もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と産業 −片岡仁志

教育には哲学が必要

「人格の向上」ということが失われて「学科の教育」のみとなってしまった学校教育からは、どの分野でも個性を延ばして、主体的に生きていく人格を育てる教育は望めないでしょう。先生には、人格とは何か、という哲学を持つ必要がある。

自己は認識できない

 自己とは何か知りたいものであるが、自己は一種の物であるから、物自体、自己自体は認識できない、とカントは言う。(A15)
◆「もの自体というものは、我々の感覚に現れない前のものである。ものそのものというものは、カントに言わせますと、これは、認識できないものである。それを認識するのは、必ず何らか、感覚的現象として現われてこなければ、その現われたものをとおしてでないと、認識できない。ところが我々自身は、我々自己自身というものは、やはり一種のものそのものです。自己というそのもので、これは、普通の人間の持っている認識能力では認識のできないものなんです。ですからカントは、そういう人格性というものを自己そのものと呼び、また、見ることのできない自己と、そういう言葉でも言っています。・・・・  見ることのできない自己、即ち、ベルゼンリヒカイト(人格性)と言っています。」(A15)

西田幾多郎

 人は物を認識できないことについて、哲学者、西田幾多郎は、こういう。
◆「今目前にある机とは何であるか、その色その形は眼の感覚である、これに触れて抵抗を感ずるのは手の感覚である。物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所の者はすべて物そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物そのものを直覚することは到底不可能である。自分の心そのものについて見ても右の通りである。」(Z61)

自己を直観する仏教

 カント哲学も仏教も、自己は認識ではつまえられないと言う。しかし、仏教では、自己を直観できるという。(A16)
◆「ところが、東洋の仏教などでは、その不可思議不可称量、考え得ないもの、知識では絶対届かないもの、これをつかむことができるという。ここは、大変東洋と西洋哲学の違うところです。西洋哲学は、どこまでも理論の上から、理論からちょっとでもはずれるならば許されないのですが、東洋の方では、そんなものは考えれば当然つかむことはできないものだが、それを体験的につかむことができる。またそれをつかまねばならぬという。これを仏性というのです。」(A17)

経験的自己

 通常、「自分はこういう人間である」という自己は「経験的自己」であって、それは通常つまらないものである。小さいことにこだわり、内気で、意気地なしで、自分のことばかり考える汚い自分である。どうせ他の人間もそうだと思うと人間、人生への絶望となる。

人間はつまらない

◆「普通に現象の上ででっちあげて、一般社会には一応通用している自己というものは、実にいい加減な自己です。自分はそれだけに過ぎないものだということになれば、青年期になりましたら、もう生きることはつまらないものになるでしょう。こんなお粗末な、過ちの多い自己に過ぎない自己概念というものを背負って、一生涯、五十年、八十年の生涯を生きなければならないというならば、こんなつまらない自己で生きるよりは死んだほうがよいといったような考えを起こす青年たちが出てくるのは当然だと思うんです。」(B37)

自我は理性によって考えられた

 しかし、そういう認識でとらえる自分というものは、真の自分ではない。
◆「経験的自我というものは、理性によって考えられ、つくられた、従って理性によって構成せられたものなの です。経験的自我というものは、感覚的な要素や形の上の感覚やいろいろな経験的、感覚的な要素でもって、肉体という空間上の存在というものを一つの実体という概念、実体という範疇、実体という一つの論理的な範 疇で、先天的につくっていき、構成するわけです。」(E345)
 人は、「本当の自分」を知らない、認識できないために、自己を見失って、誤った(ゆがんだ)人生観、世界観を作って、悩まないでいいことに悩み、自殺し、他人を苦しめる。日本には、自己を直観で認識する道がある。仏教、禅である。

教育には哲学が必要

 真の自己は、認識ではつかめないが、真の自己を論理的に解明しようというのが西田哲学である。だから、真の人格の向上を援助すべき教育者には、哲学が必要である、と片岡は言う。

人生観、世界観

◆「教育について、哲学的な研究をなさるということは、非常に大事なことだと思うのです。というのは、教育の理想、これは人間を本当の人間に育て上げていくことです。いろいろの職業、いろいろの個性をもった違った人達ではありましょうけれども、そういう人達が生きる、そういう本当の人生観、世界観、そういうものを教師というものは、絶えず研究していかなければならないと思うのです。」(A6)

◆「特殊な人生観をもたせるのではなくて、どの道に進もうと、およそ人である限り、誰にでも通用しなければならない、そういう普遍的な人生の在り方、生き方、世界の存在のそうした事実、また合わせて人間というものはどういうところに安心立命の境地というものをもつべきか、そういったような問題を解決していく、あるいは、解決しつつ、子供の人生観の正しい指導をしていかなければならないのが教育だと思うのです。」(A6)

子供にも人生観の形成を援助

◆「そういう意味で哲学というものは、普遍妥当性のある人生観、世界観が如何なるものでなければならないか、こういうものを理論的に研究する学問でありますから、そうした研究を絶えず行いながら、子供の指導に間違いやあやまちのないように、方向に見当違いのないようにと心して、先生の自分自身の人生観、世界観の正しいものを検討しながら、子供達にもその方向に向かって伸びていく、育っていくように指導していくことは、教育の根本問題だと思うのです。」(A7)
 片岡は、こういう考えから、教育者、先生に、哲学の勉強をすすめたが、実際には、西田幾多郎の『善の研究』の読書会を中心とした。
    
このページの本アイコン、ボタンなどのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」