もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と文学
夏目漱石
漱石の小説と禅
漱石の小説と禅
漱石の作品は「人間」「こころ」を追求したために、禅と極めて密接な関係を発見することができる。個々の作品を詳しく検討する必要があるが、禅の眼から大胆にざっと一部を見るとこういえる。
『草枕』
『草枕』は「人は世界を作る」という人間の創造的側面を描く。人間一人一人が「世界を描く」「世界を作る」ことが『草枕』全体の底にある。「桃源」をたずねる画家の話であるが、注意深く読むと「桃源」とは「こころの根源」である。軽薄な人はものごとを色眼鏡で見て、真実の姿を見ていないことを描いている。色眼鏡で見る世界とそれを取り払って真実の世界を見る、作る「こころ」を描く。華厳経に、心は画工の如し、とあるが、これにヒントを得たのか、それとも意識して、華厳経の世界観を描こうとしたのか、設定も、その構想も似ている。
禅のめざすものもほとんど変わらない。ところがそういう『草枕』を読む人はすべて自分の色眼鏡で読むから、漱石の意図は理解されないわけである。
『虞美人草』
『虞美人草』は、「一人の世界」と、他の「一人の世界」のかかわりを描く。『草枕』では「自然」「他人」を描く(ということは創造するということ)自己=心を教えたが、この小説では「自己の苦悩」を自ら作る様を描く。
「我」の強い女性(藤尾)が最後まで「我」を捨てないために不幸になる。一方、「我」を最後には捨てたために、幸福になった男が小野。しかし、小野は本当に幸福になったか。人を自殺に追い込んだ夫婦の行く末は『こころ』で扱われる。一人の心から発する言葉がそれを聞いた相手の心に正しく受け取られない様子を示す。言葉は、発信者の意図したものと違って解釈される。経典、禅の語録が研究者によって、違って解釈される。
『坑夫』
『坑夫』は、人間の心の二重構造、通常人が「自覚しない世界」があることを描こうとした。漱石がその意図を達成したかどうかは別として、ねらいは、そこである。真の自己を人は知らないが、すでに、そこに生きている。そこは、俗世界の罪が許される世界であり、懺悔の問題も説く。仏教で、人間の根源は、「本来清浄」という。
『三四郎』
『三四郎』は、一人の青年が、自分では、三つの世界を持っているような気がしながら、どの世 界にも積極的に生きていないことを説く。三つの世界は、自我がとおる世界、自我が受容される世界、自我が通らない世界である。「自我」は自分の基準、自分勝手な見方である。これも、漱石が、仏教と同じような、迷いの自分と、悟りの自分のような、違う次元の自己を描いてみようとしたのだろう。
『彼岸過迄』
『彼岸過迄』の構造は、自己の心に、他の人の人生が描かれていく、心の様子をあらわす。普通の人間の生きることの形を見せた。我々は、常に他人の人生の一部を垣間見る。隣の人々と集まって、他人のうわさを聞く。多くの人の人生経験の断片を聞く。その話は全体としてほとんど、本人が生きる上で役に立たない。多くの時間、すなわち自己の生命を他人のプライバシーを覗くという下らないことのために無駄遣いしている。他の人の観察と批判である。学者や批評家も同様である。自分のものではなくて、他の人のものをのぞく。
敬太郎は探偵のように他の人の行動を監視し、依頼者に報告したが、彼の観察した男と女のは事実と彼の予測は全く違った。これは、漱石の他の小説でも説かれる「事実と言葉」「事実と思想」は全く違うという信念(哲学)の繰り返しであろう。
事実と推量が違うことを扱う。これは禅で強調することである。禅や仏教は文字を学習する思想ではない。自己の正体を直に見よ、事実で体験せよ、と。
「松本の話」では、よかれと思って企んだはからいが却って、不幸な結果になっていく人間の自我のはからい(作為)のむなしさを示す。この中で「考えずに観る」ことを説く。「草枕」では、「非人情」で見るといっていた。
『行人』
『行人」は禅の哲学を的確に理解している学者が現実の自分の苦悩には全く無力であることを描く。「自分が幸福でないものに、他を幸福にする力があるはずがありません。」(塵労五十二)という言葉は漱石の反省であり、また仏教学者への批判である。
小説の主人公の学者は、自分の外に神や仏はない、と思う。自分(他の邪教がいうような教祖のみではなく、すべての人の自己)が神であり、絶対であるとか、「自分でその境地に入って親しく経験する事のできるはっきりした心理的のもの」(『塵労』四十四章)という禅の悟りを語る。自己を脱落すれば自他の区別がなく、すべてが自己となる。自己の底にすべての創造の根源を自覚する。これを一郎のように、ただ頭で理解しただけでは救われない。
「他(ひと)の心は外から研究は出来る。けれどもその心に為って見る事は出来ない。」
「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ。」(『兄』二十一章)という言葉がでてくる。
この学者は、こんな崇高な哲学を口にするくせに、自分で作為をして、それが却って自分を不幸にしていくことになることに気がつかない男を描いて、自我による作為、はからいの罪悪を描く。
漱石が『行人』で描いた状況は、現代の仏教学者、禅学者が苦悩する自己自身と現代人を救えないのと同じ状況である。漱石の時代から現代に至るまで、漱石の言葉に反して学者が考える仏教、研究する思想に落としてしまって、現代の仏教は知識だけの実際には生かされない、無力なものになってしまった。そのためなのか、人々は、禅を含めて伝統仏教に失望し、新興宗教に頼っている。この漱石の警鐘を現代の宗教学者は耳を貸してくれない。現代の精神のひずみは、救いようのないほど重症のように感じられる。
『こころ』
『こころ』は言葉は事実を伝えない、事実を背景とした思想は同じ事実体験をしない限り真に理解できない、という「こころ」の真相を描いている。
「先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。」「その思想家のまとめあげた主義の裏には、強い事実がある」と思って、言葉だけでは満足せず、裏の事実を教えろと強くせまる青年が登場する。先生から「言葉」で先生の体験を伝えられるが、それが現実の自分が同様の体験の現場におかれた時に役にたつかどうか考えよ、と我々読者に宿題を与えた。
「事実なんですよ。理窟じゃないんだ。」という言葉は、禅の標語でもある。仏教思想を学ぶのではない、書かれたものになりきるのだ、いやそういう(不生不滅の自己、無相無我の自己)自己であることに事実体験し、その事実に生きるのが仏教だ。口だけで美しい言葉を言ってもだめだ。本人がそうならなければ。
これらの作品を具体的に詳細に味わいたい。「禅文学を読むゆうべ」で、そういう作品を詳細に味わう機会を持ちたい。仏教や禅(と同様の、心、エゴイズム、人間の根源、自己の外に絶対者をみない宗教、など)を作品におりこもうとした作家に、夏目漱石、宮沢賢治、川端康成、岡本かの子、志賀直哉、遠藤周作など、さらに詩人、俳人にもいて、日本文学の深さを味わうことができる。
漱石には、ほかにも、興味ある作品がある。漱石は、「行人」や「断片」を見ると、禅の研究をしているので、禅の長所、短所を小説に織り込もうとしていたことは予想される。
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