もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

禅と詩歌
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高橋新吉
○根源詩人、高橋新吉
○高橋新吉の生涯
  −心の病を克服して禅詩人へ
○新吉、坐禅へ
○ダダとダダイストの詩
○精神の病が再発
○座敷牢の中で語録を読む
○参禅開始
○四十一歳で見性
○故郷に認められる
○禅のおかげ

参考文献(ページを次の記号で示す)
(E)平居謙「高橋新吉研究」思潮社
(G)金田弘「高橋新吉五億年の旅」春秋社

○根源詩人、高橋新吉

 高橋新吉は、今でも「ダダイスト詩人」として紹介される。しかし、これは、新吉の後半生の詩を理解していないためであって、新吉は、若いうちにダダイズムと縁を切った。
 若い頃から、詩を作っていたが、『ダダイスト新吉の詩』が出版された後、精神を病み、座敷牢に閉じ込められた。この間に、父が自殺した。新吉は座敷牢を出た後、多くの詩集を出版するかたわら、浜松の臨済宗の禅僧、足利紫山(あしかがしざん)に坐禅の指導を受け、熱心な修行の結果、悟りの印可を得た。その間、あるいは後にも、坐禅で得た人間観、世界観を独特の詩にしている。新吉は、いわば、「禅詩人」というほうが正しいのであるが、評論家は、新吉の後半生の詩を理解できず、若いころのレッテル「ダダイスト詩人」として半ば、軽蔑することが多いようである。これは、新吉の詩を理解できないための誤解である。  だが、池本喬氏のように新吉を「根源詩」と高い評価をする人もいる。
◆「禅者の言動はこの根源的境涯の発露であり、高橋詩はその詩的形象化である。この意味で、高橋氏の禅の詩は根源詩であるということができる。ところで、禅は、その根源的境涯のゆえに、他の宗教、たとえばキリスト教のように情的でもなく、哲学のように知的でもなくして、意志的であり、したがって男性的である。」(E255)
 結局、池本氏が、新吉の「見性体験が無視されるか軽視されるかしているもののようである」というところに、新吉の詩が難解で、評価されにくいのであろう。だが、それは、新吉が低いのではない。その詩からうかがわれる人間観、世界観は、道元禅師の『正法眼蔵』にあるものと類似、あるいは、同等である。道元禅師も、現代の禅僧、禅学者からでさえ、誤解されているのと同様の問題を新吉の詩ははらんでいる。新吉の詩は、禅であるから、広く世間に正しく理解される時は、こないと思う。ごく一部の人からのみ理解されるという状況が続くような気がする。
(高橋新吉氏を私は尊敬しているが、ここでは、敬称をつけず、「新吉」あるいは「高橋」とする。)

○高橋新吉の生涯

  −心の病を克服して禅詩人へ
 新吉は、明治三十四年(一九〇一)一月、四国の佐多岬の町、愛媛県西宇和郡伊方町に生まれた。父春次郎は、学校の先生だったが、一時、鉱山会社に勤め、新吉が六歳の時、八幡浜に転居し、再び先生になった。母マサは、新吉が十一歳の時死んだ。大正二年(一九一三)新吉は、八幡浜商業学校に入学した。その三年生の時、父は、後妻を迎えた。新吉は、卒業間際の二月、無断で家出し、上京したが戻って、一時、神戸元町の十合呉服店に勤めた。十八歳の春、二度目の上京をしたが、チブスにかかり行路病者となり養育院に収容され、二カ月後、帰郷した。
 大正九年(十九歳)新聞『万朝報』に「焔をかかぐ」を投稿して、入選した。八月十五日、同新聞掲載のダダイズムの紹介記事があって、強い衝撃を受けた。地元の八幡浜新聞社に二カ月ほど勤め、「大概詩」「ダダ問答」を同紙に掲載した。まもなく、新聞社をやめ、翌年二月、近くの山上にあった金山出石寺(古義真言宗)の小僧となった。しかし、九月には、寺を出て、上京(三度目)した。十二月、ガリ版で、『まくはうり詩集』を六〇部ほど作って、知人に配った。また、それを持って、辻潤を訪ねた。
 大正十一年十二月、新吉の弟龍雄が死んだ。新吉は帰郷したが、神経症を病んだ。翌年、辻潤は新吉に無断で、新吉の詩集を編集して、『ダダイスト新吉の詩』が発行された。心の小康を得た新吉は、大正十三年[二十三歳]二月また上京し、七月、小説『ダダ』(内外書房)を刊行した。翌年、東京の下宿に詩人、草野心平が訪ねて来た。草野心平の詩誌『銅鑼』に、新吉の詩『影』『快方に向はず』『大我』などが掲載された。大正十五年[二十五歳]、詩集『祇園祭り』を刊行した。
 昭和二年(一九二七)[二十六歳]の八月、帰郷していた新吉は、八幡浜市万松寺で足利紫山の提唱(禅の講和)を三日間聞いた。九月、紫山を追って浜松方広寺に一泊して、紫山から坐禅のしかたを教わった。十月、詩人、中原中也が、新吉の下宿先を訪ねてきた。中也は新吉の詩を絶賛したが、新吉の心は、不安定であった。翌年九月、『高橋新吉詩集』(南宗書院)が刊行されたが、心の不安をおぼえる新吉は、十月、紫山のすすめで岐阜伊深の正眼寺の接心(七日間、継続する集中の坐禅会)に参加したが、その接心中に心の病気(後に妻となった喜久子さんは、精神分裂病(当時の病名、現在「統合失調症」という)という)がおこった。それ以後、自宅の座敷牢に入れられて、数年間を郷里で暮らした。
 昭和四年(一九二九)[新吉二十八歳]九月、新吉の病気がひきがねとなって、父が自殺した。新吉は、自分のために父が自殺したという負い目の苦悩にも耐えて、病気を克服し、昭和七年(一九三二)[三十一歳]一月、上京し、五十沢次郎発行の「古東多万」に小説『精神病者の多い町』を発表した。再び坐禅を志し、牛込法身院と芝の金地院で紫山の提唱を隔月に聞きに行くようになった。

○新吉、坐禅へ

 新吉は、心を病んだが、癒えた後には、もう再三の発病を回避したいと思ったであろう。座敷牢を出た新吉は、今度は熱心に坐禅の修行に励んで、ついに、悟りを得る。ここで、新吉の若い頃の精神の不安定な様子と坐禅への自然の導きへの経過をみてみる。
 新吉は、「私が、この寺で何度目かにした発狂は、言語に絶する犠牲をともなったのである。」(『青春放浪』)といい、後に、新吉の妻となった喜久子さんは、「遂に心身の荒廃は著者の弟の死をきっかけとしてやってきた」(全集U解題)と述べている。新吉の青春時代は、心が不安定で、幾度も神経症(うつ病)、分裂病(統合失調症)などの兆候があったようだ。幼い時に母に死なれた悲しみと孤独感、継母を迎え心の葛藤、弟が死ぬという悲惨な状況が、その背景にあったのである。

◎仏教に親しさ
 そういう新吉は、心の問題に関心が向いた。新吉は金山出石寺に入る前から仏教に興味を持つようになり、出家する決心をして、寺に入った。寺には、経典があったので、それを読んで、仏教の無我に親しさを感じた。

◆「もちろん何ほども理解出来たわけではないが、私のそれまでに読んでいたニーチェとかスチルネルとか、ドストエフスキーとかダダとは異質の思念が、朧げながら感ぜられたのである。仏教の無我の真理が、私の柔らかい頭脳にも、突き刺さってくるものがあったとは言えるだろう。」(『虚無』)

○ダダも禅だった
 新吉は、一九二三年の『ダダイスト新吉の詩』で、ダダイストのレッテルを張られることになる。だが、新吉のダダは他のダダとは、違うと思うので、ダダイストと言う時、同一視してはならないと思う。「仏教徒」と言っても、信者を精神の奴隷とする悪質なカルト教団から自由自在に生きて親しまれた良寛までの相違がある。
 ダダイズムは、一九一六年スイスで起こった思想である。新吉は「万朝報」でダダの紹介記事を見たのであるが、その記事はダダには好意的でなく、「ダダイズムは享楽主義に過ぎぬ」と結論していた。ダダイズムを信奉した人々の受け止めかたも様々であり、「自分のあるがままに生きること」「自己の官能的享楽にのみ価値を認める個人主義」と理解する者もあった。詩人、荻原恭次郎は、既成の価値や権威を認めないのは同じであっても、ダダが自我に価値を置くのは、前進するための、「怖ろしいまでの精進」、「求道」ととらえた。
 新吉は、ダダの以前に、自我と無我を知っていて、ダダイストを自称したのであるから、他のダダイストのダダとは違っていた。新吉は次のように言っている。

◆「私はダダを知る前に、スチルネルの自我主義と、仏教の無我の哲学を同時にかいまみた。」(『ダダから仏教へ』)
◆「私は、ダダは初歩的な禅の亜流に過ぎないと思っている。」(『日本のダダ』)

 辻潤は、新吉から、次の言葉をあびせられたと書いている。
◆「君はあたかも外形によって内容までをソンタクする、無茶で浅薄で話にならん」(『陀々羅断語』E235)
 これらのことから思うに、新吉のダダイズムは、「宗教の理念」と「現実の僧侶や在家仏教徒の言動」の乖離、すなわち現実の仏教徒がその理念とは違っていること、堕落の批判であった。仏教の理念と、僧侶、仏教徒の言動の乖離、また神道の理念と神職(父は八幡浜の大神宮の神職であった)の言動の乖離である。詩集『ダダイスト新吉の詩』にある《断言はダダイスト》という詩は、そういう仏教の堕落の問題に気がついた。なぜ、新吉は、こういう深い宗教問題に目がむかったのか。

 新吉は、「ダダは初歩的な禅の亜流」と言っている。DADAは、新吉にとっての禅であった。不十分な禅理解であったが。つまり、こうである。ダダは仏性、大いなるもの、禅でいう、自性、本来の自己、である。ダダイストは現実の人間である。現実の人間は、その口から出る思想、理念は、貴いことを信奉していると言うくせに、現実のその人間は、その口で言っていることと大きく違っている。

○新吉の仏教観
 では、新吉が、ダダイストを自称する前に、仏教をどうとらえていたかを検討しよう。一九二三年の《断言はダダイスト》で、明確になるが、新吉が、その二年前に出した『まくはうり詩集』をみると、新吉には、仏教の根本問題は、すべて認識されていた。(体得はされていないが)
 『まくはうり詩集』最後の詩、《28》には、仏教の重要な理念、思想が含まれていた。
 平居謙氏は、この詩に、「脱出願望」(Gの部分、E47)、「言葉の意味を無きものにしようと様々な苦心」(Fの部分、E119)を見ておられる。これに関連するが、ズバリ、仏教の観点から言うと、注目すべきは、空(C)、自我を捨てよ(G)、死んだことにならない自殺(E)である。

《28》 ★社会主義者が 犬殺に (A)
 飛行機に乗ると工合が好いよ−
 低い声で言ったんだが
 犬が逃げて了った

 落ちついて言つて下さい      (B)
 本当に希薄な
 空気のやうなものなのですか
 其の愛と云うのは

 贅沢だ (C)
 凡ゆるものが一つに
 空色に見えるなんて
 そんな目を誰かにやつたかい神様

 舌は一つしかない (D)
 舌を噛み切る事と 噛み切らない
 事と人間のする事は二つしかない。
 禁欲主義者よ

 死んだ事にならない自殺が     (E)
   あらうか
 釈迦や 基督が蘇生つても
 死んだ人間よりは弱いぢゃろう

 有難い云ふ言葉と 良心とか (F)
 云ふものとは 違ふんですか
 私はまた土人のコシマキの事か
 と思つて居ました。

 君は家族の事を心配しないのか    (G)
 それは心配するさ
 時々は
 僕の所有物だから
 少し小さいぢゃないか
 君の自我は
 そんなチョッキ見たいなものは
 脱ぎたまへ
 思ひきり あばれたまへ
 永劫を一瞬間に走る勇気が
 なくちゃ
 さうすると頭の痛いのが癒る。
 (E46)
 (C)は、「空色」と書いてあるから、読者は「そらいろ」と読んでしまうが、仏教で言う「くう」である。「一切皆空」である。すべてが、空(くう)、無、と見るのが、仏教徒である。そう見る目を与えた、仏。
 (G)は、自我を捨てよ、という仏教(特に禅)の実践である。「無我」になれということである。そうしたら、新吉は自分の苦悩から救われる(頭の痛いのが癒る)という期待を持った。
 (E)は、「死んだ事にならない自殺」とは、自我がないことを悟る、無我を悟る、ということである。禅では「大死一番絶後蘇息」という。これまでの「宇宙とは別の自分」は、無い(我は無い、無我)という、自我に死に切って、宇宙と我と一体という自己によみがえる。釈迦やキリストは、そういう人だと新吉は理解した。

○衆生本来仏

 単なる自己否定では絶望に至るが、無我を悟った者は、新しい自己によみがえる「仏」であることを新吉は理解した。彼には、そういうように「誰でも仏」なら、自分も仏だ、という希望もあった。
『まくはうり詩集』《25》には、「誰でも仏」という仏教理念がうたわれている。

《25》
★私は非常に自分を今まで見
 貶つてゐた。           (貶つて:くびつて)
 自分を猫にも及ばないものだと
 あきらめてゐた。
 私の知らない力が 私の裡にあ
 る事に 私は初めて気が付いて
 驚いてゐる。飛び上つてゐる。
 而して強くなつた様な気がする。  (以下略) 

 仏教経典を読む前までは、自分をつまらない者だと思っていあた、人は皆「本来仏」であり、誰でもそれを悟る力がある、と知って驚いた。こうして、ほぼ、仏教の重要な根本理念が理解された新吉に、「ダダイズム」の紹介文が飛び込んできた。

○ダダとダダイストの詩


 《断言はダダイスト》は、禅の亜流であり、当時の(現代でも変わっていないが)仏教教団批判である。長い詩であるから、ここには引用しないが、意図だけを簡単に見ておこう。彼が、それ以前に読んだ仏教経典から彼なりに仏教を理解したのである。
 詩の前半と最後は、DADAについて述べている。詩の中盤は、ダダイストについて述べている。DADAは、仏教の根本、人間の根源、本来の自己、仏性、空、である。「ダダイスト」とは、DADAを奉じる仏教徒、仏教僧侶である、と思えばよい。DADAは完全であるが、それを奉じているという現実の僧侶、仏教徒は、つまらないことをしたり、堕落している。

小説『ダダ』でも、それがわかる。
★キサマ達にダゞの話しをしても解らん。
 元より俺のダゞはキサマ達のダゞでもあるんだが、辻潤なんかにも解つてゐないのだ。    (E66)

 私のダゞとあなたたちのダゞが同じものである、ということは、ダダは、すべての人に共通のものである。こういう共通のもの人間にあるということは、新吉が仏教の基本、仏性、空が観念的には、わかっていたということである。相当の仏教僧侶でも、人間に共通のものがある、ということがわかっているものではない点を考えると、新吉の眼は鋭い。以上のように、新吉のダダ、ダダイストの詩は、決して多くの読者が読んでしまうような、いわゆる自我主義、享楽主義とは無縁のものである。

○精神が不安定

 だが、理解だけでは力がない。新吉は仏教をかなり的確に理解したが、全く身についていないので、精神的に不安定であった。新吉の初期の詩には、言葉の否定の詩が多いのは、そのためであった。特に、仏教のうちでも、言葉での理解を否定して実践体得を強調するのが禅であった。こうみてくると、新吉が禅に向かうのは、自然であった。二十六歳の時、足利紫山の講和を聞いて、初めて生きた仏教に接して驚き、いよいよ、禅への関心が深まった。その翌月には、浜松まで行って、紫山に坐禅を習ったが、まだ真剣にはならなかった。時期が熟さなかった。まだ、自分で何とかなる、詩がある、と思う。しかし、やはり、不安が襲う。二十七歳の九月、詩集、『高橋新吉詩集』を刊行したが、再発の不安がうたわれている。孤独、自己のみにくさ、そして自殺も考えたこともうたわれる。  この詩集の詩は別な機会に鑑賞するが、精神の病気の再発の不安をうたったもの《21》をあげておく。坐禅をすることによって、どうしたら心の病気にならずにいられるか、わかってくるが、この頃では、まだわかっておらず、再発の不安を持つ。前に仏教の理念を理解したように見えた新吉が、このように心の病気の再発不安を持っている。言葉による理解は、全く力がない。

《21》
★私は又気が狂はなければ好いが、どうしたら気を狂はさずに居られるだろうか  それは不可能の事だ。
 どうしたら死なゝいで生きて居られるだろうと云ふと同じいもの、
 −発狂は地震と同じだ。必ず余震がある。
 −発狂も一つの芸術である。熟練を要する。 

○精神の病が再発

 このように、再発の不安が強くなって、ようやく詩集を出した翌月に、新吉は坐禅修行を本格的に始めようとしたが、時すでに遅く、分裂病(統合失調症)が発病した。後に、その頃をふりかえって、新吉は、こう記す。

◆「私が、この寺で何度目かにした発狂は、言語に絶する犠牲をともなったのである。最愛の父を、死に至らしめただけでも、古今に、希有な発狂だったと言わねばならぬ。私は板敷きの二畳の牢の中に、三年間監禁されたが、これは短きに失した憂いがあるのである。
 私の、懊悩苦悶は凄絶なものであった。われながら、よく耐えたと思うのである。
 われながら、の一人の姉は、二十七歳で自殺したが、私は、二十八歳の春から、三十歳の冬まで、青春のあらゆる風光と可能性に、背を向けて、孤独、陰惨な生を送ったのである。」(『青春放浪』全集VP359)

 新吉は、当時の精神病への偏見により、当時の法律に従って、座敷牢にとじこめられる。その悲惨な中で、新吉が感じることを記録して、後に発表した『戯言集』という詩集がある。これも今回は、鑑賞できないが、当時の新吉の心の動きをよく反映している。「私は涙の壷の中にいる」、しかし、「此の牢の中から出て行きたいのだ」という悲惨な状況にあった。一方で、「希望を持って生きたい」、「人間同志が限りなく感謝しあって好い事だ」「みんなは一つの塊りなんだ」という、仏教の思想を背景にしたらしい希望も持っていた。

○座敷牢の中で語録を読む

 こういう希望を持てたのは、なぜであったか。それは、牢の中で読んだ禅の語録であった。足利紫山など禅の話を聞いてからは、自分の心を解決するのは、禅だと思い込んだ新吉は、父に禅の本を差し入れてくれるように頼んで、牢の中で読んだ。

◆「正眼国師盤珪和尚の伝記は、私が父に入れて呉れと言つたのであった。盤珪和尚の本の表紙は部厚いので、其の表紙の固い紙で、私が何んな悪い事を初めるか知れないと云ふので、父は、其の表紙を取つて入れてくれた。私は其の本を、母に読んで聞かすやうに声高に読んだ。」(『狂人』)

 盤珪禅師の禅は「不生禅」と言われ、不生でいれば誰でも悟って仏になれると説いていた。悲惨な中にあっても、新吉が希望を失わなかったのは、この語録のおかげであろう。
 父は、精神を病んだ新吉を受け入れるようなひろい心を持たなかったらしい。新吉につらくあたるから、新吉は牢の中で反抗的態度をとった。

◆「そしたら高橋は、「オレは狂っていたようでも、半分は正気で狂ったふりをしていたんだから、座敷牢へ一日や二日は入れられても仕方がないが、オレを殴ってもいいから父も中へ入って来て、そうかとか、なんだとか言ってくれていたら、あんなところに入っていることはなかったんだ」と言うのよ。
 お父さんが、座敷牢のところへ何かを持って来て置くでしょう。そういう時、高橋は内心ではお父さんに甘えたいのですよ。だから、置かれた物をポーンと手で払ったりして、何か話をしたいのよ。ところがお父さんは、高橋の意に反して棒なんかで高橋を強くひっぱたいたの。もう全身に響くほど痛かったんだって。事が分かるような偉いお父さんだったら、何かを話しかけてくるものよね。
 それで高橋は、よし、そうか、そういうことをするんだったら徹底的に反抗し、闘ってやれと、もう怒り心頭に達したっていうの。高橋が本当に怒ったら怖いからね。お父さんは自分を憎んでいると思い込んだのね。それで高橋も本心で憎んだのだと言っていた。でも、それは肉体の痛さだったんだけど、高橋は甘やかされて育ったから、ひっぱたかれたぐらいで、しっぺ返しするのもどうかなと私は思うけど。」(新吉の妻、喜久子さんの話、金田弘氏著『高橋新吉五億年の旅』春秋社、P217)
 このように、当時の新吉は、仏教の理念を理解するような詩を書いていながら、現実の自分は、憎しみに対して憎しみで応えるような乖離を見せていた。  しかし、父が自殺した。新吉、二十八歳の九月であった。父の仕打ちは、自殺に値するものではなかった。しかし、父は、新吉のことが原因で自殺した。新吉は、『戯言集』の中に、父に謝る詩を書いている。また、後に、坐禅を再開して後に発行した詩集『日食』には、父への感謝を述べている。

高橋新吉の坐禅修行


 父が自殺して後、座敷牢は別のところに移された。待遇はさらにひどくなったらしい。新吉は、世に知られるようになってから、喜久子さんに故郷に行くなといったらしいが、悲惨な状況の時の故郷の人々に思うところがあったのだろうか。座敷牢を出た新吉は、足利紫山について今度こそ、真剣に修行を始めた。発病した時、岐阜正眼寺の和尚は、小南准精老師であった。この老師は、笑うだけで、ほとんど話さなかったという。
 余談であるが、禅の指導法や禅僧の人柄も様々であり、長く指導を受けるには、指導者と弟子とが、うまがあうのも大切である。ある師の指導では悟りを得られなくて、他の師匠の指導で悟りを得たという例は多い。指導者の方でも、弟子の気性を見て、あなたは誰々の方へ行きなさい、と別な師を紹介することもある。特に、心の病気の人は、あまり話をしない指導者、厳しい道場は避けるべきである。心の病気について理解ある指導者の元へ行くべきである。心の病気にも種々あるから、一律な厳しい指導では、うまくいかない。
 三十一歳になって一月、病気が癒えた新吉は、上京した。新吉はしたたかである。五十沢次郎発行の「古東多万」に小説『精神病者の多い町』を発表している。禅への関心が深まって、牛込法身院と芝の金地院で紫山の提唱を隔月に聞きに行った。全生庵での提唱も聞きに行った。岐阜の正眼寺の山田堅州老師が上京して提唱していた。これを聞いて新吉は感動した。「私はこの時初めて、歓喜を身に覚えた」という。だが、まだ、機は熟さない。昭和九年(三十三歳)大阪中の島図書館で大般若経六百巻を読もうとして酒井頼一方に寄食した。まだ、読めばなんとかなると思っていたことになる。この年三月、詩集『戯言集』『日食』を刊行した。

○参禅開始

 昭和十年[三十四歳]四月、機が熟した。新吉は、浜松方広寺で紫山老師に初めて参禅した。正眼寺に行かず、足利老師の元へ行ったことは、新吉は紫山老師を我が師と思い定めたわけである。東京から浜松へしばしば、通った。特に昭和十四年以降は、十二月の接心(通常七泊八日の泊まり込みの坐禅修行)には、毎年、行った。そのかいあって、新吉は四十一歳の時、悟りを得た。
 この間にも、新吉の詩作は旺盛で、坐禅修行がすすむにつれて、詩にも反映されていくのがわかる。四十一歳までに、詩集『新吉詩抄』『雨雲』(ともに版画荘)、『霧島』を刊行し、小説『狂人』、短編小説集『発狂』、エッセー『愚行集』、『神社参拝』を刊行した。

○四十一歳で見性

 この熱心な坐禅修行の結果、新吉は見性(悟りの第一段階と言っていい。)した。一九三五年四月、再び参禅を始めてから、七年余、四十二年十二月の接心中に、見性した。新吉は次のように書いている。

◆「私はある日、次のような経験をした。それは私の年齢が四十歳にも達してからのことである。それは私の年齢が四十歳にも達してからのことである。それは山の上のしずかな寺の廊下であった。秋のことで、空気は澄み乾いていた。その寺には禅堂があって、私の一週間の接心に来ていたのである。
 廊下には雲水たちが、参禅に入室するためにならんでいた。老師の居間で、鈴の音がすると、喚鐘の小さな吊鐘をたたいて、順々に入ってゆく。
 私の番が来たので、小さな木槌をとって、私は二度たたいたのであった。その吊鐘の音を耳にしたとき、私ははじめて、無我の何たるかを知ったのであった。鐘のひびきはこころよく、私の鼓膜に流れ入った。私はいく度この音に触れたかもしれない。けれどもその時の音響とはちがったものとして、私の耳朶(じだ)をいたずらに打っていたに過ぎない。鐘の音は余韻を漂わせて、高く青い空に消えて行った。私は私自身の存在の本質にやっとそれで気がついたのである。
 このことは数万言を費しても、まちがえずに他人に説くことは出来ないし、誰でもが経験するより方法のないことである。私は無我とか空とかいう文字を、幾万べん目に曝(さら)したことであったろう。けれども、その文字の意味する本当のことがわかってはいなかったのだ。四十を過ぎて、ようやく、仏教の基本的な哲学を手に入れることの出来た私は、何という頓馬(とんま)であったろう。
 だが、そこにいたる道程は論ずるに及ばないのだ。仏教の実在観に対する深い信仰をこのときに私は得たのである。その後いささかも動揺しなかったとはいわぬが、たとえば無我という言葉に対しても、虚無などという言葉で代表されることの出来るものではなく、無我という実体もないことを、しみじみと思い知らされたのである。
 無我とは、仏教の場合、それが宇宙の実相であるということである。希望でもなければ理想でもない。単純に事実なのである。どこにも我というものはないのだ。それをあるかのごとく思惟するところに、一切の顛倒(てんとう)があるというのである。」(『虚無』)

 新吉は、別な時の忘我体験も書いている。

◆「私はまたある時、次のような経験をしたことがある。それはつい数年前のことである。
家に風呂がないので、近所の銭湯へ私は出かけるのである。ある時浴槽から上って、洗い桶を手に持とうとしてかがんだのである。そのときふと、私の脳裡を掠(かす)めた思想があった。
 私はもはや、裸でそこに立ってはいなかったのである。いくら両眼を開けても、見渡しても、浴客も一人もおらず、三助もおらず、洗い桶ももちろんないのである。女湯のザワメキも話し声も聞こえない。
 湯の煙も立ちこめていない。
 私はどこにもいないことを確認したのである。私はどこにもいないばかりでなく、何ものも存在してはいないのだ。地球も宇宙もそんなものは、いくら両眼を見開いても、ありはしない。
 神などというものも、無論あったとしても、湯舟に浮いた幼児の糞便みたいなものである。
 私はらくらくと手足を伸ばして、湯舟につかったのであった。
 私のこのときの思念は、虚無といえばいえるかもしれぬ。しかし言葉の持つ意味は限定されたものではなく、どんな言葉でも、無限の意味を持っているといえるのだ。言葉に断定性などというケチなものはない。であるから、虚無といっても、虚無と断定したり出来るわけのものではない。
 存在と無というように、二元的にしか表現し得ないのは、西欧の知性の欠陥ではあるが、彼等にしてみれば、またやむを得ないのであろう。つまりは、禅の不立文字の立場が、もっとも単的に、自体を説明することになるのである。
「妙触宣明、成仏子住」(みょうしょくせんみょう、じょうぶつしじゅう)と、インドの跋陀婆羅尊者(ばつだばら)が言っているが、言葉で理解するよりも、皮膚が感得する方が大切でもあり、たしかでもあるのだ。この銭湯での経験を、他人に語ったところで、何にもならぬが、誰でも湯舟から上って、裸で洗い桶をつかもうとして、真理が悟られるといっても、そうなるとは限らない。」(『虚無』) 
 新吉は、吊鐘をたたいた時、見性した。無我の体験をしたのである。従来、あると思っていたような「自我」「自分」は、全く無い、という体験をした。悟りの第一歩である。こういう体験は、坐禅の修行を続けていれば、何度でも起こるが、最初で自己の真相を悟るので、最初の経験を「見性」という。自性を見る、仏性を見る、ということである。それは、まだ大悟ではない。見性で即座に大悟ということはまれで、たいてい、もうしばらく師匠の指導が必要である。見ることは容易だが、なりきることは容易ではない。新吉も見性してから大悟の印可をもらうまで、さらに十年を要した。
 戦争になったが、新吉は、昭和十八年、十九年の接心にも行った。

○結婚、大悟

 昭和十八年(一九四三)には、詩集『父母』を刊行した。翌十九年(一九四四)、日本海事新聞に就職。昭和二十年(一九四五)三月、空襲によって住居を消失し、江古田に移った。終戦となり、四国土佐中村の養母宅へ帰った。
 昭和二十四年(一九四九)[四十八歳]、『高橋新吉の詩集』(日本未来社)を刊行。
昭和二十六年(一九五一)新吉は、五十歳の時、一柳喜久子さんと結婚した。彼女は新吉の詩を読んで感動した人であった。五十四歳の時、長女新子、五十九歳の時、次女温子が生まれた。
 昭和二十八年[五十二歳]、足利紫山老師から「水月道場」の書を授かった。老師から、もうあなたは悟りを得た、私の指導は終わった。これからは自分一人で精進できるはずだ、という悟りの証明(印可)を宣言した。印可の方法は老師によって違うが、紫山系統では、この方法だという。人間(超個)の本質は、根源から完全であるが、現実の自分(個)は、完全ではない。人は生涯、向上するものである。新吉にも、年齢を重ねるにつれて、境涯の向上が詩に現れる。  大悟の後、新吉の詩は、禅の哲学らしきもの、根底に禅を秘めたものが多くなった。禅に関するエッセーも多く出版した。七十歳までに出した詩集は、『高橋新吉詩集』(角川文庫)、『鯛』(思潮社)、『定本高橋新吉全詩集』(立風書房)、『高橋新吉詩集』(弥生書房)。小説や禅のエッセーは、『虚無』『参禅随筆』『無門関解説』『ダガバジジンギジ物語』『臨済録』『道元禅師の生涯』『禅と文学』がある。

○故郷に認められる

 七十一歳になって、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。郷土でも新吉を評価し、昭和四十九年(一九七四)[七十三歳]、新吉が中退した八幡浜高校に詩碑が建てられた。七十六歳の時、八幡浜市穴井の福高寺に詩碑が建ち、また八十一歳の時、生まれ故郷の伊方町に詩碑が建った。心の病気をわずらったため冷たくされ、妻には近づくなと言ったほど遠く感じていた故郷の人々に認められた。この間にも、詩集は『高橋新吉の禅の詩とエッセー』(講談社)、『残像』(青土社)、『空洞』(立風書房)を出し、エッセー類は、『禅の伝燈』『禅に遊ぶ』『禅と美学』『禅に参ず』を刊行し、昭和五十七年[八十一歳]には、『高橋新吉全集』四巻(青土社)が刊行された。
 昭和五十八年[八十二歳]前立腺ガンとなり、入退院を繰り返した。妻は本人にガンであるとは告知しなかった。翌年、愛媛新聞文化賞を受賞したが、授章式に出席できず、喜久子さんが代理出席した。同年、詩集『海原』(青土社)を刊行、さらに、昭和六〇年、『高橋新吉詩集』(思潮社)が刊行された。この年、藤村記念歴程賞を受賞。授与式に出席したが、昭和六十一年九月から、長期入院生活が始まった。同年、愛媛県教育文化賞を受賞。そして、次女の結婚式に(京王プラザ)に出席した。
 昭和六十二年(一九八七)[八十六歳]六月五日、永眠した。遺骨は、宇和島市、泰平寺に埋葬された。

▽ 禅のおかげ

 以上見たように、禅がなければ、新吉は精神の病がまた、生じたかもしれないし、禅がなかったら、新吉の後半生の詩集は生まれなかったであろう。禅の悟りを得るということの重みは大きい。

◆「その後六、七年経って、ある一人の禅僧を知ることによって、私は日本の禅の傑(すぐ)れた伝統に触れる機会を持ったのである。このことは、過去幾億年にも溯って、積み重ねて来たみずからの業因によるものと私は思っているのである。であるから、私は現在までずっと、仏教とか禅とかいうものに、育ってきたといえるのである。」(『虚無』)

(続く)


 
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