もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会−大田のページ

前ページに戻る 

高橋新吉の詩


  • 鑑賞−高橋新吉の詩
  • 雀をうたった新吉の詩
  • 嫌な「雀」
      −ありのままの自分を肯定できない
  • 悟道の後
      −自由自在に飛ぶ雀
  • 楽しく笑う雀
  • 雀は死んだ
  • 死なない雀
  • 飛び去った雀
  • 無数の雀

    参考文献(ページを次の記号で示す)
    (E)平居謙「高橋新吉研究」思潮社
    (G)金田弘「高橋新吉五億年の旅」春秋社

    鑑賞−高橋新吉の詩

     高橋新吉は、若い頃は、精神が不安定な時期があり、一時、精神分裂病(当時の病名、現在「統合失調症」という)になった。座敷牢にとじこめられていた時、出たら坐禅をやろうと決心したが、父が自殺した。その罪悪感に苦しみ、実際、熱心に参禅修行をした。そして悟りを得て、大きな安心を得た。詩人としても、そのような心の遍歴をうたった類いまれな、形而上詩人である。そのような、変化の激しい七〇年間に、数多くの詩を作ったとしたら、詩にも、その心の遍歴が反映されている。
     新吉の詩を鑑賞するが、一般の人には、歯が立たない詩もあって、鑑賞を困難にしている。
     たとえば、次の詩はどうであろうか。晩年に近い、八十三歳の時に刊行された詩集『海原』(青土社)の中の詩である。

    
    《石》
     私は目をつぶって石をかみくだいた
     その石が鶏の尻から出た
     鶏は太陽を恨んでいる
     太陽はゲラゲラ笑っている   (《石》部分)
    
    《鯛の復活》 
     言葉で表現されたものは真実とは遠いものである
     物事は表現され得るものではないからだ
     その一瞬において 価値をあらしむるのだ
     
     潮に侵入された部屋の中を鯛は暴れまわった       
    
     そして部屋の外へ飛び出した
     空間には外も内も有り得ない          
    
     音もなく死の扉は開かれた
     頭と顋を切断されて鯛はその生涯を椀の中で過した   
     鯛の眼は汚れた人間の手を見据えていた
     キリストの復活を真似て鯛はついに蘇った
     どこからともなく喜びの歌がきこえる
     潮は天井まで満ち溢れ吸物椀も漂流する
     鯛は悠々と尾鰭をうごかして泳いでいた  
          (一九八四年詩集『海原』)
    
     これらの詩は、少々のことでは、わからない。《石》の詩の石、鶏、太陽、は何だろうか。《鯛の復活》の詩の潮、部屋、鯛、死の扉、椀、は何であろうか。これを何と、わかる人は、高橋新吉の詩を鑑賞できる。できない人は、新吉から、ほくそ笑みながら、勉強して下さい、と励まされているのだろう。一九五二年の、『高橋新吉詩集』(創元選書)に次の詩があるからである。
    
    《意味》
     いかなる言葉にも どんな内容でも持たせることが出来る
     一般と通用しない反対の意味を持たせることも詩人の勝手だ
     そして一人でホクソ笑んでゐる事も詩人には出来る     
                        (一九五二年『高橋新吉詩集』創元選書)
    
     平居氏は、この詩について「詩人としての開き直りとも思われる言謂い」(『高橋新吉研究』E131)と言っている。詩人は、新吉は、言葉に、どんな内容でも持たせるのだ。鯛とは何か。太陽とは何か。こういうことを探求するのに興味のある読者でないと、新吉の詩は難しい。人間の根源の真実をうたっているのだ。
     新吉の詩を鑑賞する場合、宮沢賢治の詩や、永田耕衣の俳句の鑑賞の際と同様の言葉に盛り込んだ内容のなぞときが必要になる。宮沢賢治の詩にも表面の言葉とは違った裏の真実の意味が隠されている。

    雀をうたった新吉の詩

     新吉の詩をたくさん鑑賞したいが、新吉の詩は、あまりに多いので、今回は、「雀」をうたった詩を中心に鑑賞してみたい。面白いことに、「雀」一つにも、新吉の生涯の心の遍歴があざやかに残されている。
     前にあげた詩で「鯛」とは何だろうか、という問題を出しておいたが、「雀」とは、たいてい「自分自身」だという(次の飯島氏の言葉参照)。とすれば、精神を病んだ「雀」もいれば、悟りを得て安心を得た「雀」もいるはずだ。そこに注目して新吉の「雀」の詩を鑑賞しよう。

    嫌な「雀」

      −ありのままの自分を肯定できない

      −ほかのものになりたい

     まず、一九二六年、『祇園祭り』の詩である。
    
    《あゝ鯖になりたや》
     私の父は何時も鴬のやうな声を出す
     耳の付け根から首の辺りは 肥料にする鰊そつくり
      だ
     小さな雀程しかない頭をした私を
     父はも一度鶏の卵の白味に包んで
     孵化させようとする。
     あゝ鯖になりたや
           (一九二六年、『祇園祭り』)
    
     飯島氏はこういう。
    「転生願望の詩である。鯖になりたやというところは、いかにも瀬戸内海の沿岸の浜辺育ちの人らしい。新吉氏が「雀」と書くときはたいてい自分自身のことである。彼は母のことよりもよく父のことを書く。」(『詩人の笑い』角川書店)

     この詩では私を修飾する語句の中に「小さな雀」とあるので、わかりやすい。ありのままの自分を肯定してくれず、父から見れば、「だめな新吉」、偉くなれ、勉強しろ、もっと違う者になれ、と責められる自分である。そしてそれを自分でも認めざるをえない。自分も、そのままの自分を肯定できない。他の者に生まれたかった。この「雀」は、矮小な自分である。ありのままの自分を肯定できない病的なところがある。

    心の病気の再発

     この頃の新吉は、心の病気の再発の不安と死の不安をかかえていた。それを解決しようと、一九二八年、坐禅を開始したが、まにあわず、精神分裂病(統合失調症)が発病した。翌年、9月、父が自殺して、新吉は一層おいつめられた。病が治って、座敷牢から出て、一九三二年、上京した。新吉は精神の安定を求めて、再び参禅を始めた。
     次の詩は、参禅を開始して、まもなくの、昭和十一年(一九三六)に刊行された『新吉詩抄』におさめられたものである。参禅してまもないので、この詩を見ても、まだ、安心を得ていないことがわかる。

    抹殺したい自分

    
    《雀》
     焼け焦げたやうな雀が
     草つ原を歩いてゐる
     此の生き物を一掴みにして
     口に入れたい衝動と
     大空に 砲弾の如く投げ飛ばして
     再び墜ちて来ないやうにしたい欲求とが
     僕の腕を顫はせた                    (顫はせた:ふるはせた)
        (一九三六年、『新吉詩抄』)
    
     飯島耕一氏はこの詩についてこういう。
    「「雀」はたいてい詩人自身と見做してよい。ともかく本物の雀であるとしても、自己と同一化している雀を、より同一化したい欲求がここにはある。この雀は墜ちて焼け焦げたようになっているのだが、それを墜ちないようにするのもいい。自分というものを凝視しつくしたことばがここにある。あまりの凝視はかえって瞑目して黙想しているかのようだ。」(『詩人の笑い』角川書店)

     飯島氏の言うように、この詩の「雀」は、新吉、すなわち、自分である。 前の詩と違って暗喩となっているから、「雀」が「自分」だと言っているわけではないが、この「雀」は自分である。憔悴しきった自分、自分が自分で気にくわない。抹殺したい自分である。そういうみじめな自分である。自己否定が強まっていて、まさに病的である。精神の病にかかり、父を自殺に追い込んだのが、七年前であった。そして、一年前から本格的に参禅を開始していた。参禅を開始しても、まだ自分の本当の姿がわかるはずもなく、このように、自己否定、自己抹殺の観念に支配されていた雀、新吉であった。

    まないたの雀

     次は、その二年後、昭和十三年(一九三八)、詩集『雨雲』の中の詩である。「雀」に変化が見られるだろうか。
    
    《雀》
     大根を軒端に干し
     菜刀を持つて
     爼上に横はる雀を屠んとす       (爼 :まないた)(屠ん:ほふらん)
    
     曾て、茱萸の樹の枝にとまり     (茱萸:ぐみ)
     何を饒舌りゐたるや             (饒舌:しゃべり)
     黒き血の羽毛に固まりて
     眼閉ぢ、足跼めたる雀よ
     自らの卑小に憤り
     世を罵りし事有りや   
    
     低迷の空に飛翔しゐたるものよ       (飛翔:ひしょう
    
     汝の頭骨を火にアブリ
     汝の心肝に醤を注ぎ
     以て食はんとす
    
     我を恨まば、口腹の裂くるまで号泣し、絶叫しつゞけよ
    
     わが飢を充すに足らざれども
     積日の鬱を些さか以て晴らさんとす   (鬱:うつ)(些さか:いささか)
     徒らに恣意を振ふにあらず
     凶暴なるが如くなれども、権力の前には我も又地に墜ち
     し一羽の鳥にだに如かず                (如かず:しかず)
    
     然れども、汝若し霊有らば
     寂寞の翼を再び逆風の中に飜えせよ    (飜えせ:ひるがえせ) 
        (一九三八年、詩集『雨雲』)
    
     この雀も自分である。雀、自分をみつめている。なぜ、自分が、これまでだめであったかがわかりかけている。これまで、偉そうな言葉(詩)を書いてきたが、実に浅いものだった(低く空を飛んでいた、迷いだった)。坐禅によって自分をみつめたために、自分の過ちが見えてきた。だが、そんな自分の浅はかさが見えるようになったということは成長である。希望がある。
     だが、日本は軍部の独走で、大陸の侵略をすすめていた。この後、軍部権力に屈服せざるをえないのではないかとの鋭い予感。だが、外見では屈服しようとも、精神まではくさらないぞ。そういう不屈の精神も、この詩に感じられる。あのみじめだった雀が、こんなにも強い雀になった。参禅して三年が経っていた。  権力に屈服する無念さは、次の《高射砲》にも見られる。
    
    《高射砲》 
     その思想をさらつて
     風は大海の上に出た。
     その思想の下には
     漂渺として、魚が泳いでゐた。
    
     その魚の鱗片が剥げて無が生じた。
    
     その無の周囲を哲学がうろついてゐた。
     その哲学を高射砲が狙撃した。
     その高射砲を墜落する空間が破壊した。
        (一九三八年、詩集『雨雲』)
    

    悟道の後

      −自由自在に飛ぶ雀
     前の詩から四年後、昭和十七年(一九四二)、新吉は見性した。日本は、太平洋戦争に突入していた。見性したといっても、まだまだ、迷いはある。新吉は、戦後、昭和二十八年(一九五三)に、足利老師から、大悟を印可された。あれほど、死の不安におびえていた新吉は、死の問題を解決した。
     それを歌った詩は数多く作っているが、その前年(一九五二)の『高橋新吉詩集』(創元選書)で、一つだけ、それを確認してみよう。
    
    《死》
     私は死ぬことは絶対に無い
     一度死んだからである
     
     二度も三度も死ぬことは
     頭の悪い証拠だ
        (一九五二年、『高橋新吉詩集』)
    
     この詩集には、「観念的傾向の異常に強いものが現われはじめる」(平居謙氏、E186)と、いわれるが、新吉の精神状況から見れば、この詩は大変力強いものである。「一度死んだ」とは、悟ったことを言う。悟りの体験は、「自己を忘れる」、つまり、自我の死を体験したのである。禅の悟りを「大死一番、大活現成」という。自我の自分がない(無我)ことを体験し、死ぬことのない仏性と一如の自己(本来の面目)が、真の自分だと悟る。そうなると、新吉の生涯の後半の「雀」は、永遠の仏性、または、永遠の仏性にめざめた自由自在の自分、になるであろう。新吉の後半生の詩集では、そんな「雀」が、ピチピチを飛びはねる。

    雀が飛んだ

     一九五七年、『高橋新吉詩集』の《灰》の中に、雀がでてくる。
    
    《灰》
     霜枯れの野に
     バッタが飛び歩いている
    
     あいつは宇宙を動かしていた奴だ
     黒く錆びた舌で 凍土を食っている
    
     月も太陽も 糞便にして
     ヒリ出したのは彼奴だ       (彼奴:あいつ)
    
     菜種の花に 灰が降った
     バッタの額に 飛礫が飛んで来た  (飛礫:つぶて)
    
     血潮に滴る眼を開くと
     雀が飛んでいる
     両足に 全時間をしばりつけて
    
     一つ瞬きすると 全歴史が消える
     バッタは 髯のような触覚を顫わしていたが       (顫わして:ふるわして)
      粉微塵に 放射能にやられた
    
     無数の生涯を 刻々送っている
     最も充実した内容で 全歴史が一瞬に経験される
     雀は豊饒此の上ない身分である
     瞬間々々に 無限の多彩を極めた浮生を囀っている    (囀って:さえずって)
    
     雀が動くと 大地が燃えはじめる
     あいつが一足歩むと 宇宙は消えてゆく  (F59)
        ( 一九五七年、『高橋新吉詩集』)
    
     前の詩では、いじけていた雀が、この時は、雀は無限の時間を自在に飛んでいる。雀が大地や宇宙を動かすように、それは新吉が、山河大地は自己なり、と自他一如の悟りを得た境涯を歌っているのだ。

    楽しく笑う雀

     新吉は六十歳にもなり、境涯は円熟してくる。ユリイカ版の『高橋新吉詩集』と、角川文庫版の『高橋新吉詩集』に雀が出てくる。
    
    《すずめ》
     雀は常に楽しい
     きょうもスガスガしくよく晴れている
     太陽の光りを羽一杯に浴びて飛んでいる 
    
     雀には頭脳がない
     雀には考えることが必要でないからだ 
    
     雀の頭の中から
     雲が消え 鳥が消え 大地も消えてしまった
     
     カラカラと頭の中で鳴っている
     深い井戸の中へ石が落ちてゆくように
     コロコロと音を立てている
    
     それは木枯しでもなく
     雪が崩れる音でもない
    
     考えることは物の変化ヒズミに対応することである
     ところで物の変化ヒズミを一切無視するなら考えること
      は不要である
    
     急ぐことはない
     多分雀は笑うだろう
     夕陽のように笑うだろう
     何を見ても
     何を聞いても
     雀は笑う
     笑い飛ばすだろう  
    
     その笑い声は雀には聞こえない
     もはや消えてしまって
     どこにもないからだ
    
     どこにも何もない
     有るとすれば
     それは鳥の悲しそうな顔だけだ
     鳥は泣いている
     泣くことしか知らぬのだろう
     濡れた涙の顔だけが消えのこっている
    
     それを雀は塗り潰す      (潰す:つぶす)
     雀の体で塗りつぶす  
         (ユリイカ版の『高橋新吉詩集』)
    
     この詩には、雀と鳥がいる。鳥は一般である。多くの一般人である。雀は個人、新吉である。新吉は笑い、他の多くの人は泣く。この雀は、悟りを得たので、くだらないことを考えることがない。頭脳がない。何も無い、絶対無を悟ったが、だからこそ、なぜ、人々(鳥)が悩むのが見えてきた。
     最後の二行は、何だろう。こういうところが新吉の詩の難解さだろう。雀は人の悲しみを救って、悲しみを捨てさせる力のあることを言うのであろう。頭じゃない、体得だ。

    雀は永遠の仏性

     この頃、刊行された角川文庫版の《石鎚の鼠》という詩には、飛行機よりも早く飛ぶ雀が出てくる。この雀、ただものではない。
    
    《石鎚の鼠》
     石鎚のこごしき岩根に
     雪ふりつみ 白く光っている
    
     鼠が 頂きに
     影を落して飛び去った
    
     太陽の裏側は
     臼のように凹んでいる
     ねずみが餅を搗くからである
    
     飛行機よりも早く飛んでいるものがある
     それは雀である
     烈しい勢いで
     石鎚の山は飛んでいる
    
     古今を貫き
     百億年を一瞬で飛んでいるのだ
    
     それは飛んでいないのだ
     いつでも同じ夕暮れである
     時は無いからである
    
     石鎚の峯は
     二名の鳥の脊梁を打ち伸べ           (二名:ふたな)
     ねずみは 海を二つに引き裂いて
     口髭を底泥に濡らしている           (底泥:そこひじ)
    
     飛行機は少しも飛ばない
     いつでもおなじ場所に停止している
     空間は無いからである
    
     太陽も鼠の乗った飛行機も
     雀の夢想の世界にのみ浮かんでいるのであって
     そんなものはねずみの世界には存在しない 
         (角川文庫版の『高橋新吉詩集』)
    
     ネズミは飛行機に乗っている。山が飛ぶ。雀は、仏性である。宇宙と自己が一体という仏性、空、絶対無。素早く飛ぶ、永遠の時間を一瞬で飛ぶ。山も太陽も飛行機も雀の夢想の世界に浮かんでいる。ここでは、雀は、ただの自分、新吉ではなく、仏性である。それが新吉であるが。

    無心に遊ぶ雀

     昭和四十一年(一九六六)には、詩集の題が『雀』で、その中に《雀》という詩がある。ついに、雀が詩集の題になった。すべてのものは、仏性、自己である。この詩集の詩はすべてそれを表現したものであることを予感させる題である。
    
    《塵埃》
     雀の目はガラスである
     何にも見えない
     雀がうつむくと
     山も海も消えてしまう
     そんなものはあっても
     雀は見ないのだ
     見ても何とも思わぬのだ
    
     何もない庭に雀は遊んでいる
     ここは誰も来ぬ
     この庭へは誰も入れぬ
     雀はこれでいいのだ
     何もないから
     見る必要もないのだ
    
     雀は一足歩むことによって
     どこもかしこも歩いてしまった
     一目見ることによって
     何もかも見てしまった
    
     一切は塵埃に過ぎぬ
     終りがないということは
     いつでも終っているということだ
     死ぬことがないということは
     いつでも死んでいるということだ
     
     雀は不図空を見上げた            (不図:ふと)
     空にも何もなかった
     雀の目は塵埃もかからぬ  
         (一九六六年、詩集『雀』)
    
     詩集『雀』の中の《塵埃》という詩。雀の目はガラス、とは突飛な言葉で読者を驚かす。この詩は、禅者、新吉が何を見ても振り回されない境涯をうたったもの。いかにも雀=仏性=新吉という生き生きとした喜びが感じられる。雀、新吉は、絶対無を悟った。無であるから何もない、何も見えない。見えるのは、ただ仏性のみ。すべてが仏性、塵埃。何もかも見えた。そういう仏性さえもない。塵埃さえもない。

    雀は死んだ

     次の詩に出てくる雀は死んでいる。一般の人は、これを聞けば、寂しく、悲しく響くだろう。だが、これは喜ばしい。自我の死だ。エゴイズムの自分の死だ。無我だ。見たり、聞いたりするものは、本当の自分ではない。この雀は自我である。
    
    《雀》
     どこにも自分はない
     目をいくら見開いて見ても
     足一本ありはしない
     すでにもはや雀はいない
     雀は死んでいる  
    
     暗鬱な雲を払えよ
     眼は常に不要だ
    
     心の生ずるわけがないではないか
     たしかにこれは死後の世界だ
     人の波は絶ゆることがなかった
    
     見たり聞いたりする
     そんなものはお前ではない
    
     自我とは欠落である
     死は火のようなものだ
     無はそんなむくいものではない
       (一九六六年、詩集『雀』)
    

    死なない雀

     昭和四十八年(一九七三)、『高橋新吉の禅の詩とエッセイ』の《万物》に雀が出てくる。前の雀は死ぬ雀だから、自我であった。この雀は死なない。雀は、永遠の自己、本当の自己。新吉が、座敷牢で読んだのが盤珪禅師の伝記だった。その盤珪は、我々は「不生の仏心」である、と言った。不生不滅が我々の本質。生まれない(不生)のなら、死ぬことはない。京都大学の久松信一教授は「私は死なない」と言った。禅者は、同根である。
    
    《万物》
     雀はまだ生まれておらぬから
     死ぬことはない
    
     雀が生まれたら
     もはや雀は生まれることはない
     だから死ぬことはない
    
     音のせぬしずかな世界がある
     そこは雀の古巣である
    
     雀は凡ゆる現象を自由自在にすることができる
    
     万物は雀の涙で濡れているからだ   
          (一九七三年、『高橋新吉の禅の詩とエッセイ』)
    
     この詩は、自分がない、という「無我の自分」を悟った禅者新吉の不死の安心感と、自由を得た境地をうたったものである。最後には、自分は安心を得たが他者の苦悩を見て、涙する菩薩の慈悲がある。新吉は、自分だけの安心にあぐらをかいていたのではないのだ。人々の苦悩するのを見て泣いたのだ。何とかして、人々を仏教に誘いたかったのだ。菩薩の行願を持っていた。

    見えない雀

     昭和五十一年(一九七六)、詩集『残像』には、むつかしい雀が出てくる。
    
    《残像》
     阿蘇の噴煙が
     海を隔てた浜辺に降ってきた
     火山灰が
     畑の桑の葉にも
     雀の頭にも
     白くつもった
    
     溶岩の鰐は
     口を開いたままである
     雀は化石の中の枝にとまっている
     月が眉の下に照っていた
    
     朽木にへばりついた水大蜥蜴   (蜥蜴:とかげ)
     震動する三崎の尾
     頭の中に雲がただようている
     その雲は実に美しい
    
     雀が目を開くと
     物は消えて無くなっている
     雀はアキメクラ
     いるでもバラ色の空間を見ている
    
     その木に赤い花が
     咲いていたというな
     彼女の鼻だけがおごいて
     こちらに迫ってきた
     一切は残像に過ぎない
    
     足の裏に水が流れている
     その水は実に冷い
    
     竪穴の甕棺に
     埋められた雀は
     噴火口を半眼にして
     翼で
     地球の燃え尽きる
     火柱をかき立てる
      (一九七六年、詩集『残像』)
    
     化石とは何か。同じ詩集の《魚》という詩がある。
    
    《魚》
     あるところで
     魚が泳いでいた
      
     それは海でも川でも
     その他の水の中でもなかった
    
     そこは石の中であった
     
     化石した魚は石もろとも泳いでいた
    
     背骨だけ残って
     肉は消えていた
    
     億年のあいだ
     石の平面は保たれたが
     やがてその線も失せるだろう
    
     現象は至るところで
     ビシビシ切り放せる
    
     われらの記憶の中でだけ
     魚は鰭をうごかして
     泳いでいる      
      (一九七六年、詩集『残像』)
    
     言葉がさしている実体は、いつも同じではないのだが(雀でも変化したように)、「化石」はこれら二つの詩の中では、ほぼ同じようなものを指しているとみよう。化石で思い出すのは、宮沢賢治である。彼は、友人に「化石しては我々はもう進めなくなりますから化石しないで下さい」と言った(『禅文化四十一号』で紹介した)。私たちの頭が化石になるのは、進歩がなくなるのだ。新吉のいう化石は、禅的なたとえだ。自由自在な心は一瞬もとどまらない。だから見ない。一瞬一瞬、前後切断している。道元禅師は「前後際断」と言った。それは流動していて、化石ではない。だが、ちらっとでも言葉、妄想にするとたちまち、自在を失い、凍りつく。化石だ。ものを認めた瞬間、もう遅い。残像だ。すでに去った。頭が化石になった。
     以上のことで、この二つの詩は解釈できる。

    飛んでいる雀

     昭和五十六年(一九八一)刊行の詩集『空洞』は、八十歳、という晩年の詩である。百億年を飛ぶ雀がいる。《るす》という詩では、「留守と言へ/ここには誰れも居らぬと言へ/五億年経ったら帰って来る」という新吉であった。
    
    《白い雲の下に》
     白い雲の下に
     雀が飛んでいる
    
     オレは百億年を
     ひとりで飛んでいる
    
     深い雪の中に
     鳩が死んでいる
    
     オレは一日に
     二千回死んでいる
    
     遠い空の奥に
     鳥が遊んでいる
    
     オレは一瞬に
     どの星にも遊んでいる
      (一九八一年、詩集『空洞』)
    
     百億年を飛ぶ雀、それが、オレ、ひとり、であるから雀は、私。仏である自分。一切が吾のみ、というのは禅者の境涯。根源俳句の俳人、永田耕衣(枯草の大孤独居士ここに居る/という俳句がある)も中国の禅僧百丈(「我坐大雄峰」と言った)も同様のことを言った。
     オレは一日に二千回は死んでいる。自己は、刹那生滅する。道元禅師の言う前後際断である。すべてが自分だ。空に星。あれも自分だ。私がどの星にも遊んでいる。

    飛び去った雀

     同じく、詩集『空洞』の《宇宙の貌》という詩の中には、飛び去った雀が出てくる。
    
    《宇宙の貌》
     言葉は無数にある
     何を言っても無駄だ
     黙っているに越したことはない
     お前のしたことはみなわかっている
    
     枯葉のように
     雀は舞い降りて
     飛び去りぬ
    
     これは言葉ではない
     事実である
     宇宙の貌はこんなものだ
    
     詩は言葉ではない
     言葉を媒介として真実を究めんとするものである
     宇宙の実相に迫るものをいう
     その他の言葉は遊びに過ぎない       
      (一九八一年、詩集『空洞』)
    
     言葉の否定である、が詩は否定していない。言葉を並べているが、それは言葉でないものを示している。禅では「月をさす指」と言う。経典は文字(指)で書かれているが、文字は究極ではない。その示す実態の月を獲得しなければならぬ。雀(仏性)は去った。仏性とおきかえても、また、言葉だ。その生きて、ピチピチとはねて、去っていく動いている、このもの。宇宙の貌。
     新吉にとって、詩は言葉ではなく、言葉で示しているもの、真実を究めるものである。結局、新吉の示すのは、人間の真実の相なのだ。良寛の漢詩や、俳人の永田耕衣と同様である。良寛の漢詩や永田耕衣の俳句も、人間の実相を探求している。

    無数の雀

     一九八一年、同じく詩集『空洞』には、無数の雀、一羽の雀、死なない雀が出てくる。
    
    《無数の雀》
     無数の雀が一羽の雀の眼から飛び出た
     雀をカメラでとらえることはできない
     ガラスのレンズなどに雀はうつらない
     うつったとしてもそれは外形だけである
    
     雀は未来永劫に生きるのだ
     生きているのは雀だけだ
     雀は死ぬことはない
     死なないものがあるだけだ
     これが雀だからだ
     これ以外に雀はない
    
     雀はサングラスをかけない
     その目もはらわたもくさっていない
     いずれも自我を棄て切っているからである
     雀は地球のある限り
     風に吹かれて遊んでいる
     時々囀っては交尾し
     宇宙を噛み殺す
      (一九八一年、詩集『空洞』)
    
     冒頭は仏教経典のうちの「華厳経」と同様の境涯を読み込んだものである。「無数の雀」は仏性を持つすべての人(衆生)。私(一羽の雀)にとって、すべての(無数の)人が、私である。あなたにとって、私を含めてすべての人があなた、である。そのすべてを含む仏性が、自己である。それが「死なない雀」である。それはカメラではとらえることができない。雀は、仏性、永遠。自我なく、縁によって、限りなく転々と動いている。自由自在な本性が、真の自己であることを悟った新吉のゆたかな、おおらかな、境涯をうたった詩だ。あんなに不安におびえていた雀が、おおきく羽ばたく自由自在の雀になった。しかし、それは、別な雀ではなかった。全く同じ雀だった。

     新吉の詩のほんの一部を鑑賞した。このように、新吉の詩は、やっかいである。禅に親しんでいないととりつくしまがない。禅でない解釈をしたら、それは、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』に出てくる、どんぐりで、小さな者同志のいがみあいだ。どんぐりども、の目は真実を見ていない。一郎のように、曇りのない目で見ることがよい。そう私は思う。私はいとも簡単に、新吉詩の「雀」は、時には「自我(個人)」で、時には「仏性(本来の自己、超個、仏)」だ、と書いた。これも、わからない人にはわからない。仏性とは何だ、と。やはり言葉では説明できない。
    前ページに戻る