医学とこころ
永井隆(ながいたかし)略年譜
レントゲン医療につくした医者ー「長崎の鐘」のモデル
永井隆略年譜
- 明治41年2月3日、松江市で誕生。翌年父が、島根県飯石郡飯石村大字多久和(現在の三刀星町)に医院を開業し、移住。
- 昭和 3年 [20]長崎医科大入学。(現在の長崎大学医学部)大学の裏隣に浦上天主堂があった。
- 昭和 7年 [24]長崎医大卒業。急性中耳炎にかかる。
長崎医大助手。物理療法科勤務。放射線医学を専攻。
- 昭和 8年 [25]広島歩兵連隊に入隊、軍医として満州事変に出勤。
- 昭和 9年 [26]帰還。長崎医大助手。物理療法科に復帰。
洗礼を受ける。
森山緑と結婚。聖ヴィンセンシオ・ポーロ会に入会。
- 昭和12年 [29]長崎医大講師。
中日事変に応召。軍医中尉として中国の第一線に従軍。
- 昭和15年 [32]長崎に帰還。長崎医大助教授。物理的療法科部長。
- 昭和19年 [36]医学博士となる。
- 昭和20年 [37]脾臓肥大で、慢性骨髄性白血病と決定、余命3年と診断。
8月9日、原爆被災。右側頭動脈切断、出血をおして救護に活動すること3日、再度失神して倒れる。
- 昭和20年 [37]8月11日、自宅焼け跡に帰り、夫人の遺骨を拾って埋葬。
- 昭和21年 [38]バラックより仮建築の家に移る。長崎医大教授。
長崎駅頭で倒れる。以来、病床にあることが多い。
『長崎の鐘』脱稿。
11月、病臥し、再び立たず。浦上教会仮聖堂竣工。
- 昭和23年 [40]如己堂竣工し、ここに移る。
『ロザリオの鎖』脱稿。『この子を残して』脱稿。
8月、長崎医大休職。『生命の河』脱稿。
三重苦のヘレン・ケラーが如己堂を訪問。
- 昭和24年 [41]『長崎の鐘』発行。
天皇陛下に拝謁。教皇特使の見舞いを受ける。
長崎医大退職。『いとし子よ』発行。
- 昭和25年 [42]6月、国会の表彰勧告に基づき、吉田首相の表彰を受け、天皇から銀盃を賜る。
8月、松竹映画「長崎の鐘」如己堂で試写。
12月、教皇庁国務聖省長官モンティニ師、教皇の意を呈して書簡を送る。
- 昭和26年 [43]腹水増大。全身浮腫を生じる。
最後の原稿『乙女峠』を脱稿。
右肩甲部に内出血。書くことができなくなる。
右大腿部に内出血多量。激痛に悩む。
誠一(17歳)、茅乃(11歳)の兄妹を残して、午後9時50分逝去。
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