もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

志賀直哉

志賀直哉の苦悩

 志賀直哉(しがなおや)は、「小説の神様」とも言われている。国語の教科書でその文章に接して、その名を知らない人はいないであろう。あまり理解されていないかもしれないが、その小説は、自己の心の探求、自己の小さなことを自覚することによる根本的な救い、ということを扱っていて、禅からも興味深い作家である。

苦悩と救い

 長編小説『暗夜行路』、短編小説『和解』『城の崎にて』『小僧の神様』などが代表作である。
 彼の前半生は、我(が)が強くてしばしば問題をおこし、父とも不和で、心の病気になっていって、交通事故によって(自殺未遂かもしれない)死ぬ目にあって、死を意識するようになって、自然の大きさを自覚し、大山の山中で自己と自然との合一体験をすることによって、苦悩から解放されていく。彼の代表作は、『暗夜行路』であるが、その舞台設定は違っていても、その小説は、志賀直哉の心の軌跡がつづられている。

我が強くて父と不和

 直哉は、明治十六年(1883)、宮城県石巻で誕生した。父直温(なおはる)は、第一銀行石巻支店に勤務していたが、まもなく一家は東京に移った。祖父、直道は相馬中村藩物頭で、普請奉行、二百石の武士で二宮尊徳の弟子だった。相馬家の家令に就任し、古河市兵衛と共に足尾銅山の開発に従った。直哉が十二歳の時、実母が死去し、父は、浩(こう)と再婚した。直哉は主として祖母に育てられた。
 十八歳の時から、七年間、内村鑑三に師事し、キリスト教を学んだ。十八歳の時、足尾銅山の鉱毒問題で世論が沸騰した時、直哉は鉱毒地視察を計画し、父に強く反対され、不和となった。二十四歳の時、直哉は、家の女中と深い仲となって、彼女との結婚を希望したが、父の反対にあい、ますます不和となった。

精神の不安定

 二十五歳の頃から、創作活動が本格的になり、内村鑑三のもとを去った。しかし、直哉は、『祖母の為に』を書いた(明治四十四年[二十八歳])頃、病的であった。前年には『剃刀』(かみそり)を書いたが、これも床屋で剃刀をあてられる時に、傷つけられはせぬかという被害妄想を感じたものであろう。この頃、神経衰弱(おそらく不安神経症)気味だった。二十七歳の時の、日記にこう書いている。

「一週間の余も肩がこる、神経衰弱の兆候ではないかとも思ふ。」    (二十七歳、『明治四十三年四月二十一日の日記』、H24)

 また、後になって、『創作余談』で次のように書いている。

「これは病的で、如何にも空想的に見られるものかもしれない。然し当時の私では少しも潤色しない事実の記録であった。今から見れば自身も病的であった。近頃は段々病的といふ事に興味が薄くなったが、病的といふ事は飛躍であり、正気では感ぜられないもの、又正気では現せないものを、此飛躍で現す場合があるので、それを否定はしていない。」(『祖母のために』について、『創作余談』D389)

 二十九歳の時、『大津順吉』を発表し、初めて原稿料を得たが、精神的に不安定で、尾道に移ってみた。三十歳の時、電車にはねられ重傷を負った。療養のため、城崎温泉に行く。三十一歳の時には、『児を盗む話』を発表。この中に、『「自殺はしないぞ」私はこんな事を考えていた。』とあり、自殺をしかねない精神状況であったようだ。後に書く『暗夜行路』の主人公は、犯罪を犯しはしないかという強迫観念、人から泥棒と思われはしないかという観念、人から殺されはしないかという被害妄想などが描かれていて、直哉のこの頃は、精神状態が異常(不安神経症、または抑うつ神経症などが疑われる)であった。
 また、逆に直哉自身が、他人(特に不和であった父)を殺すことになりはしないかという自我が暴走して自己の意志では止められない恐れを抱いていたと思われる作品も書いており、それは、『濁った頭』(二十八歳)、『范の犯罪』(三十歳)、『児を盗む話』(三十一歳)などに異常な精神状況が描かれる。

自然との合一体験

 三十一歳の時、松江に転居し、その夏、鳥取県の大山(だいせん)の中腹にある蓮浄院に十日間滞在した。このとき、大山に登山中に、自然と自己の合一体験(後に詳しく説明します)があって、自己(自我)の小さなことを自覚し、自我を折ることによって精神状況が安定に向かう。この年の暮れ、武者小路実篤の紹介で、いとこの康子(さだこ)と結婚し、京都に家庭を持った。康子は、再婚で死んだ先夫との間に女子があり、父直道は、この結婚にも反対した。
 三十四歳の時、『城の崎にて』を書いた。これは、死をみつめ、人間を越えた何かを感じている作品となった。大山での体験、康子との結婚をとおして直哉の精神は安定して、長い間、不和であった父と和解した。その喜びのさめぬうちに中編小説『和解』を書いた。

長期間に『暗夜行路』

 大正十年(1921)[三十八歳]、『暗夜行路』の連載が始まったが、十二年から三年休載した。昭和二年に『暗夜行路』を書きついだが三年から十二年まで休載した。
 直哉はしばしば転居しており、三十二歳の時、我孫子(あびこ)、四十歳の時、京都、四十二歳の時、奈良、五十五歳の時、東京、六十五歳の時、熱海、七十二歳の時から、東京に住んだ。
 昭和十二年[五十四歳]に、『暗夜行路』の最終部分を完成した。これまで、『雨蛙』『濠端の住まひ』『網走まで』『豊年虫』など多くの短編小説を書いたが、戦後は、あまり多く書いていない。『淋しき生涯』『灰色の月』『蝕まれた友情』『白い線』『盲亀浮木』などが戦後の作品である。自分の生命についての宗教的とも言える考えを書いた『ナイルの水の一滴』が絶筆である。 昭和四十六年(1971)[八十八歳]十月二十一日、肺炎のため死去した。遺言により、通夜は行わず、無宗教による葬儀が行われ、青山墓地に葬られた。

父と不和

 直哉は、十八歳のころから、父と不和になって、三十四歳まで、父と深刻に対立した。精神的にもまいって、神経症気味となり、自殺や父に危害を加える不安をおぼえるほどであった。それは、直哉の強い「我」が招いたものであった。

自我の肯定

 父との不和、精神的な危機は、直哉の強い「我」(が)が招いたものであろう。29歳の直哉は、日記に次のように書いていた。自我の肯定の強い意識があった。

「人間は−少なくとも自分は自分にあるものを生涯かかって掘り出せばいいのだ。自分にあるものをmineする。これである。」(二十九歳、明治45年3月7日の日記)(C130)

「自分は自分を真ンから愛するようになった。自分は自分の顔を真ンから美しいと思うようになった。自分は自分程のエラサを持った人は余りないと信ずるようになった。
 自分は自分の愛すべき所を、美しい所を、又エライ所を一生かかって掘り出さねばならぬ。○自分は自分をこれ程に肯定してかかれるようになったことを大変な進歩と思う。通俗な意味で安心したというのとマルデ違うのである。」(翌日の日記)

 これは、自分が常に正しいという、鼻持ちならない自我の肯定である。自分の自我だけを尊重し、他人を責め、他人への思いやりがない。こういう自我への執着のために、自分も父や周囲の人々をも苦しめていた。それに気がついていない直哉であった。
 しかし、これは一面の真理であって、いつかは挫折すべきものであった。これが、父や友人との対立を生み、そのためもあって、事情が彼の思うように展開せず、心の病気になっていった。本多秋五は、直哉のこの考えを「神なき自我の肯定」(C131)と言った。

「この異常に昂揚した自我の肯定は、いわば神なき自我の肯定、絶対者を知らぬ自我の怒張である。」 (本多秋五、C131)

自殺の危機

 こう自我が強いと、その無意識にいだく基準が厳しくて、様々な問題が自分の思うようにならない。心の病気になっていく。『児を盗む話』[三十一歳]を書いた頃には、直哉は自分が自殺するのではないかという予期さえ生じたようである。次のような一節がある。『「自殺はしないぞ」私はこんな事を考えていた。』とあるが、自殺をするおそれがあったから、こんなことを考えるのである。

「踏切りの所まで来ると白い鳩が一羽線路の中を首を動かしながら歩いていた。私は立ち留ってぼんやりそれを見ていた。「汽車が来るとあぶない」というような事を考えていた。それが鳩があぶないのか自分があぶないのかはっきりしなかった。然し鳩があぶない事はないと気がついた。自分も線路の外にいるのだから、あぶない事はないと思った。そして私は踏切りを越えて町の方へ歩いて行った。「自殺はしないぞ」私はこんな事を考えていた。」(『児を盗む話』K253)

電車の事故

 直哉は、大正二年[三十歳]八月、電車にはねられ重傷を負う。事故にあったというが、これは、抑うつからふらふらと電車に自分から近づいた自殺未遂に近いものだったかもしれない。この事故の直後、『范の犯罪』を書いた(九月)。これを書いた動機について、次のように語っていて、殺人をも肯定するほどに、直哉には、まだ自我肯定の意識が強かった。

「私の近い従弟(いとこ)で、あの小説にあるやうな夫婦関係から自殺してしまった男があった。私は少し憤慨した心持で、どうしても二人が両立しない場合には自分が死ぬより女を殺す方がましだったといふやうな事を考えた。気持の上で負けて自分を殺してしまった善良な性質の従弟が歯がゆかった。そしてそれに支那人の奇術をつけて書いたのが「范の犯罪」である。」(D390)

 須藤氏は、これについて次のように言っている。
「自我貫徹の原理が、当然の成り行きとして急激に衰退ないし崩壊におもむいたのが城の崎の心境と見るべきであろうか。すくなくとも、大正二年十月の城の崎滞在以後、自我貫徹の強烈な自画像にも、高らかな歌にも、ふたたび接することはできない。「范の犯罪」は、そのほとんど最後のものであった。」(須藤松雄、C154)

   
このページの本アイコン、ボタンなどのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」