禅と詩歌

 
宮沢賢治の初期の詩(1)

宗教によって救われない

 有力な賢治研究者から賢治が国柱会の影響を大きく受けたという説が強くだされているので、反論する意味で国柱会批判の詩を多く検討してみた。
 それでは、賢治の法華経精神を表している詩をみていく。今回は前半の一部から選んだ。宗教的に深まった晩年の詩は、別な機会に鑑賞したい。
 賢治は、無数の評論家、研究者から、解釈・評価されているが、主として、芸術的観点からであろう。私は、別な観点から見てみよう。

『小岩井農場』

 『小岩井農場』は、初期の頃の詩、大正十一年、二十六歳の作品である(1)。
 これは900行もの長大な詩である。元良東大教授の心理学、ドイツの詩人ホルツの詩、国柱会に失望後の誠の法華経観をみな含んだ実験的な詩である。 新しいものを創作するという決意がうかがわれる。
 吉本隆明氏は「かれの詩のなかでいちばん有機的な生命と理念を語る作品だといえる。」と高く評価するが、天沢氏は、「必ずしも傑作・成功とはいえない」と辛く(『宮沢賢治の彼方へ』ちくま学芸文庫)、評価がわかれる。天沢氏は、賢治の自己意識の分裂、不安定ということを見ておられる。
 この詩の最後に、「わたくしはかつきりみちをまがる」(2)という言葉が出てくるが、天沢氏は、行くてにあるのは「再び小岩井駅」の方向、「現実に到達しえない(しなかった)不可能の駅の代りに置かれたもの、貧しい現実存在でしかない。」(3)という。
 天沢氏の解釈ならば、行くては「貧しい現実」である。それを賢治は、「かっきり」というだろうか。私は、賢治が、新しい道をさがす強い決意を表現したものだと思う。既成宗教にはまことはなかった。それなら私は、自分で開拓する。それは浄土教の西方でもなく、国柱会の教えではなく、本当の法華経だ、という確固とした決意ではなかろうか。この詩のもっと前に、次の言葉があったからである。

 もう決定した そっちへ行くな 
 これらはみんなただしくない
 いま疲れてかたちを更えたおまへの信仰から
 発散して酸(す)えたひかりの澱だ (4)
 賢治は、国柱会からも決別したのは、別に国柱会への激しい批判の詩『心相』(賢治が死ぬ直前に書かれた)があって「いまは酸えておぞましき/ 澱粉堆とあざわらひ」(5)というからである。
 宮沢家に残された本では、賢治自筆で詩の最後は と修訂されている。「わたくし」が曲がるから、「道は」曲がるに変り、方向が「かっきり東」に変えられた。この頃は、「私」の意志が重要だったのである。だが、賢治は、後に「無我」、つまり、私がなくなった。私の意志にかかわらず「道そのもの」がはっきりとしている。徹底した無我の心境から詩の言葉を修訂した。こういうことは俳句の芭蕉も注意していたことである。その心境の深まりが、一語、一句の変更でわかることがある。
 ところで、国柱会は、法華経を奉ずる。これも「東方」だということになるが、「東」と宣伝している宗教、思想、学説は多いが、かっきり「東方」ではないのである。もし、本当の目的地がかっきり東方にあるのであれば、やや東方でも一度でも違うと目的地に到着しないのは、船の航海を考えればわかる。道元禅師が「毫釐も差あれば天地はるかにへだたる」というごとくである。
 賢治は、仏教の名を語りながら、結局は私利私欲を追う宗教者を批判した。賢治は、詩をこういう確固とした決意で作ったと見て鑑賞していく。
 賢治の詩は、わかりにくい。暗喩を使っているからわかりにくい。あからさまに体制を批判することが許されない時代だった。暴力に訴えることも多かった。賢治は政治にも宗教にも、批判の心をいだいた。しかし、はっきりいえなかった時代、暗喩でいうしかなかったのではないか。

(注)

『林と思想』

 『林と思想』という詩である。

 そら ね ごらん
 むかふに霧にぬれてゐる
 きのこのかたちのちいさな林があるだろう
  あすこのとこへ
 わたしのかんがへが
 ずゐぶんはやく流れて行って
 みんな
 溶けこんでゐるのだよ
 ここいらはふきの花でいつぱいだ (1)
 これは、自然と自己が一つであること、つまり、むこうの林は自己であることを表現したものである。これこそ、法華経や禅でいう自己を脱落する自覚体験(悟りという)にもとずく自己の真相である。自己を脱落すれば、すべてが、自己となる。他が自己となる。それを道元禅師は「他己」という。自他一如である。
 童話『ひかりの素足』にも同様の表現がある。東山魁夷画伯も同様のことを言っている。似たような詩は中原中也にもある。よく物を観て表現する詩人や画家は、風景と心の一体を感じとるものなのだろうか。この詩のそういう表現を心の病気などに見られる幻覚症状と見て、賢治は分裂病(統合失調症)だったという精神科医がいるらしいが、とんでもない解釈である。自他一如の文学的表現が理解されず、賢治が大きく誤解されるのは困ったことである。『林と思想』という表題でも、賢治の意図が推測できる。自(自分)他(この場合には、風景、林)は一つであるが、分別、思想が、こちらにいる自分と、「向こうに林がある」と、自他を分離させるのである。向こうに見える「林」は自己なのである。それを「わたしのかんがえが」「溶けこんでゐる」という。
 『林と思想』にうかがわれるような仏教の根本を会得したかのような賢治が、実は、まだ観念での理解であったことが、妹の死に直面して暴露される。

(注)

妹の死に直面し、信仰の無力を痛む

 賢治は、二十五歳の一月、家出して国柱会を頼って上京し、内職しながら活動するほど熱狂的な時期もあった。しかし、妹トシの病気という連絡を受けて、八月には花巻に帰った。わずか七ケ月の国柱会での活動であった。
 その年11月27日、妹トシが病死した。その死に際して、自分の宗教観からは、妹に何も言ってやれなかったこと、死後に妹がどうなったかを考えて、悩み続けた。 従来の国柱会による法華経信仰が、無力で、また詩に書いたものまでもが、観念理解では全く無力で、理解までもが違うのではないかと悩み始めた。同様の仏教や禅の観念理解はいざという時、無力であることは夏目漱石自身がそうであったし、その小説『行人』にも同様の人物が描かれている。
 妹が死んだ時、賢治は『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』の詩を書いた。天沢退二郎氏は、彼の一つの見地からは「宮沢賢治の詩作はほぼそこで本質的には終りを告げるのである。」(1) この後の詩は「いわば余生での営みにすぎない」と厳しい。『松の針』は、「内容的に貧しい」と言われる。
 これらは妹の死の悲しみを描いた点では、高い評価を得ているのであるが、信仰という点では、これまでの信仰の無力を嘆いている。

(注)

『永訣の朝』

  妹は、死のうとする朝、「あめゆじゅとちてけんじゃ」(雨雪をとってきてください)と賢治に頼んだ。賢治は外に飛び出した。

 死ぬといふいまごろになって
 わたくしをいっしょうあかるくするために
 こんなさっぱりした雪のひとわんを
 おまへはわたくしにたのんだのだ (1)
 確かに妹は、死のことを思わず、林の雪を全霊を挙げて味わった。最も確かな雪を六根のすべてで味わう法華経の行者トシ子であった。
 「兄さん、私は、先のことは思いません。今、雪をほおばり、雪の冷たさを感じたいのです。それが生きていることでしょう?それでいいんでしょう?」とでもいっていたのだろうか。

(注)

『松の針』

 天沢氏は、「内容的に貧しい」(1)と言った『松の針』。
 芸術性などからは、そうであっても、しかし、この詩には、トシ子が全身全霊を挙げて、生きていることの確認、「この世のもの」になりきっているすさまじい様子が描かれている。つまり、眼耳鼻舌身意の六根すべてを働かせているトシ子の様子を描いている。 たとえば、次の部分である。

   さっきのみぞれをとつてきた
   あのきれいな松の枝だよ
 おお おまへはまるでとびつくように
 そのみどりの葉にあつい頬をあてる
 そんな植物性の青い針のなかに
 はげしく頬を刺させることは
 むさぼるやうにさへすることは
 どんなにかわたくしたちをおどろかすことか (2)
 これほどさめた観察の言葉を、賢治は、彼女が死んだその日に書けたのだろうか。後に推敲したのだろうか。
 そんな妹に比べて、賢治は「わたくしにいつしょに行けとたのんでくれ」(3)という未熟な生死観だった。この詩を書いた時には、信仰としては、浅い法華経観であった。

(注)

『無声慟哭』

 これも、妹の死をよんだ詩である。

 ああ巨きな信のちからからはなれ (中略)
 おまへはひとりどこへ行こうとするのだ (1)
 キリスト者なら神の国へ行くものと信じていよう。賢治は法華経者であるが、決定していない。「どこへ」という。
 「巨きな信のちからから離れ」「つかれていて」妹を救えなかった。自他一如の法華経観を詩に書いているが、頭での理解だったから、現実の問題には役に立たなかったのである。これは学問仏教の弱さでもある。これまでの詩と信仰の無力を悔いていることがわかる。特に、「巨きな信のちからから離れ」という言葉には、法華経の実践から離れて、他のことに、例えば、詩とか、芸術とかに目を向けたため、信仰の決着がまだついていないことの悔いであろう。

 かへってここはなつののはらの
 ちひさな白い花の匂いでいっぱいだから
 ただわたくしはそれをいま言へないのだ
   (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから) (2)
 雪の降る日だったのに、なぜ、「ここは夏の野原」だろうか。これは賢治の法華経信仰がわからないと理解できない。法華経者の信仰の極致に至るものはいつでもどこでも仏国土、極楽となることを言うのであろう。しかし賢治はそこまでまだ至っていなかったと思い知った。「修羅をあるいている」。だから今、それを妹に言って「こわがらなくてもいい。いつでも、死んだ後でも、どこでも極楽なのだから」と言えないのだ。いい加減なことをいえる妹ではなかった。自分は観念理解だから言えない。妹も知っている。自己も妹も読者もだまそうとしていない。確かに、賢治は、この詩では、宗教的に決着をみていない。

(注)

新しく生きる決意

 大正十二年、賢治は、二十七歳の一月、童話を東京社(婦人画報発行)に持ち込んで、出版しようとした。結局断られて実現しなかった。友人への手紙によれば、歴史(社会といえよう)や宗教の変換を推し進めようという意欲が出てきたのであった。一部を別ご紹介しているように、その童話には、現存の宗教に対する批判を含んでいた。
 しかし、断られたために、社会への失望と矛盾を感じた。六月になって、詩作を開始したが、トシ子の死を悲しむ中にも、宗教と社会への激しい批判を含んでいた。一方では、自己の宗教の確立が必要だった。自己のふがいなさと、社会の矛盾への苦悩と敵意に満ちた修羅の意識が強まった。その頃の詩を見よう。

『風林』


 とし子とし子
 野原へ来れば
 また風の中に立てば
 きっとおまへをおもひだす
 おまへはその巨きな木星のうへに居るのか (1)
 死んだ妹のことをしばしば思う。どこに行ったのか、まだ、わからない。自分と信仰を共にし、今も決着がつかないから、特に悲しみがつのる。

(注)

『白い鳥』

 二羽の白い鳥を見て、妹のことを思う。鳥を死んだ妹と思う。それはまちがいとも間違いでないとも言う。
 すべてが自己ならば、鳥も妹も自己である、と思う。賢治の宗教観、生死観が交錯する。しかし、観念理解だから、心の安心はない。

 しめった朝の日光を飛んでいる
 それはわたくしのいもうとだ
 死んだわたくしのいもうとだ
  兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
    (それは一応はまちがひだけれども
       まつたくまちがひとは言はれない) (1)
 悲しい。国柱会に専念したのに、自分は自分を救えなくなっていた。そんなとき、妹が死んだ。

 どうしてそれらの鳥は二羽
 そんなにかなしくきこえるか
 それはじぶんにすくふちからをうしなったとき
 わたくしのいもうとをもうしなった
 そのかなしみによるのだが (2)
 これまで関わった宗教のすべてに無力さを感じて、賢治は旅に出る。
(注)
 
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