もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

志賀直哉

志賀直哉の救い

自己は大河の一滴

「人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えていえば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯(さかのぼ)っても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。」(I295)

 昭和44年[86歳]の時『ナイルの一滴』という随筆のような短文が直哉最後の作品である。自分は、「ナイルの一滴」、小さいものだ、「無私」「無我」である。しかし、無私であるが、その一滴が「大河」を作る。一滴が大河と同質である。この一滴はかけがえがない。つまらない風で、このかけがえのない一滴の自己を誤らせたくない。

 電車の事故で重症を負った直哉は、自分の死を意識した。人は病気や事故などによって、自己の死を意識すると、人生観などが大きく変革することがある。禅は、それと関係がある。自我小さいこと、自我の根拠のなきことを悟り、自我を捨てる、自我が死ぬ、といってよい。志賀直哉にも似た体験があった。

心の急変

 直哉は、事故の二カ月後、療養のため、城の崎温泉に行った。翌年には、松江に住む。後に書かれた短編小説『城の崎にて』や『堀端の住まい』によれば、直哉は様々な死について考えるようになった。電車の事故は、神経衰弱の状況において起きているので、自ら電車の方へ引き込まれていった自殺に近いものかもしれないが、原因はともかくとして、生きることと死ぬことが、すぐ近くにあることをまざまざと実感した。このころから、自我が衰退して行ったようである。  直哉は、鳥取の大山に行って、一連の体験をする。これは、『暗夜行路』に書かれているので、その部分を引用する。

暗夜行路に書かれた体験

 謙作は、大山に登山した。案内人とはぐれて謙作はひとりになった。腰を下ろして眼をつむった、その場面である。

「疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く−それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。」(G503)

「彼にはそれに抵抗しようとする気持は全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。」(G504)

「彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏み出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然し、若し死ぬならこのまま死んでも少しもうらむところはないと思った。然し永遠に通ずるとは死ぬことだという風にも考えていなかった。」(G504)


 謙作は、自我を出さずに、あるがままを受け入れていることの安楽を偶然に味わった。それが永遠に通じる路であるようにも感じた。死ぬことさえ、自我がもう問題にならず、謙作は眠り込んだ。しばらくして眼がさめると、大山から見下ろす日本海の絶景が眺められた。

「謙作はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気づいたが、それは停止することなく、ちょうど地引網のように手繰(たぐ)られて来た。地をなめて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを希有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。」(G505)

体験の意味

 謙作(直哉自身とみられる)は、このほかにも、大山山中で様々な自然を観察する体験をした。この大山山中の体験は直哉にとって大きな意味を持った。直哉が大山登山後一か月の九月二日にしるした「女に関して」と題する資料の中に大山体験について語った、次の言葉がある。(I268)

「自分は時々昔の高徳な僧侶のやうな気分になる。その時はSexesの意識が鈍る。」
「自分は其気分が其ままに続くとは自分でも信じられなかったが今後の生涯を支配する主な気分になり得ないとは考へなかった。」
「大山の十日間は自分には忘れられない。此間に思ったり、したりした事の意味をいまにハッキリさすつもりだ。」

 この体験がすぐに直哉の心境の変化を定着させたわけではないが、三年ほどの間に、その意味を考え、自我への執着の衰退が現実のものとなって、三年後、自我を折って、父に謝り、父との和解が実現した。この後、直哉の小説は、精神の異常を描かず、しっとりとした落ち着きのあるものとなった。そして、名作『暗夜行路』に結実する。

なぜ魂の平安が?

 このような自然との合一体験によって人間はなぜ救われるのかについて、ノーベル賞作家の大江健三郎は次のように説明して、直哉の『暗夜行路』を時代と国を超えた小説と絶賛した。

「『暗夜行路』の根底の構造は、古代の人々がこころみた壮大な哲学詩のように、「人間」と地球、宇宙との対話によってなりたっている。たしかに時任謙作の日常生活の細部は、およそ歴史の進行とは、また時代のありようとは無関係な種類のことどもであった。しかしそれがかえってあきらかに、「人間」を代表する者が、ひとり荒野の暗黒にあって、宇宙とむかいあっている根本のかたちをあらわさずにいない。そこには宇宙の広大無辺がしだいに現前して、「人間」はその巨大な運行にさからうものとしてでなく、微粒子のように吸いこまれるものとしてついに魂の平安をえるのだが、この微粒子はいつまでも「人間」を代表する光を発して、それを遠目にも見あやまつことはできぬ。」(大江健三郎、C257)

 大江は、「宇宙の広大無辺がしだいに現前して、「人間」はその巨大な運行にさからうものとしてでなく、微粒子のように吸いこまれるものとしてついに魂の平安をえる」と解明した。禅の標語は「自己を脱落すれば、自然、宇宙、すべてが自己となる」である。すなわち、自我が微粒子なればこそ、そして、ついに「我は空」「無我」であればこそ、自己が宇宙大の自己が感得される。

定着には時間が

 電車の事故で死を意識したために、城の崎や松江などで、生と死をみつめるようになり、すでに自我の抑制がきき始めていたが、大山に行ってさらに人間(自己)、自我の小ささを体験をした。その体験は日常的ではなく、ある心境の変化を感じたが、さりとて、それが現実の生活にすぐ定着したのではなくて、その意味を考え、しばらくたってから、自我への執着を捨てられて、あらためて、城の崎で見たことの意味が明確になってから、『城の崎にて』を書き、父との和解を実現し、その後、『和解』を書いた。
 このような心の軌跡は、禅とも深いかかわりがあると思う。禅でも坐禅をとおして、「自我の無価値」を自覚し、自我の抑制した生活をするうちに「見性」という体験、つまり自己を忘れる、物と自己と一体という体験が起こる。しかし、それで、ただちに、何物にもとらわれないという心境にはならない。「見性」の意味をあきらかにし、生活に定着する過程がある。師匠は、見性した参禅者に、それにふさわしい「公案」を課すことがある。それを経て、「大悟」といわれる境地になる。直哉も似たような経過をたどっているようである。
   
このページの本アイコン、ボタンなどのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」