禅と日本文化
千宗旦(せんのそうたん)
千宗旦年譜
千宗旦(せんのそうたん)は、千利休(せんのりきゅう)の孫である。宗旦の子供が現代まで続く表千家、裏千家、武者小路千家の祖である。宗旦は禅と茶は一つであるという、茶禅同一味を説き、大名に仕官せず、清貧の生活の中で、禅とひとつの茶道に徹した。
千宗旦年譜
- 天正6年(1578)誕生。利休の後妻宗恩の子供、少庵と亀(利休の娘)との間に生まれた。
茶名、宗旦、字は元伯。
利休には男子道安がいたが、子供がなくて、血筋が絶えた。利休の血は、娘を通じて宗旦につながっているというのが通説(F74)。
◆「『元伯宗旦文書』の研究につれて、利休の実子道安の子という説が有力となってきた。」(C49)
- 十歳のころ、祖父利休の意により大徳寺に入る。春屋宗園(しゅんのくしゅうえん)に喝食としてつかえ、禅の修行をする。後に得度して蔵主になった。(A154)
少庵は、利休の後妻の子供であったため、その男子宗旦は、利休の後をつぐものではないという少庵のきがねから、出家させたのではないか、という解釈も。(F82)
- 天正19年(1591)2月、利休切腹。父、少庵は会津、蒲生氏郷に預けられる。道安は、飛騨に預けられたらしい。(F79)
利休の家督財産(堺)は道安に譲られた。(F81)
- 文禄3年(1594) 道安、少庵、秀吉に許される。道安は、秀吉の茶頭に復帰(F80)。秀吉の死後、道安は、堺に行った(F81)。
道安には、子供がなくて、慶長12年(1607)死亡。堺千家は断絶(F85)。
少庵は、会津から戻って、京都本法寺(日蓮宗)の門前の屋敷に住む(F85)。
このころ、宗旦も、家に帰る。宗旦、秀吉から、利休遺愛の茶道具をもらう(F86,A155)。
宗旦の長男、宗拙が生まれたのは、宗旦が大徳寺にいた頃になるが、謎である(F84)。亀の知恵で、宗旦に結婚させたのではないか(F84)。
- 慶長5年(1600)のころ、少庵の家督をつぐ。文禄5年の説もある(H516)。
- 慶長13年(1608) 春屋和尚から授与された床掛け物で茶会をした記録がある。
- 慶長19年(1614) 父、少庵が死亡。
- 元禄4年(1618)ころ、一畳半座敷を作り、侘び茶の湯の宣揚をはかるが、経済的には不如意。「乞食宗旦」と呼ばれたが、仕官しなかった。
◆「仕官することを館入り(やかたいり)と称しますが、しかし宗旦は、いくら貧乏してもついに館入りをしなかったといわれています。」(F88)
◆「たしかに宗旦自身は仕官することはなかったのですが、息子たちの有付(ありつき)については、まさに奔走していることがわかってきたのです。有付とは、文字どおり有り付く、つまり就職することです。」(F89)
- 寛永10年(1633) 新築の一畳半座敷に、太閤近衛信尋を迎えて茶会。その後もたびたび御成り。これより、宗旦の名があがる(H516)。
大徳寺の長老が、宗旦をひきたてる。沢庵が宗旦を柳生但馬守宗矩にひきあわせる(H517)。
- 寛永19年(1642) 宗左が、紀州徳川家に有り付く。弟子の四天王も仕官、または、自立し、名をあげた。
- 正保2年(1645)医者の野間玄琢に弟子入りしていた宗室が帰ったのを機会に、隠居。翌年、今日庵を建てて、移る。宗室は、後、加賀小松前田家に有り付く。
◆「当時、宗旦は京衆の堕落した茶湯を嫌って大徳寺に参ずるか、独り茶湯がましだといっているが、ここで茶禅一味の茶湯の工夫に努めたのである。このため寧日もなく、また京衆との交わりを嫌ったのであろう。これに京衆らが宗旦の茶湯をしきりに望んだのがわかる。」(H517)
◆「宗旦は忘貴嫌富の茶道精神に徹し、またこれの展開をはかった人ということができる。宗旦への追慕は高まった。太閤予楽院の(待医山科道安の)『槐記』など、これの賛辞に満ちている。宗旦忌が賑わうゆえんである。」(H517)
- 万治元年(1578)死亡。81歳。
(注)参考文献
A.『茶道の歴史』桑田忠親、講談社学術文庫
B.『茶と禅』 伊藤古鑑、春秋社(『茶禅同一味』が掲載されている)
C.『日本の茶書』 平凡社、(『山上宗二記』)
F.『茶人の系譜』 村井康彦、大阪書籍
G.『茶の心』桑田忠親、東京堂出版
H.『原色茶道大辞典』 淡交社
J.『南方録』 岩波文庫
◆「 」は、文献からの引用
三つの千家
宗旦は、一生仕官せず、野にあって茶の指導をしたが、しかし、その子供は、各大名に仕官もし、現代まで続く三つの千家の祖となった。
- 長男=宗拙(加賀前田家、すぐ辞職。正伝寺に奇遇、そこで死亡)
- 二男=宗守(当初、塗師屋の養子。讃岐高松の松平家に有り付く。武者小路に屋敷を構える。武者小路千家。官休庵。)
- 三男=宗左(千家の家督。1633頃、肥前唐津の寺沢家の茶頭に仕官。寛永16年、讃岐高松の生駒氏に有付。19年、紀州徳川家に有付。表千家。不審庵。)宗左と宗室は、宗旦が再婚した宗見の子供。
- 四男=宗室(当初、医者に入門。加賀小松前田家に有り付く。裏千家。今日庵。)
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