もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と産業
−片岡仁志
片岡仁志の生涯
生徒指導理論の哲学的基礎を確立
片岡先生に、多くの教育関係者が教育の基礎である人格性の哲学について教えを受けた。そのうちの一人、田中京都大学教育学部教授は、片岡先生(以下敬称略)の業績を次のように総括する。
◆「先生は、戦前からの時代的な厳しさの下でなお生きる深い師弟の縁を結ぶ豊富な教育実践といくつもの学校の創設と運営のご体験をふまえられて、カント及び西田哲学と参禅に基づく一層深い人間理解に統合された独自な人格主義的教育指導理論を開拓され、今日の生徒指導理論の哲学的基礎を固められました。」
(F289、田中昌人氏、京都大学教育学部教授)
北海道に育つ
片岡は、明治三十五年(一九〇二)一月六日に北海道石狩郡当別(あたりべつ)町西小川通りに誕生した。父、片岡寅造と母、志宇の次男。9人兄弟で、姉妹の上から3番目だった。当別は、仙台伊達(だて)藩の一族、岩出山の伊達邦直(くになお)が戊辰戦争に敗れた後、家臣と共に移住し、開拓した村で、片岡家は、その家臣だった。母の実家、戸田家も同じく伊達家臣で、当別町には、伊達記念館がある。
片岡は、北海道帝国大学農学部に入学してから、札幌の瑞竜寺住職三浦承天老師(後に妙心寺管長)について、坐禅を始めた。禅の修行を続けるうちに、哲学を勉強することを志して、北大を卒業の後、京都帝国大学文学部哲学科に入学した。西田哲学は、禅で自覚体験する人間の本質(仏性、人格性)を文字化、思想化したものである。京都大学では、西田幾多郎の高弟、久松真一に哲学を学ぶかたわら、相国寺の山崎大耕老師に参禅した。
若くして悟る
◆「既に京大時代以前に、北海道で若干二十歳にして、先生のいわゆる「生命力の極致」の禅定が実を結び見性を遂げられていた先生には、恐らく西田先生も一目置かざるを得ない或る種の風格が備わっていたのであろう。相国僧堂の山崎大耕老師も、片岡先生が大悟された時、室内で先生を焼香三拝されたという。」
(F196、田中宗傭氏、林光院)
◆「これだけの門下生を生みだした当の片岡仁志先生は既に二十歳にして、山崎大耕御老師のもとで印可を受けられ、引き続いて、他山の諸老師方にも大悟の証明を受けておられる。わが相国寺においても、大津櫪堂御老師、梶谷宗忍大老師には、絶対に心から尊敬できる大居士として、印可以上のものを得ておられる仁志先生である。」(F592、尾関宗園師、大徳寺山内大仙院住職)
学科でなく心を
学部を卒業後、大学院に進学したが、久松真一らの紹介で、昭和三年、沖縄県立女子師範学校の教諭になった。ついで、昭和五年[二八歳]、長野県立実業補習学校教員養成所の教諭になった。将来、先生になるべき人達に、先生の心構えを教育したのである。次は、京都大学の教え子であるが、教えの内容は変わらない。
◆「そもそも教師は、教え方が如何に卓越していようと、それだけでは師ではない。生徒の心にふれる何かを持ち合わせているのが師である。それは教師すべて人格者たれと言っているのではない。心を理解する人であればいいのだ」(G309、渡部修三氏、光華高校教諭)
昭和十三年[三六歳]からは、自ら、長野県立長野高等女学校の教諭となった。昭和十五年に、長野県立野沢高等女学校の校長となった。校長となった片岡は、職員会議の時間に、西田幾多郎の哲学書『善の研究』などの読書会を行い、教育の目的である「人格」とは何かを教員に考えさせた。
京都で禅精神の教育
太平洋戦争下の、昭和十七年(一九四二)[四十歳]京都に女学校が設立されることになり、片岡は、強く要請されて、嵯峨野高等女学校の校長になった。戦後、京都府立第一高等女学校校長、昭和二十三年、学制改革により、京都市立西京高等学校の校長になった。
片岡が初代校長となった嵯峨野の女学校では、禅の精神を取り入れた教育を行った。毎週一回朝、作法室で坐禅させ、間に片岡が法話を行った。表千家の堀内宗完宗匠による茶道も授業の科目とした。夏休みを利用して、相国寺本堂で二泊三日の坐禅の会が開催された。「修身」の時間には、「如何に生き、如何に死ぬべきか」という人生の根本問題を諄々と説いた。職員会議では、教員のために『善の研究』の読書会をして、生徒の根底の人格を見つめさせた。
大学教授
昭和二十四年、京都大学に教育学部が設立され、片岡は、翌年教授に迎えられた。教育学部で「教育指導」「学校管理」という講座を担当し、『善の研究』をテキストに使った授業を行った。
昭和四十年[六十三歳]定年により、京都大学退職の後、華頂短期大学の教授になった。昭和五十六年[七九歳]華頂短期大学を退職し、平成五年(一九九三)[九十一歳」五月十七日、死去した。
片岡は、生涯独身で、長兄の子(甥)の匡三(きょうぞう)を昭和五十九年に、養子にした。
自宅で坐禅と『善の研究』の講義
片岡が活動した場所では、どこでも片岡の教育哲学を尊敬する人々が、片岡の自宅に行って、西田幾多郎の『善の研究』の講義をしてもらったり、禅の話を聞いたりする会ができた。そのような片岡の自宅での会は、その後、片岡の死の直前まで何十年も継続された。
◆「先生のご自宅で「善の研究」の講義をしてくださったので、私は有志と共に先生のご自宅まで押しかけて講義をお聴きしたりもした。今まで実業学校におけるいわゆる形而下のみの実学に明け暮れて来た自分が、片岡先生によって形而上の世界へ目を開かせて頂いたことは、私にとっては全くの驚異であった。」
(F53、小池正巳、元春富中学校校長)
教育界に貢献
長野県の教育界は、昔から哲学が盛んで、西田幾多郎は長野県にしばしば講演に招かれた。その伝統は、片岡の時代になっても失われず、片岡は長野県の教育関係者の要請を受けて、哲学書の読書会の指導や、教育関係の催しで講演した。また、長野県の各地の哲学会のメンバーである先生たちが、京都の片岡宅に出向いて教えを受ける会が晩年まで続いた。こうして、片岡の薫陶を受けた大勢の人達が、現在全国の高校、大学の先生として活躍している。
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