もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

禅と詩歌

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永田耕衣

耕衣の禅の精神


禅は生涯の関心

 耕衣は20歳くらいから禅に関心を持ち、終生、禅を学んだ。最後の作品も、禅にかかわりがある。耕衣は20歳の頃から、最後まで、禅の求道者でありました。耕衣の禅への関心をみてみよう。

自己を習う

 耕衣は、道元に関心を寄せている。自己を習う、自己を忘れる、は道元の言葉である。禅は、自己とは何かを探求する。自己を捨てて、ことにあたる、という日常をいい、また、自我のないことになりきることを自己を忘れるという。名聞利養、妄想を捨ててかかる。自分だけの利益、名誉、エゴイズムなどの捨棄である。
 「書を習うとは自己を習うことであり、「自己を習うとは自己を忘るる」こと。その「自己を忘るる」の本意は何かといえば、<本来の自己には、不用である筈のいろいろな垢がついている、たとえば名聞利養のたぐい、身心的妄想、こういうものを、何とかして洗い落とそうとする志、祈願>だという。
 つまり、書とは、「本来の自己」実現のためのもので、無心を志して幾枚も保故(ほご)にしているうち、「本来の自己」が書いたと思われる自ら惚れ惚れとする作品が生まれる−と。
 このため、悪筆とか達筆とかの基準はなく、「類を絶する」といわれれば、それで十分であった。」(C53)

同人にも

 「同人たちに向け、耕衣はこの号でも、
「文章を書くことも、自己の身心脱落の道である」
 と、すすめている。禅による自己救済と同じことというニュアンスである。」(C146)

退職後も禅への関心

 退職してからも、禅への関心が旺盛である。道元の「正法眼蔵」をまた、読む気になった。
 「いずれも健康上、そして経済的な理由によるものだが、耕衣はまた、このころの年頭の日記に、別の誓いを書いた。  「道元を改めて学ぶべし」  その次の年頭でも、  「今年は『正法眼蔵』と民族学に力を入れて勉強せん」  こちらでは学生顔負けの若々しいところを。」(C144)

道元、ただ今ばかり

 道元がいう「只今ばかり我が命は存する也」。私の命は、ただ今しかない。過去もなく、未来もなく、ただ今のみ。
 「また、道元の「只今ばかり我が命は存する也」を至上の箴言として享受する翁であってみれば、衰退していく時々刻々の命をこの茄子とともに惜愛しようとしているのかみしれない。」(A189)

芭蕉

 「「句は天下の人にかなふることはやすし。一人二人にかなふることかたし」(芭蕉)の箴言も耕衣が事あるたびに提言する。そして、この「一人二人」に相当する「明眼の人」にまず己れが含まれていなければなるまいとする。でなくて、なんの作者ぞと。これは増長慢でも傲慢でもない。作者たる者、精進の上におのずからもたらされる自負というものである。己れの眼を信じることができるまで鍛え抜くのがそもそも作者であるからだ。」(A191)
 「明眼の人をはずべし」は道元禅師の言葉。俗の大勢の人の眼にかなうような業績はたやすい。しかし、明眼の一人、二人に認められるような業績は難しい。

開け行く道

 「私の中には未だに,まるで自分のために道を開けてもらうという『十戒』のような何とも言えない感じが残っているんです。」(A18)
 高村光太郎は「私の前に道はない」というが、同じである。この世界は、自分のためにあるような気がする。その場になったら、自然に開け行く。心配いらない。

俳句業界を批判

 怠慢は好きではない、自己の精進を求める。何事も政治的になったら、堕落だ。エゴイズムや名誉欲を批判する。これが、仏教の求道者らしい。仏教は、縁起説の理解ではない、超エゴイズムの実践である。  「耕衣は、若い同人たちに言った。
「ズボラはだめだ。自分を責めに責めて、つくれ」  こうした耕衣から見ると、俳壇は芸術性よりも政治性が優先し、中央集権的になっているように思えた。
 耕衣はがまんできず、「名誉欲者や中央集権主義者にヨイ薬を」と、「地方文化人列伝」なる連載を同人に書かせたりした。」(C132)

力のない俳句

 ただ俳句のための俳句という論では、ただ坐禅のみという論と類似する。そうではなくて、生きがいを痛感するのが目的だという。生きるとは何か。
 「俳句を無目的のものとする一部の俳人の考え方に反対し、「生き甲斐を痛感するのが俳句の目的だ」と明言し、そうした常識的というか「平凡な願望」を基礎にして、その上で、常識を破る句をつくろう−と。」  (C132)
 禅にも無目的だという者がいる。そして力のない、役立たずの禅をしている。このような大組織の団体の堕落というか、程度の低いことは、耕衣の独善ではなく、事実のようである。たまたま耕衣を特集した『俳句』平成十年二月号に、大結社の低迷さを指摘した文が掲載された。

純真さが足りない

 「初心者のために」という文の中で、「純真さが足りぬ」人がいる、と。
  また、「見る眼が曇っていてはだめで、「よいものをよいと見る眼を不断に養わねばならぬ」と。
  自分とは、人間とは、何かを探求する仏道では、同じように、経典を看る眼がなければ、程度の低い教えに洗脳されてしまう。「看経(かんきん)の眼(まなこ)を養え」という。
 「耕衣は初期の「琴座」に「初心者のため」と付記した一文を載せた。(中略)
 さて、その本文は次の用に始まる。
 「よいものには惜しみなく感心して貰いたいと思う。よい美術品にあっても、容易に感心したがらぬ人達がある。それにはいろいろ原因もあろう」
  親しみやすい語りかけである。
  続いて耕衣は、「容易に感心したがらぬ人」を、三つに分類する。
  第一は、よさがわからぬ人で,これは信用できる人について、見る眼ができるまで教えてもらえばいい。
  第二は、判っていても、ほめるのが嫌いな人。
  第三は、見識が高過ぎて、よいものは無しとする人。これはごく少数の天才に限られており、問題は第二の分類の人々。
  そこで耕衣は、工芸の世界の権威である柳宗悦(やなぎむねよし)と、棟方志功を例にあげる。
  志功の「釈迦十大弟子」が展示されたとき、一面識もなかった宗悦がやって来て、「すばらしい」と絶賛。
  近くでそれを聞いた志功は、柳の首に抱きつき、
 「いいですか、いいですか!」
  以後、二人は肝胆相照らす仲になり、お互いをさらに成長させることになったではないか、と。
 「私はこういう交歓の世界を限りなく愛する。むしろこういう交歓の世界があるであろうことに、人生の希望 と幸福の全部をかけている」
  交歓とは、心を開いての出会いということであり、ここでもまた「出会いは絶景」の強調である。
  その視点から、耕衣の筆は俳壇に及ぶ。  「世にはよいものをよいとほめてさえ、それを追従なりと嫉妬して快からぬ人も多い。殊に私の経験では俳壇にこのことが多い。狭量というよりも純真さが足りぬのだと思う。よいものは遠慮なくよいとほめたらいい。
  それが相手をよろこばせるだけでなく、自己の成長にも役立つから−というのが、耕衣の考え方であった。
  もっとも、見る眼が曇っていてはだめで、
 「よいものをよいと見る眼を不断に養わねばならぬ」
  というのが、その結びである。
  難解俳句と呼ばれるような句をつくったり、ときに頭の痛くなる感じの文章も書く耕衣だが、この一文は、 文字どおり「初心者のために」書かれていて、わかりやすく、ためらいがちな初心者の心をふるい立たせてくれる。」(城山三郎、C102)  本当に、誠実なものを認めない人が多い。仏教の学問世界も狭量である。よいものをよいとほめない。よいものを否定する。その否定するものが、何もしない。エゴイズムに生きる。耕衣がいうように、どこの世界でも同じである。日本は、何と低俗な国になったことか。

他人をほめる

 自分はほめない、それは慢心であるから。しかし、耕衣は、人をほめる。他の人をほめることによって、自分の利益が害されそうに思う人は、他の人をほめない。やはり我執がからむ。たとえば、学問でも宗教でも、仕事でも、自分の説、意見と違うことを言う説が出てきて、それが自分の説・意見よりすぐれている場合、他の説・意見をほめると自分のものを否定することになる。だから、なかなか、これができない。社会がよくならないのも、こういう良いものを良いと素直に純真にほめられないという自分かわいさ(我執、自我愛)が人間にあるからである。
 互いのよさを理解し、ほめあえる人は少ない。だからこそ、そういう人は貴重だから、肝胆照らす友となる。そういう出会いは、少ないから、もしそういう人に出会えたら、「出会いの喜び」がある。耕衣は、よき人との出会いを喜ぶ。「出会いは絶景」という。
 信者を自分にお布施を出させる収入源と見ている宗教者との間には、そんな出会いは望めない。どの分野でも、本物を見る眼、邪心を見抜く眼を養いたい。
 度量の小さい人は他人をほめない。これが、偉大な誠実な人が埋もれる理由である。賞賛すべき人は、自分にないよいものを持っている。称賛すべき人が現れると自分の地位、評判が落ちる、めんつがつぶれると思う狭い心持ちがある。自分の利益が害されると思う度量の小ささ。この人間の我利我執のために、すぐれた人をほめて世にだそうとしない。仕返しをおそれ、声の大きい、恫喝する意地悪い者のいいなりになる。自分も、また、自分より弱い者には、同じくそのミニチュアである。これがために、社会がよくならない。

飾らないマルマル人間

同人誌『琴座』

 耕衣は、昭和二十四年<四十九歳>から、同人誌『琴座』(りらざ)を発行した。平成九年一・二月号まで継続した。最後まで小さな集団だった。

俳句は、俳人が作るのではない、マルマル人間だ

 耕衣のグループのきまりがある。仏教的精神に満ちている。増上慢、慢心、威張ることを強く戒める。自他の救済。大勢の俗物に認められなくてもよい、時代を超えて妥当する、一人二人の誠実な人に認められたい。
 「耕衣は相変わらず弟子たちの句をけなすよりも褒める流儀であり、「琴座」自体も規約らしい規約など無いのんびりした小集団のままであった。
 とはいえ、目的や目標の無い集団というのともちがう。
「琴座・陸沈の掟」なるものを、耕衣は「さしあたりの事」として提唱している。「陸沈」とは、隠者風というか、世間から身をひそめて生きる意味の由。
 その「掟」の項目を抄記すると、
 *定型楽守の事。定型の自守を満喫する、これ楽守なり。
 *野の精神に徹すべき事。
 *人間出会の一大事なる事。
 *俳句は人間なる事。俳句を作(な)す者は俳人に非ず。マルマル人間なり。されば俳人意識を脱落し、増上慢を強く戒むべきなり。
 *一人二人の事。(一人二人が認めてくれればいい。その一人は自分である以上、他人は一人でいいということだが、耕衣はそれほどきびしくは言わず、補足する。「具眼の士一人にて好しというは甚だ剛に過ぎん。この上数人を加うるを咎(とが)めず」と)
 *諧謔精神は俳句の柱なる事。
 *超時代性を持続すべき事。
 *自他救済に出づべき事。
 それらは人生論であると同時に、耕衣自身の生き方でもあった。」(城山、C198)
 この中に、禅の私心なき生き方、無我の精神が生きている。
 「野の精神に徹すべき事。」組織に追従し、組織の維持に汲々とする根性では、深い芸術は生まれないのであろう。すぐれた芸術家は常に野にあった。世阿弥、芭蕉、漱石など。
 足のひっぱりあいや、我利我利を追う大集団の愚者の中でほめられる人間になるより、少数の誠実な人に認められる生き方、俳句を追求するほうが、生き甲斐のある人生である。それが自分をも他者をも救済することになる。他の俳人の句は、その人が死去するとともに忘れされらるであろうが、耕衣の俳句は、求道する人々によって長く後世の人々に探求されるであろう。

根源俳句

 耕衣の俳句は「根源俳句」と呼ばれた。人間の根源をよむのが耕衣の俳句だった。禅と同じく人間の根源をとうので、実践しないもの、体験しないものには難しく感じる。批判、無視もされる。禅の実践者も、学者から批判、無視されるようなものだろう。
 「俳句は人間の根源の姿を問うものであり、それは禅なり東洋的無に行きつくという「根源俳句論」を耕衣は唱えてきたつもりだが、俳壇から返ってくるのは、相変わらず「難解俳句」との批判。
 いや、批判するどころか、無視してかかる向きが多かった。」(C115)

俳句も人間そのものを教えなければ

 「今、カルチャ−旺盛時代ということで,俳句教室や書道教室のカルチャ−先生が、果たしてどういう態度で何を教えているのかということが一つの大きな疑問ですね。俳句だって人間だし,書も人間です。人間そのものを俳句という立場から思考し、かつ教えてゆかないと駄目じゃないかという気がしてヒヤヒヤしています。俳句だけがちょっと気が利いていて、俳句だけで有名になるとすぐ先生になってしまう。これは花の世界や茶の世界でもいくらでも例があります。それと同じですね、茶の精神といっても「茶の精神は人間ぞ」ということまでは言いませんとね。」(A23)

城山三郎、耕衣の俳句に人生を

 「そして数年前、春陽堂から出た『永田耕衣句集』というのをたまたま読みまして、非常にびっくりしたのです。この人は思想や人生と斜めに向かい合う人じゃなくて、真っ向から人生というもの、あるいは思想というものにぶつかっていく人だと思いました。そういう真っ向さといいますか、そこから出てくる俳句の新しさがある。」(城山三郎、D84)

奇襲

 「耕衣が言う「奇襲」とは、およそこのような生命の本願に根ざすものなのである。「只今ばかり我が命は存する也」を念ずる切実さゆえにである。」(A191)

観念か

 「耕衣さんはしゅっちゅう、自分の俳句を観念と言って非難する人がいるということを、大変批判しています。耕衣さんは、さっきのビルドウングス・ロマン的な、自分を鍛えていく俳句ということで、そういう観念が働くと思うんです。わざわざここで、むやみに生きてもしょうがないということも、観念として、という言い方をしているのです。」(海上氏、D107)
 「ビルドウングス・ロマン、つまり自分を、教養的・論理的に構築していくという自伝の作り方−−−」 (海上氏、D102)
 「別の言い方をすると、彼の生き方自体が、ビルドウングス・ロマンだったわけです。こんな人はめったにいないということに限らずですね。自分を常に、ある意味では愚直なまでに高めていこうという一生です。」 (高橋睦雄氏、D102)  耕衣は、人間の事実をよんだのだ。俳句とは、物や風景をよむもので、それ以外の、観念をよんでいるからといって非難するのであろう。しかし、非難する人は、耕衣が「観念」をよんでいるのでなくて、「人間の事実」をよんでいることを理解できないのであろう。それでも、それが俳句では邪道だ、というのならば、それは、それでいいであろう。芸術の種類が違うのであろう。耕衣の俳句も後世の眼のある人によって、もっと評価される時が来るであろう。「自分を常に、高めていこうという一生」だというが、仏教の実践者もそうである。自分のエゴイズムと人々の苦悩は絶えない。自分が成長すれば、救える範囲が広がる。自他を救うために、常に精進をめざす。
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