討して、次のように言う。》 ◆「勝義諦という、言葉を超えた真理を根本に置く大乗仏教は、我空のみならず法空をも証した覚体験を基にしているのであり、この立場こそを深く掘り下げ、汲むべきだと、私には思われるのである。こうして、仏説としての様々な経典の言説は、まずはこの勝義諦を最深部として、そこからの距離をはかりつつ了解していくべきであろう。」(A73)

    (言語を離れたところは、知性で理解できるものではない。これがあるから、いくら優秀な頭脳の学者であっても、仏教は真に理解されてこなかったのである。現代の禅宗では坐禅して心が平安になった境地を覚りと勘違いしているようであるが、それは小乗の覚りである。それは、法空はおろか我空さえ体験していない。それが体験のない禅僧、学者にはわからない。「我空」とは、「自分が空(くう)」ということである。自分という自我には全く実態がないことを体験することである。「法空」とは「物」「客観」もそれ自体では存在しないことを体験するのである。)

    第3章 大乗仏教の覚り

    《こうして大乗仏教は、独自の立場を展開しているのが明らかになったとし、次に「では、大乗仏教は根本的にいかなる立場に立つのであろうか」(A76)ということの検討にはいる。》

    無上正等覚を説く法華経

    《法華経「序品」「譬喩品」では、声聞・縁覚たちには、四諦、十二縁起の教えを説き、菩薩のためには、無上正等覚という覚りのための法門が説かれているという(A77)。声聞・縁覚は独り自ら解脱のみを求める。他者を救わない。これに対して菩薩は、如来の知見を求め、一切衆生を救う。竹村氏は法華経の多数の箇所を引用して、言う。》
    ◆「以上ですでに例証されたように、『法華経』は菩薩のために、無上正等覚の実現こそが大事であるということをひとえに説く経典なのである。それこそ如来の知見であり、また釈尊の覚りはそこにあると『法華経』は認識していたに違いない。」(A80)

    八 不 を 覚 る

    《次に、「無上正等覚」の覚りとは何かについては、法華経「如来寿量品」や「安楽行品」に、「不生不滅」など般若心経でも知られている「八つの不」(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不出)の世界を覚ることである、と説かれている。》
    ◆「とすれば、如来の無上正等覚において見られる(証される)世界は言語をも離れた世界であり、あえて言語でもって表現すれば、一切の二元対立の否定という形になることが、『法華経』という、大乗仏教の最も代表的な経典に確認されたであろう。それこそが大乗仏教の根本にあり、大乗仏教はひとえにこれをめぐっての経説なのである。」(A82)

    (以上で明らかにされたことは、こうである。仏教といえば、現代の学者や新興宗教教団では、四諦や十二因縁を詳しく説くが、実はそれは浅い真理であって、仏教の深い真理は無上正等覚の覚りを得、ることである、というのである。無上正等覚は、禅者が言う、言葉も自分も物も絶えた絶対無相の世界であろう(この後、竹村氏の解明がある。現代日本の宗教教団や仏教書は、浅い真理だけを説いているので、「商売繁盛と健康長寿」だけでは満足できない魂が魅力を感じないのである。真の仏教はそんな浅いものではないのである。)

    他 の 大 乗 経 典 で も

     (実は釈尊も覚体験が先にあったのであり、小乗でそれが見失われたので、大乗が起こり、主な大乗経典はみな無上正等覚を覚ることが究極だといっている。縁起でさえも、覚りに導く事が本来の趣旨だった。こういうことがあきらかになったが、従来の仏教の説き方では、個人が歴史を形成していく主体であるという面が弱い。)
    《勝鬘経でも華厳教でも注意深く検討してみると、仏教の究極の旗印は、四諦や十二因縁ではなく「無上正等覚」を得ることであると言っている(A83)。「無上正等覚」は「無上菩提」「阿耨多羅三藐菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とも言う。このことは般若心経でも、「不生・不滅・不垢・不浄・不増・不減」とあって、同様である(A85)。》
    ◆「仏教ではよく発菩提心という。これも省略して発心ともいう。しかしこの内実は、実は発阿耨多羅三藐菩提心なのであり、発無上正等覚心なのでなければならない。無上正等覚を実現したい、という心が自らに確められることが大乗仏教の初めにあるのであり、それ故に人は菩薩、菩提薩タと呼ばれるのである。すなわち、発菩提心とは、四諦や十二因縁とも異なる真理を求める心を起こすことに他ならないのである。」(A84)

    釈 尊 の 覚 り と の 関 係

    《では大乗仏教は、釈尊の覚りとは関係ないのであろうか。この点については、竹村氏は、初期の仏教経典『律蔵』「大品」を検討して、次のように解釈できる、とされた。》
    ◆「釈尊は十二縁起を悟ったのではなく、覚ってから十二縁起を観察したのである。では一体、釈尊は何を覚ったのであったろうか。残念ながら『律蔵』「大品」のこの箇所には、なんらそのことについて、言及していない。 」(A93)
    ◆「この『律蔵』「大品」の記述は一見すると、なるほど釈尊は十二縁起を覚ったかのようである。しかしよくよく読むと、十二縁起の監察・考察を行ったのは七日の間、解脱の楽しみを味わって後なのである。そのことは、同様の記述を示す『ウダーナ』には、「その七日が過ぎてのちにその瞑想から出て、その夜の最初の部分において・・・」とあることからも確認できる。
     しかもその七日の解脱の楽しみのことが出る前に、『律蔵』も『ウダーナ』も、世尊は、「ウルヴェーラ村、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹のもとにおられた。はじめてさとりを開いておられたのである」と述べているのである。確かに、解脱の楽しみを味うにあっては、覚りを開いた自覚を伴っていたであろう。
     とすれば、『律蔵』「大品」の仏伝が語る釈尊の覚りは、決して十二縁起ではないことになる。まず覚りを開いて、七日の間、解脱の楽しみを享けて、それからその瞑想から出て、十二縁起を監察・考察したのである。したがって、釈尊は十二縁起を覚ったのではなく、覚ってからその覚りの眼をもとに人間や世界のあり方を監察して、十二縁起を自覚したというべきであろう。「もろもろの理法が現われる」云々は、この十二支のことについて言っていると解される。なおそこでは、世界や実存は縁起のあり方にあるのかないのかを考察・究明したのではなく、初めから縁起を前提とし縁起の論理に則(のっと)って、その中で我々の苦しみの原因を考察・究明して、根本に無明を見出しているのである。」(A92)
    《初期仏教経典の一つ『マッジマニカーヤ』の『聖求経』の中の一節にも同様の言葉があって、釈尊も八不を覚ったと理解されていた。》
    ◆「ここでは解脱の自覚と、不生・不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の涅槃を得ることが、一つのこととして説かれている。『聖求経』は、ここに、釈尊の覚りを見ているのである。」」(A96)
    ◆「私は、十二縁起を覚ったという説には与(くみ)さない。」(A96) (上座部の経典を編纂するグループには、いつのまにか覚る人がなくなって、覚りが見失われたらしい。)
    ◆「こうした本来の覚りが見失われていったとしたら、仏教の中で、それを取り戻す努力が払われるべきとなろう。大乗仏教は、正にそのために高く無上正等覚の旗印を掲げたのではなかったろうか。」(A97)
    (小乗が仏教本来の核心となるものを見失ったのを批判して大乗が生まれた。そして今また、現代日本の大乗仏教の中で真に深いものが見失なわれたと感じているのは、私だけではないようだ。竹村氏も、そう感じておられるに違いない。もう一度、見失ったものを取り戻したい。現代こそ、それが必要とされている時であるから。)

    「中論」の縁起解釈=因果異時か同時か

     (縁起は時間的関係、「因果異時」しかありえないという学者がいるが、これに対する反論がある。竹村氏は龍樹の「中論」の縁起解釈と唯識の縁起解釈を考察する。龍樹の縁起を考察して、次のようにう。)

    ◆「因なくして果があることはありえない。したがって、因が滅して因が無となった後に果が生じるとするのは、まったく妥当ではない。しかしだからといって、因が滅しないうちに果があるとするなら、少なくとも時間的因果関係はありえず、因果は同時的といわざるをえない。そこをなお時間的に見ようとして、因は滅するというと、果とともにあるべき有と滅する無との矛盾する二が因の自体ということになり、そもそも因が成立しなくなってしまう。このように、時間的「因果関係は、論理的に決定的な困難をかかえているのである。」(A102)

     (「成唯識論」の縁起解釈を考察して、こういう。)

    ◆「縁起は現在実有のそのダルマの上に仮に設定されたものにすぎない。体・用において前後に何らかつながっているものがあるわけでは全然ない。現在はあくまでも現在のみにおいて捉えられなければならない。その現在の、現在から現在へのみが我々の自己=世界の原点なのである。縁起の教理に直線的時間を見るべきではない。むしろ、即今・此処・自己の現在に帰すべきだったのである。 」(A107)

    ◆「以上、『中論』と『成唯識論』の縁起観を見たが、−に因ってーが生ずという見方は決して究極の立場とは説かれていなかった。むしろ縁起は言葉による仮設にすぎず、さらに言葉を離れた真実の世界があることが主張されていた。大乗の旗印ともいうべき無上正等覚はその世界を直接に証することであろう。それはまた釈尊の悟りに直結するものだったのである。」(A109)

    別ファイルに続く


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    第1章 釈尊と大乗仏教
      仏教とは何か
      様々な仏教宗派
      開祖の権威も認めない
      大乗仏教の仏
      深い宗教体験
      大乗には深い真実
    第2章 仏教の言葉と真理
      覚者の言葉は経典
      経典を読む注意
      真理の階層性
    第3章 大乗仏教の覚り
      無上正等覚を説く法華経
      八 不 を 覚 る
      他 の 大 乗 経 典 で も
      釈 尊 の 覚 り と の 関 係
      「中論」の縁起解釈=因果異時か同時か
    第4章 縁 起 思 想 再 考
      縁 起
      西 田 哲 学
    第5章 大乗仏教の共同体
      常 に 働 く 仏
      信 仰 共 同 体
    第6章 現 代 社 会 と 仏 教
      末 期 的 現 代
      現 代 的 意 義
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    若い人たちへ

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