もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

志賀直哉

『暗夜行路』

初めから筋を決めて

 志賀直哉の代表作は『暗夜行路』であるが、これは二十年にもわたって、書き継がれたものであるが、筋を決めていて、伏線を張ってあり、大体満足しているという。その「伏線」とは何だろうか。

伏線をはった

「「暗夜行路」は事件の外的な発展よりも、事件によって主人公の気持が動く、その気持の中の発展を書いた。筋を初めから決めてかかり、大体そのように運んだつもりだが、筋が決まっているだけに、先に起る事に伏線を幾つか張ったが、中途で書くことが二三度途絶えたりしたので、伏線倒れに終るのではないかしらという多少の不安を感じた事もある。が、通読して見て、それ程でなかったので満足している。」(D395)

 直哉は「先に起る事に伏線を幾つか張った」と言っている。先に起こる事は、苦悩から心の病気になっていくこと、その一時的な救い、問題の再燃、「大山体験」による根本的な魂の救いである。大山のような自然の中に行く人のすべての人に、魂の救いが起こるのではなく、『暗夜行路』の主人公の生き方、行動に、救いに導かれていく必然的なもの(資質、条件)があるわけである。それを前の方に伏線として描いたというわけである。
 この伏線は、三つのことに関連しているだろう。

(一)自我が強いために問題を起こし、心の病気になっていく。
(二)後に救われる資質、条件を備えていた。無意識に様々な行動も条件となった。
(三)自然と自己の合一体験(自我の小さいことの自覚) 

 そこで、直哉が当初から考えていたストーリーと「伏線」とは、次のようなことであろう。具体的に小説の文章を引用するスペースがないので、新潮社の文庫のページを記載しておく。確認してみて下さい。

(一)強烈な我による苦悩

 謙作は我が強くて、無自覚的に基準を持ち、それによって、自分を批判して自己嫌悪におちいり、基準によって他人を責めて、対人関係などの苦悩を持つ。常にそのような精神の葛藤状況にある。これは心の病気になる「伏線」である。たとえば、次のような例が描かれている。

 他の友達と共にいながら一人さめている(G22、G33)、自分の身体の欠点を気にして他人が指摘しはせぬかと身構えている予期不安(G32)、友達はかくあるべきだという基準を無意識に持っていて、それに反することがあると友達に怒る(G32)、自分の姿を振り返って無意識の基準と比較して自己嫌悪におちる(G33、231、395)。
 わがままな自分を受け入れてくれる人に好意を持つ(G33)、自分を批判的に見ている人の前では落ち着かない(G39)、孤独感(G149、150、165)、他者の目を(悪く思われている)意識(G162)、抑うつ感(G149、165、182、225)、不安がおこり決断ができなくなった(G229、うつ病にみられる)、何かやろうとしても先まで予測して結局やめてしまう(G231)、ある場所だけが彼を受け入れる気持ち(G231、G243、悪いとしりつつ病的依存)、他人が自分に悪意を持っていると思う(G237)、危害を加えられるという不安(G241、395)、自分が泥棒と思われはしないかという不安(G241)。
 常にこのような精神状況であると、神経症やうつ病になる。謙作は、志賀直哉と同様に、すでに、抑うつ神経症、ないし、不安神経症になっていると思われる行動、感情や思考を出現させている。

(二)自然と心の観照性向

 そのような人はどうすれば救われるのだろうか。我が強い一方で、謙作には、自然をよく観察し、心をみつめる傾向があった。倫理的な性向もあった。妻を許したい、幸福になりたい、という魂の面での(財や名誉でなく)幸福を求める性格である。これが、救われる資質、条件であり、これを小説の各所に書くのも志賀直哉の「伏線」というものであろう。こういう資質、条件がないと、救いの方向に向かわないのである。そのような例が多く描かれている。
 まず、自分が好意を持つ人のこと、ものを思ったり、見たりする時には、心が和らぐ例が多く描かれる。好意を持つ兄(G33)、動物(G35)、赤ちゃんとたわむれる女性(G76)、自分を受け入れてくれる妻といると幸福感(G325)、古美術(G438、458)、温泉の香り(G456)、汽車の窓から見る風景(G460)、子猫(G467)、昆虫と鳥(G472)、木の葉(G472)。こういうものに接して、心がなごんだり、元気になる自分が描かれている。
 兄から禅の話を聞き涙ぐむ場面がある(G228)。神経症になる人は、堅い基準を持っているのであるから、他人の言うことを聞かない傾向があるが、その間は治らない。心の救いという話を聞く受け入れ態勢ができた時、自分の非をさとり、他人の助言を受け入れ、治っていく。外に、高僧の本を読む場面があり(G459、473)心の平安を得た人の様子に関心を持つ。
 また、他人から聞いた話は、その人に与える影響力が小さく、現実に見たり、体験することは大きな影響力を与える事例が『暗夜行路』には、比較できるよう幾つも描かれているのも面白い。これも人間の真実である。禅や仏教も本を読むだけでは影響力は小さく、実際生きた人間に会うことの方が影響力が大きい。野望を持つ低級な宗教者に出会うことの恐ろしさを知るべきである。影響力が大きくて、のめりこみ、人生を無駄にさせる。

(三)無我の自覚による救済

 我は強くても、自然に親しむ傾向、他人の助言を聞く傾向の人は、根本的救いを体験することがある。河井寛次郎、東山魁夷、神谷三恵子などの実例がある。大山体験のような「物我一如」の体験を起こしやすい。そして、それによって、我を張ることによって苦悩があったことを悟り、自己を超えた大きなものにゆだねる気持ちが起こって救われる。『暗夜行路』では、自我、自己の小さなことを自覚していく出来事は次のような例が描かれている。
 夢によって自分の淫蕩な精神の本体(我の一形態)のちっぽけなことを悟る(G122)、自然を見て自然の大きさと人間関係の小さなことを思う(G460、G494)、大山山中に住む様々な夫婦を見ていろいろな夫婦があることを知る。
 こうして、最後の自然に溶け込む体験に導かれていく。これが、志賀直哉が構想したストーリーであり、そこに至る「伏線」は、見事に成功している。精神医学から見ても、納得できる展開であろうし、禅でいう苦悩と救いに至る過程とも符合する。これは、人間の苦悩と救いの標準パターンである。すなわち、志賀直哉は、すべての人間に共通の問題を小説にしたのである。

 心の平安と救いを得るためには、ただ山に籠もっても、ただ本を読んでもだめであろう。絶望せず、幸福を求め、他人を受け入れ、他人の話を聞き、自然や美術に親しみ、自分の小さなことを自覚していく日常生活の積み重ねが必要であろう。そう志賀直哉は言っていると取れないだろうか。志賀直哉と河井ら三人は、偶然(とは言っても資質と無意識の工夫があった)に「物我一如」を体験したが、禅(仏教)は、それを系統的に教育的にめざすものであると言える。
   
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