もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

夏目漱石

自己本位と則天去私

人間とは何か生涯追求

 漱石を語る時、「自己本位」と「則天去私」がいわれるが、前者から後者へ変化していったのではなく、両立する。前者は、人まねであない生き方であり、後者は、自我に固執しない生き方である。

文学はわからずじまい

 漱石は、東大でイギリス文学を専攻したが、「三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです」といっている。そして教師になったが、「腹の中は空虚」「不愉快」だった。「不安を連れて松山から熊本へ引っ越し、又同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。」

自己本位に気づく

 漱石は、イギリスへ留学したが、やはり文学がわからない苦悩かた、神経衰弱になった。しかし、ひとつの目覚めがあった。「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作りあげるより外に、私を救う途 はないのだと悟ったのです。」
 まねごとでなく、「自己本位」で行こうと思った時、心が軽くなり、今までにない学問の使命感に燃えた。 「今までは全く他人本位で、根のないうきぐさのように、そこいらをでたらめに漂う」 「他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、 それを理が非でもそうだとしてしまういわゆろ人真似をさす」
 漱石は、自己本位の『文学論』を著述するのを「私の生涯の事業としようと考えたのです。」
「その時私の不安は全く消えました。」(以上『私の個人主義』)
 その方向は、「世界をいかに見るべきや」「人生をいかに解釈すべきや」「人生の意義目的およびその活力の変化」「開花のいかなるものや」「文芸の開花におよぼす影響」を論ず、というのが構想だった。(明治35年2月、「妻の父あて書簡」)

失敗した『文学論』

 漱石は新しい使命に燃えて、帰国したが、一族の困窮が待っていた。衣食のために、一高と東大の教師になった。その合間をぬって、自己そのものの成立の根底(生命)を明らかにするために、科学や哲学を勉強した。しかし不可解な倦怠と焦燥、空虚が襲い、再び神経衰弱になった。四十歳の時、『文学論』を書いたが、漱石は失敗と認めた。
 四十歳の時、文学論の行き詰まりと、経済事情から、大学をやめて、朝日新聞社へ入社した。()これから文学論から創作へ、学者から作家への転向をはかった。
 漱石は当時の文学に批判的だった。文学者は美的な文字だけではだめだ(鈴木三重吉あて書簡) 「死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士のごとき烈しい精神で文学をやってみたい。」といっていた。漱石の文学は、このゆえに「人間」「こころ」について深く探求している。その作品を読むとまるで「禅」と同じではないかと思わせるのが多いのは、この漱石の決心のためであろう。
 『文学論』は失敗したが、「自己本位といふその時得た私の考えは依然としてつづいています。
「その時確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。」(以上四十八歳の時の『私の個人主義』)

我と我の対立に悩む

 漱石に『道草』という小説があるが、これは若い漱石夫婦の実像を描いたといわれている。これによって漱石夫婦の対立状況を、後に漱石が、「こころ」についての見方が深まった立場から夫婦の「こころ」を分析している。漱石は、妻のヒステリーに悩んでいた。自我と自我の対立からストレスが最高潮に達してヒステリーがおこる。その夫婦の対立、互いの意志が相手に正しく伝わらないで対立を深めていく様子を漱石は『道草』に描いた。二十四、二十六、三十、四十七、七十八章など、その対立を鮮明に描いている。 妻の我と漱石の我の対立から不幸になっていく。お互いに自己の我には気がつかない様子が、二十一、四十七、五十三、五十六、六十五、八十四章などに描かれる。
 そんな妻との生活に、漱石は明治四十年「僕の妻は何だか人間のような心持ちがしない」と鈴木三重吉あての書簡で嘆いていた。その妻からの情報で妻の父も漱石を変人扱いし、漱石は妻の父とも対立を深めた。(『道草』七十七章)これが漱石の実際だった。

則天去私

 自我と自我との対立に悩みながら、心理学や禅を研究しながら、創作を続けていたが、漱石は、大正四年『硝子戸の中』連載の頃、真に偉大なものに気がついたと思われる。『道草』五十七章に「金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼にはいって来るにはまだ大分間があった。」と書いている。大正四年の『断片』に「大我」と「技巧」「絶対の境地」などの考察があり、禅の追求するところと同じところを考えていたことが分かる。偉大なものに気がついてから、自分の過去を振り返って書いたのが『道草』であると思われる。
 漱石の晩年の境地は「則天去私」という言葉で表現される。
「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」(大正四年『断片』)という言葉は大正五年『明暗』を書いている頃、十一月九日から言われた。無私(無我)にて動くとき、天,おおいなる自然の意志の働きが出るということであろう。これは禅に通じる。
 『道草』夫婦のようなの我執(漱石はいっていないが、「去天則私」にあたる)の人と「則天去私」の人を対比させて著すのが小説『明暗』であるといわれているが、未完成のため、残念ながら、「則天去私」の人については十分書かれていない。

体得すればその方がよい

 「則天去私」は思想ではなく、生活事実とならなくては「則天去私」でないと思われる。「天に則して私を去る」という間は、まだ思想である。行動の規範として「則天去私」という思想を持つというのではなく、行動そのものが「則天」であると同時に「去私」でなければならない。だから「則天は去私なり」となるべきである。ただ「そくてんきょし」の行動として生きる時、思想ではなく、事実となる。それは、無心、無我、自然法爾(親鸞)と同じ生き方であると思われる。
 漱石が死亡の直前に作った漢詩に、禅僧批判の漢詩(大正5年9月23日)がある。形だけの仏法で、それが生活にいかされていないことを批判したものだろう。また「志なりがたし」という漢詩(同11月19日)もある。漱石は思想として「則天去私」という境地に気がついたが体得でなければどんな高尚なものでもいかされないことに気がつき、ようやく「体得」に志した。「道にはいろうと思う」と和辻哲郎あての書簡(大正2年)に書いたり、大正四年三月二十一日の日記(津田のもとめで京都に行った時)「自分の今の考え、無我になるべき覚悟を話す」ように晩年になってようやく志しを持った。
 思想は生活の事実となり、体現まで至らなければ他人本位のまねごとであるという学者や僧侶などの不誠実なくろいうとと同じだったのである。『道草』には、「その域に達する」という言葉があり、(七十八章)、漱石を慕ってたずねてきた禅僧あての書簡には「字がまずくても道を体得すればその方がどの位いいか」 と書いている。漱石は「こころ」を探求して、晩年になって、思想的には、「こころ」の大きなものに気がついたが、晩年にして「体得」せねばならぬと志し、ついに中途で死んだのである。
   
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