もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と詩歌
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永田耕衣
耕衣の俳句を味わう(3)
老い
「茄子や皆事の終るは寂しけれ」 (A110)
耕衣は、書斎にナスを飾り、それが枯れてミイラになっていくのをみつめた。
「老い」は、積極的な「衰退のエネルギー」であると言う。(C180)
「天行(てんこう)や茄子のミイラを飾り置く」 (B70)
「天行は下駄の上なり梅の花」 (A171,B67)
「たわむれに老い行くごとし冬の海」 (A158)
むだに老いている? それでいいのですか?
「年とって冷たき土堤に遊びけり」 (A62)
「烈日の老を看るべし眺むべし」 (C184)
「灼(や)けるような太陽の下、ふつうの老人なら外出もためらうのに、その太陽を向こうに廻し、
「烈日の老を看るべし眺むべし」
老いぬれば肌に染みが出、顔には斑(まだら)もできる。
だが、耕衣は一向に気にしない。
「老斑を夏日晒しの童かな」」
(城山、C184)
死について
「では、死はこわくないのか。耕衣はお気に入りの蘇東坡を呼び出す。
<蘇東坡はうたった。「年来万事足る、欠くる所はただ一死のみ」と。人生誰でも一生不如意づくめだが、済んでしまった一切事は「万事足る」で立派なケリだ。只一つ足りぬことは、人生末期に訪れる一回切りの「死」あるのみ。ソレはまだ満たされていない。この陽気さは老朽者最高の精神だろう>
ついでに、やはり蘇東坡好きの歌人佐藤佐太郎に言及。
「杖ひきて日々遊歩道ゆきし人
このごろ見ずと何時人は言ふ」
などの短歌を紹介して、
<何ともいえぬ、悠揚迫らざる微笑哄笑ふくみの「生への執着」その落ち着きぶりに、無類の肝銘を催おする。莫妄想である>(神戸新聞昭和五十九年四月二十八日)
死について迷わず、妄想することなかれ、というわけだが、そこまで腰を据えて老いも死もうっちゃってしまう姿勢がとれたのは、歳に似合わぬ健康な日々があったせいもある。」(C186、189)
「死欲(しによく)は無かりき死せり天高し」 (B71)
「強秋(こわあき)や我に残んの一死あり」 (B72、C193)
満足しない人
「池を出ることを寒鮒思ひけり」 (A65,B10)
「寒鮒の死してぞ臭く匂いけり」 (A67)
「水を釣つて帰る寒鮒釣一人」 (A68)
今、自分がいるところこそ、涅槃、極楽であり、そこしか生きることはできないのに。家庭をこわしてまで、宗教だ、学問だ、仕事だと、よそに幸福を求める。毒針とも知らずくいつくから死ぬ。世の中、いろんな毒針がしかけられている。それにあやつられてみにくい行為をする者、財産まで巻きあげられて、自殺においこまれるもの。いっても、くだらないところで、何も収穫もない。宮沢賢治の宗教批判、学問批判も激しい。今の教団はいかに? 今の大学はいかに?
「明くる日の事にこもれる椿かな」 (A35)
「身に欠陥あるため秋の蝶疾駆」 (A72)
異常に騒ぐのは欠陥。こころの。
「妄想の足袋百間を歩きけり」 (A50)
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