もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

夏目漱石と禅

夏目漱石と禅

 明治の文豪、夏目漱石の小説は現代でも幅広い人々に読まれている。漱石の作品は、心、人間を描いたからである。また、そのために、漱石の作品には、禅のこころが色濃くにじみでている。禅は「人間」「こころ」とは何かを探求するものであるが、漱石の文学への方針もそうであったためである。漱石は自身で禅を行じ、禅の語録を読んで禅を研究し、あこがれた。

漱石の禅への動機

 漱石は早くから禅に興味を持っていたらしく、兄嫁・登世が死亡した明治二十四年(漱石二十四歳)には「生まれながらにして悟道の老師のごとき見識を有したるかと怪しまれ候くらい」と友人正岡子規あて書簡で禅僧にことよせて述べている。二十七歳の時、厭世気分に陥り、松島に行き、南天棒に参禅しようと思った(子規あて書簡)がその時は近くまでいって断念した。とびこむほどの勇気がなかったようだ。
 ついにその暮れ鎌倉の円覚寺に参禅した。十日間ほど滞在したが、ものにならなかった。「参禅のため帰源院と申す処に止宿致し、旬日の間−−ようやく昨日下山の上帰京つかまつり候。五百生の野狐禅、ついに本来の面目を撥出し来らず、ご憫笑くださるべく候。」と斎藤あて書簡に述べている。
 この時、漱石が坐禅した様子が、小説『門』(十八から二十一章)に書かれている。
 『門』は、人の妻を奪った宗助が、ある時から不安を感じて参禅する。しかし、救われない。不安は小康を得たが、また冬が来ると予想する。参禅は苦悩する人間、漱石の宗教的要求だったのである。
 漱石はイギリスで神経衰弱となり、帰国後も妻鏡子との我の対立に悩み、自我の迷執ゆえに悩むと教える禅の研究に没頭し続けたことがうかがわれる。自己本位という他の真似ごとや、主義、イズムをかかげて同一思想に走るインテリを弾劾し続ける漱石には、漱石の文学作品がいいかげんなものですますことはできなかった。文学論を執筆のため、「人間」「自己」の模索し、後には自ら理想とする文学を作ってみることになった。その作品の主張も「くろうと」の不誠実な思想ではなく「真の救い」が必要だった。それには自分自身が救われるものでなければならなかった。そのような漱石だからその作品は「人間」「こころ」の真実に迫ったものとなったのである。

晩年の漱石と禅

 漱石が死ぬ前の年書いた『断片』に「一度絶対の境地に達して、また相対に首を出したものは容易に心機一転が出来る」「自由に絶対の境地に入るものは自由に心機の一転を得」とある。これは禅の悟りである。漱石は禅の悟りにあこがれていたのである。『行人』の一郎のように。
 四十六歳頃から、体得でなければだめだと感じたらしく、和辻哲郎あて書簡で「道にはいろうと思う」と述べている。数多くの禅書の研究をしており、大正4年書いた『断片』に禅と類似の言葉が多い。さらに大正四年三月二十一日の日記に「無我になるべき覚悟」を人に話したと記されている。
 大正四年、死ぬ前の年、禅僧への書簡には、「あなたの提唱を聴くまで生きていたい」 「字がまずくても道を体得すればその方がどの位いいか」「自分の分にあるだけの方針と心掛けで道を修めるつもりです」 と述べている。
 『明暗』を書いた後、漱石に数年本気で坐禅してもらうだけの生命が与えられていたら、と残念である。
   
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