医学とこころ

永井隆の生き方

 永井博士の人生観をのぞいてみよう。第一に、人間の小さいことの自覚が必要なこと、第二に、いかに生きるべきか、の2点についてみよう。これらは、心の病にも関連している。
 また、この機会に、キリスト教の聖書と仏教やマインドフルネス心理療法で探求する「こころ」の類似点を簡単にみてみよう。

一、己の小さなこと 二、いかに生きるか

一、己の小さなこと

みな違う宗教観

 キリスト教と禅は違う点もあるが、似ている点も多い。こころ、や苦悩からの救済がテ0−マであるから当然である。苦悩の中に、精神疾患、心の病気がある。
 キリスト教は聖書をもとにしているが、その解釈は様々で多くの教団に分裂している。聖書はイエス・キリストの言葉そのままでなく、初期教団の信者たちの解釈が反映され、変質していると言われる。聖書の中でさえ、イエス、パウロ、マタイ、ルカなどで宗教観が違っている。現代では、カトリックとプロテスタントに大きく分裂して、両者の宗教はかなり違っている。プロテスタントもまた、様々に分かれている。しかし、聖書の言葉でもイエスの言葉と思われる部分は、仏教、禅に通じるものがある。イエスも人間であり、覚者(禅と同様の悟りを得た人)であったと見る学者もいる。その点から聖書の言葉も永井博士の言葉も、仏教、禅と類似した解釈ができる面もある。こころの探求、精神疾患の治療と重なる部分がある。

◆「 」は永井博士の著書の引用、
◇『 』は聖書(新共同訳)の引用、他は、大田の解説である。

○頼りない自分

◆「かえりみれば、この子に絶対に頼まれているつもりの私みずからが、その実頼みにならぬ人間ではないか?私みずからすでに天なる父に依り頼まずには一秒たりとも生きてゆかれぬ弱い人間ではなかったか?」    (A72)
 「自分」とは、頼りにならぬもの。いろいろな出来事で、精神的な病にかかったり、自殺したりする人が多い。夏目漱石も、留学中に神経衰弱になったこともあって、自分は頼りにならない、と言った。人間を探求した小説家にも自殺した人が多い。「自分」は頼りにならない、弱い者という自覚ある宗教において、真にそれを自覚した人は、人生観が大きく変わる。第一に、他者も同様に弱い者として哀れみの心がわく。第二に、全く自分では何もできないという徹底した「無」である自分であるのに、それでもこの自分が生きているということに思い至るとき、自分を生かす何者かの存在を感じる。キリスト者は、それを神というのであろう。禅者は、自己の外に、何も規定しないが、自我を超えた大きなものと自己が一つであること、しかしあくまでも自己は無である低いものである(人間はあくまでも絶対者ではない)ことを悟る。
 マインドフルネス心理療法のカウンセリングを実践した人は、不快な事象を自分の判断に頼りすぎて、かえって苦しめていたことに気づき、不快な事象を受け入れようというこころになる。
◆「私は神の御意のままに、おん手の先につかわれる一つの道具にすぎなかった。」(A73)
◆「私は注射器であった。私がこわれて亡くなっても、私を使っていた神がそのままおられるのだから、何か他の手段でこの子の苦しみを癒してくださる。私は綱にすぎなかった。私がついに水底に沈んでも、私を投げた神がそのままここにおられるのだから、必ずこの子を荒波から救い上げてくださる。−−何も心配することはないじゃないか?」(A73)
 私は、道具、注射器。自分の小ささの自覚、自我の否定が、こういう言葉となる。禅では「無我」という。マインドフルネス心理療法では、無評価、受容を言う。自分は、実体がない。すると、自分は神によって創られたものという自覚になる。自分の死が迫っていた永井氏の心配は、二人の子供であった。しかし、神の存在を信ずる永井氏は、二人の子供にも神の愛が注がれることを信じ、子供の養育を神に託した。それによって、自分の死後の二人の行く末について苦悩することをやめた。
 マインドフルネス心理療法の実践者も、今を真剣に生きて、将来は将来にまかせるだろう。

○本来無一物

◆「元来私は無より神の愛によって創造された。母の胎内に宿った時が私の創造であった。その時以来今日に至るまで、私の得たすべての物は皆神の与えたもうたところである。健康、才能、地位、財産、家族など、すべて元来私の所有ではなかった。だからいつどこで、これらのものを取り上げなさっても、私が損をするわけでもなく、また得をするわけでもない。別に嘆き悲しむには当たらない。御摂理のままにお任せするのが当たりまえである。そして御摂理はつねに感謝し賛美せらるべきものである。なぜなら、神は愛する一人の人間を創造になった。それが私であったからである。神は私を愛したくて、私を創造なさった、神に悪意の創造はない。神はつねに私を愛し、絶えず私の幸福を願っておられる。」(A29)

 永井氏の言葉は、禅の「無我」「本来無一物」に通じるものがある。また、親鸞の「聖人のつねのおほせには、弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、されば・・・」に通じる。「それが私であった」 ほかでもない、私と神の関係である。
 「無我」「無一物」は、すぐ「「我でない我」、神(仏性)そのものと一つの我」という自覚に出る。これは、思想や知性での理解でなく、現実に、無我を体験した者のみが感得する自覚であろう。人間の親でさえ、わが子を殺さない。まして、私は神の子、私を創造したのが神であるから、いつも神からの愛と働きがある。このことを自覚した人は精神的に安心を得る。もう何にも(教会、聖職者、僧侶、聖書、経典、思想など)頼っていない。

○それは常に我と共に

◆「私らの父なる神はそんな神さまとは違う。一定の神殿の奥なんかに引きこもってはいない。どこにもあまねく在(ましま)す。ここにもいなさる。今ここにいなさる。私が亡くなって後もカヤノのすぐそばにいなさる。誠一は神に抱かれている。いつも抱かれている。人が婆(ばば)になり、じじになっても抱かれているのである。」(A81)

◆「そうこうしているうちに原子爆弾を受け、はじめて完全な幸福を手に入れるためには宗教による他はないことを知った。完全な幸福は神と一致することであった。−−私はいま幸福である。そして二人のわが子も、この心境をももつように祈っている。」(A96)

 永井氏は「神と一致」しているという自覚があった。キリスト者のうちでもここまで深まった人は一部ではないだろうか。神は教会や神殿にはいない。ここではない天国にもいない。いつも今の自分と共にある。永井氏は、精神的に教会から独立している。キリスト教のうち、特にプロテスタントは教会や聖職者の権威を認めない。神の国は、来世のことではない。しばしば、宗教で「終末」が言われ、神の来臨は、歴史的将来のことと信じている人々もいるが、永井氏は「すでに」神と共にいる。次の聖書の言葉のとおり、永井氏のように、すでに神とともにある、という自覚にいたるキリスト者がいる。
◇『神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』(ルカ17−20)
 禅者も、自我の実体のないことを悟り、仏性そのものである自己の存在を自覚するという者がいる。一人の人間が、キリスト者と禅者を兼ねることはできないから、断定できないが、釈尊の悟りとイエスの神の国の自覚とは、同一の直観体験から起こっているのかもしれない。

二、いかに生きるか

 多くの宗教が、「信じる」ということを言うが、禅は、思想よりも「実践」を思んじる。実はキリスト教も、信じるだけでは、真のキリスト者ではないと聖書はいう。「行い」によって、キリスト者となる。信じるだけの信者も、精緻に聖書や経典を理解し説明できる学者でも真の宗教者ではないのだろう。永井博士は、どう行ったか。

信じるだけではなく、行い

 聖書に次の言葉がある。
◇『自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。−−−行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。』(ヤコブ2−14)
 従って、キリスト者も、適切な「行い」をしなければ、神と一致している(これも様々に解釈されるが)という自覚は得られないはずだ。その行いは、聖書には、虚栄心を捨てる、他人を批判しない、他人を自分のごとく愛する、明日のことを思いわずらわない、人を殺さない、など多くのことが記されている。禅でも坐禅と日常生活の場における動中の工夫が言われる。 禅の実践中には、これらの戒めはすべて成就しているように見える。深いキリスト者の行いと、深い禅者の行いは、基本的には同じように見える。信仰だけでは、だめである点で共通している。

○神の御栄え

◆「この一生は天に宝を蓄える働き場である。毎日、毎日、毎時毎秒、時間に生きながら、永遠に生きる工夫をせねばならぬ。小さな永遠の宝を積まねばならぬ。絶えず小さな善業を行なって神の手帳に善、善と書き止めていただかねばならぬ。−−−では、どうしたら小さな宝が作られるか?
 為す業が宝となるかならにかは、それを為す意向で決まる。
 「神の御栄えのために!」
 こう念じてすることは、神と直接関係をもつから、永遠である。どんな小さなことでも−−−わらくず一本拾うことでも、路の小石を一つ除けるのも、のびた爪を切るときも、神の御栄えのためにするならば、神は善と見たもうのである。夜に眠るときも、今日の働きの疲れをなおし、明日さらに元気を出して神の御栄えにために働けるよう眠ります、と念じて眠れば、これを善とされるのだ。さっき言った善でも悪でもないこと−−飯を食う、呼吸をする、くしゃみをすることなども神の御栄えのためにするならば、永遠の善業となるのだ。いつも神の御栄えのためになることだけするようにつとめる。御栄えにならぬことはしない。−−この心掛けをもちつづけてゆけば永遠に生きるのだ。」(A227)

 永井氏は、すべての行為を自分の利益のために行わず、神の栄えのためという祈りのもとに行う。仏教者の中には、人間(特に自分は)は罪深いもので、自分は善はできないという者がいる。知らず善を行うように見えたとしても、それは自己の働きではない。大いなるもの(念仏者なら阿弥陀)のはからいである。善であると判断することさえ、人間の行為であるならば、その判断が正しいか、わからない。これは、戦前の日本の国民はほとんどすべて善だと思いつつ、悪を行ったことがその典型的な例である。現代では、政党や宗教や会社や医療機関など各種の団体が、自分たちでは善と思いながら、違うことをしていることがある。人間の判断は絶対に正しいとは言えない。自我流の(人間の、自分の解釈で)善悪の基準で行う場合は、偽善、悪の行為を働くおそれがある。マインドフルネス心理療法でも、自我の評価(たとえば、動悸や不安を嫌う判断)が心の病気を維持させているので、無評価であることをすすめる。 であるから、善と意識せず、せめて自己の欲得からでないことを祈りつつ、無心で行うしかないようだ。同じことが聖書の次の言葉ではなかろうか。
◇『わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。』(ローマ7−18)
 
 しかし、最初は意識して行うが、いつまでも意識があって善を行うようでは、宗教的に浅いというのが仏教(禅)の教えである。後には意識しなくても、おのずから道から離れていないというところまでいくべきだというのが仏教の教えである。そのため「自分は、教祖さまの言うとおりに善いことを行っている。言われるとおり生きてきたから何も悪いことはしていない。」という宗教者を、禅からは低いと言うのである。まして、「自分はブッダの生まれかわりだ。」という宗教者がいるとしたら禅やキリスト教から見れば軽蔑されるべき傲慢である。このような一見するとすごいと感じる(そのためそんなことを言う宗教者にも多くの信者がむらがる)言葉の底に、自分のつまらなさをかえりみないおごり(自分がわかっていない)、自分を誇る気持ち、自分を他者よりすぐれているという思い(差別意識)が潜んでいることにお気づきですか。このような人間の醜さを自覚しない人は、宗教的には尊敬に値しない人間なのである。

○無自覚で罪を

 永井氏は、自分の罪、未熟さを自覚していたから、次の言葉がある。
◆「告白のとき同じような罪ばかり思い出すものだが、−−案外、自分の気がつかぬところに欠点があるのじゃ ないか?」(A128)
 「告白」は、キリスト者が、罪のゆるしを受けるために、犯した罪を教会で司祭に言い表すこと。信者は、少なくとも毎年一度、告白することになっている。しかし、罪を正しく自覚できるものだろうか。「自分」は、ある時には、考え、行為する。ある時には、自分を評価する。しかし、自分が行為し、考えている時、同時には自分を評価できない。そこに自分の罪は自分では気がつかないという事象がおこる。悪や善をなしているまさにその時、その自分が見えないのが人間の原事実である。だから、人はその時自分の罪に気がつかず、行為をただちに忘れるから、自分の悪や善に気がつかないのであろうか。また、善悪の基準は人によって異なる。自分で発した言葉が、知らずに他人を傷つけていることもあるはずである(が、傷つけた自覚がない)。自分の記憶に残る罪だけを告白するだけではすまない、とするのが宗教であろう。そこで宗教者は、もう自分に罪あるならば、すべて自己を超えたものの判断におまかせする態度になる。一方、一瞬一瞬に、今、ここから、それて妄想などに心を奪われた時に、気がついた時、反省している。それが宗教者(念仏や禅に顕著にみられる)の告白(僧侶などの前でなく、自己の内なる大いなるものの前で)に当たるだろう。本来イエスの趣旨も同じなのだと言っているように思われる。イエスの死後の初期の教団が形式化、儀式化したのであろう。プロテスタントが、罪をゆるす権限は人間(司祭であっても)にはないとするのも肯定できる。

○偉ぶるな

◆「出しゃばるな、偉ぶるな、名を売るな、人気者になるな、世間を気にするな、いつも隠れて善いことをせよ!
 イエズスの言葉を忘れてはならない。
 「すべてみずから高ぶる人は下げられ、みずからへりくだる人は上げらるべし」」(A180)
◆「誠一とカヤノがこの道を行くうちに、いつしか、恨み・憎み・ねたみ・そねみ・のろいの念を抱くようになりはしないだろうか?−−−私がいま心の中にひそかに案じている点はこれである。そうなったら道は横に外れて地獄にいたる−−−。」(A91)

 聖書はこういう。
◇『たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。−−−
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。』(コリント13−4)
 マインドフルネス心理療法では、とらわれるな、こだらりを捨てよう、過去のつらいこと、憎らしいことを思いおこしてもつかまえないようにしようと助言し、実践させる。人間のこうした形が、理解だけにとどまらず、体得されると、質的な変質が起こる(感情のおき方も変わり、脳神経生理学的な変化も起きる)のが人間であり、価値観、人生観が変革を起こす。

永井隆ー参考文献

A.『この子を残して』 永井隆 発行所:サンパウロ
B.『長崎の鐘』    永井隆 発行所:サンパウロ
C.日本テレビ 96年7月21日 知ってるつもり『長崎の鐘・51年目の真実』

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