もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と文学
夏目漱石と禅
漱石略年表
- 慶応3年江戸牛込で誕生。本名は金之助。父は江戸町奉行所直属の名主で、母は後妻。五男三女の末子。漱石は一歳で養子に出されて、九歳の時、養父母が離婚し、漱石は実家に戻った。
- 明治二十三年(二十三歳)東京帝国大学英文科に入学しイギリス文学を専攻。
- 明治二十六年 大学院に進学。東京高等師範学校英語教授となる。
- 明治二十七年十二月、厭世気分に陥り、鎌倉円覚寺に参禅。
- 明治二十八年、松山中学校教諭として赴任。
- 明治二十九年、熊本第五高等学校講師として赴任し、鏡子と結婚。妻のヒステリー性の痙攣発作に悩まされた。妻との間がうまくいかなく、親類は変人扱いしていた。
- 明治三十三年、妻を東京に残し、文部省の命令によりイギリスへ留学した。文学がわからない、留学費の不足などで、神経衰弱に悩んだ。発狂したとの噂が日本に伝わり、三十五年呼び戻された。
- 明治三十六年、東大英文科講師になり、七月頃、神経衰弱になり、鏡子は実家に帰って、二ケ月別居。
- 明治三十八年、『吾輩は猫である』を発表。
- 明治三十九年、『坊ちゃん』『草枕』『二百十日』書く。
- 明治四十年、『野分』発表の後、大学を辞職して、朝日新聞社に入社。『虞美人草』を朝日新聞に連載。これから後、漱石の小説はすべて朝日新聞に連載された。
- 明治四十一年、『坑夫』『夢十夜』『三四郎』連載。
- 明治四十二年、有名になった漱石を養父がたずねてきて、金を無心された。『それから』を連載。このころ胃痛に悩まされた。
- 明治四十三年、『門』を連載。八月、伊豆修善寺へ行き、病状悪化、胃ケイレン、吐血などあり、危篤に陥った。
- 明治四十四年、文部省から博士号を授与するという通達があったが辞退。
- 明治四十五年、『彼岸過迄』を連載。この頃、また胃の具合悪く、神経もいらだつ。七月、明治天皇の崩御、乃木将軍の自殺事件があった。『行人』の連載を開始した。
- 大正二年、胃潰瘍のため、四月七日、『行人』を中断し、九月十六日から再開。
- 大正三年、『素人と玄人』『こころ』を連載。九月、四度目の胃潰瘍の発作がおこる。この年「私の個人主義」と題し学習院で講演。この年から翌年、良寛の書に傾倒。
- 大正四年、『硝子戸の中』『道草』を連載。
- 大正五年、五月、胃の具合が悪くて寝込んだが、『明暗』の連載を開始した。午前は小説『明暗』、午後は漢詩を作った。十一月二十二日、胃潰瘍の発作が再発し、十二月九日、死去した。満49歳。『明暗』は、十二月十四日、百八十八回で中断となった。
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