もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と詩歌
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永田耕衣
耕衣の俳句を味わう(1)
俳句を深読みする
自由に私(大田)なりの解釈をします。あるいは、耕衣が考えた以上の読みをするのかもしれません。芸術作品や経典をどこまで深読みするか、面白いことです。作者の意図以上に深読みすることを耕衣は次のようにする。
「耕衣の立場は、はっきりしている。何のために他人の苦を鑑賞するかといえば、世のためや俳壇のためでなく、自分のためである。それなら、いっそ自分のために深読みしてしまえ、と。」(C160)
作品を時間をかけてじっくり、眺めておりませんので、深く読みとっていないものもあります。ここにご紹介した解釈は、暫定的としておきます。もっと、深いものがあると思います。これまでとりあげた人々もそうですが、みなもう一度別な機会にじっくりと深く読んでみたいと思っています。みなさんも、それを試みられてはいかがでしょうか。
道元、親鸞、正三
「愚禿親鸞を触れりあの花菜」 (B61)
「道元元元冬日親鸞もまたまた」 (A177、B72)
「薪在り灰在り鳥の渡るかな」 (A112)
道元禅師の『正法眼蔵』に関係があるでしょう。『現成公案』の巻に次の言葉がある。
- 「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。」
- 「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。」
鳥は、自分の法位をせいいっぱいに飛ぶ。ただ、今があるのに、全力を尽くす。生の時、生しかない。死はない。
「空を出て死にたる鳥や薄氷」 (A108、B30)
道元禅師の『現成公案」。迷って、毒針にひっかかった。多くの人間が、仏性の中にいて、知らずにもがいて、そこをとびだそうとして、死んでいる。いろんなものにふりまわされ、もったいない人生を殺している。
「憤然と山の香の附く揚羽かな」 (B68)
「鈴木正三『驢鞍橋』の《憤然の機》を讃す」と題。
心田
「田にあればさくらの蘂がみな見ゆる」 (A31)
「人ごみに蝶の生るる彼岸かな」 (A34)
「舞い出でし蝶のうしろの田を見ずや」 (A40)
蝶が舞っている。その時、田を見ているのですか。見ていて、見えず。
蝶も仏性だが、それが出てくる根底の田が見えるかな?というのか。
「天上に映りて麦を刈り尽す」 (A59)
天とは何。映るのは何。
「かたつむりつるめば肉の食い入るや」 (A52)
根源俳句の代表作、かたつむりが交尾して、互いに食い入っている。自分を犠牲にしている。いのちの根源のありかたをみつめようとした句といわれている。
我を無にして、自己を犠牲にすれば、相手が生きて、他と一つになる。そこに新しい創造がある。それが、根源のありかた。
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