禅と詩歌

 
宮沢賢治の詩

詩で見る国柱会批判

 宮沢賢治は、童話と詩で宗教を批判した。賢治は法華経の信者であった。特に日蓮主義の在家教団、国柱会とを結びつける説があるが、賢治の国柱会への帰依は初期のごく短期間であった。賢治の宗教批判および国柱会批判を「禅と文学」の項に触れたが、ここで、賢治の詩をさらに詳細に検討することによって、むしろ賢治は国柱会を軽蔑していたことを証明したい。
 『風ニモマケズ手帳』に賢治は国柱会幹部の高千尾師の奨めにより、法華経文学の創作を始めたと書いているために、国柱会とのむすびつきを強く考える研究者がいるようであるが、高千尾師の言葉はただ、契機となっただけで、すぐ失望と軽蔑に変わったのであり、賢治を国柱会の眼でみては、賢治の詩や童話や宗教を誤解するおそれがある。そこを注意したい。

浄土真宗、法華経教団への失望

 父は、浄土真宗の信者で、花巻仏教会のリーダーであった関係から、真宗僧侶、暁烏敏(あけがらすはや)や島地大等に歎異抄などの講和を聞く機会があった。
これに飽き足らず、十八歳の時、法華経の信仰にはいり、二十四歳の時、国柱会に入会し、花巻町内を唱題して歩くという熱狂さであった。父の反対を押し切って、二十五歳の一月、家出して国柱会を頼って上京し、内職しながら活動するほど熱狂的な時期もあった。しかし、妹トシの病気という連絡を受けて、八月には花巻に帰った。わずか七ケ月の国柱会での活動であった。

 上田哲氏は、『宮沢賢治』(河出書房新社)で、次のように述べられている。  賢治は国柱会への会費を生涯支払っていたこと、幹部と文通があったということは、表面的なつきあいであり、内面的には、国柱会は、最後に到達したところではなく、沈静化などという生やさしいものではなく、その幹部教祖を「腐った馬鈴薯とさげすむ」と呼ぶほどに失望していた。これら表面的な交際は、妹トシの遺骨が国柱会の霊廟に分骨されていたためであったろう。
 法華経信仰といっても、浅いものから深いものまで、さまざまである。密教の天台宗、禅の道元禅師、日蓮宗、さらに国柱会・創価学会など多くの在家教団でも法華経を信奉しているが、まるで違った宗教になっているであろう。賢治の法華経信仰も国柱会とは大きく違っていったことをみないと、賢治を誤解することになる。


(注)

国柱会はつめたい伝燈

 賢治の内面は国柱会から離れていったことを、その詩で検証しよう。賢治が最後に到達したのは、国柱会でなくて、それを捨てて、賢治独自の法華経信仰・実践であった。
 まず、『カーバイト倉庫』という詩である。これは、二十六歳の一月の作であり、国柱会を離れた直後である。

『カーバイト倉庫』

 まちなみのなつかしい灯と思って
 いそいでわたくしは雪と蛇紋岩との
 山峡をでてきましたのに
 これはカーバイト倉庫の軒
 すきとほつてつめたい電燈です  (1)
 これは、国柱会に期待し、そして失望したことを謳う詩である。街並のなつかしい灯火を目当てに山から出ていったところが、その灯火は無人の冷たいカーバイトの灯火であった、というのが表面の意味である。
 これには、裏に真意が秘められている。後に、国柱会の幹部を軽蔑する詩が出てくることによって、これも国柱会批判だと私は推定するのである。

 すなわち、「まちなみのなつかしい灯」と思って、「山峡をでてきましたのに」 とは、東京の国柱会を闇夜の灯火と思って、山間の田舎町の花巻を出て、上京したということである。「いそいで」、つまり、両親の反対を押し切り家出までして、上京したが、その国柱会は表面は明かりを見せているが、冷たいものだったという。国柱会に失望したことの譬喩であろう。東京と、国柱会への失望の歌、これがこの詩の真意である。
 「これはカーバイト倉庫の軒/すきとほつてつめたい電燈です。」とは、国柱会は田舎の農民には冷たいものだった、という暗喩である。つまり国柱会は賢治のような純真なものが求めるものではなかった。

(注)

『樺太鉄道』

 妹の死亡の翌年七月、賢治はカラフトへ旅行した。 この旅行に関連して多くの詩が作られたが、『樺太鉄道』 という詩の中に、「にせものの大乗居士どもをみんな灼け」という、過激な言葉がある。織田信長は比叡山の僧侶を焼き殺したが、賢治が焼き殺したいのは、にせものの在家仏教徒である。在家教団「国柱会」への敵意をみせていると思われる。

『宗教風の恋』

 次に『宗教風の恋』という詩を検討する。

 なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから
 燃えて暗いなやましいものをつかまへるか   
  信仰でしか得られないものを
 なぜ人間の中でしつかり捕へようとするか
  (中略)
 もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
 そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
 おれたちのやうな初心のものに居られる場処では決してない (1)
 
 賢治は多くの宗教の偽善に気がついた。既成仏教も、新興宗教も、真理、真如、本当の自己、仏を信仰するのでなく、教祖、開祖、教団幹部などの人間、たとえば田中智学師を信仰させている。信仰をそんな人間の中にとらえるのではだめだ、というのだ。そのような宗教は初心者、誠実に自己探求、神仏を求める者にとっては、わかりにくく、人間信仰の誤った方向へ導かれてしまう、というのだ。 「なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから」とは、すでにみな自分で清浄な本来の自分があるのに、なぜ、「燃えて暗いなやましいもの」を、そして、自分以外の特定の人間の中に、求めようとするのか。そのような「教祖」を恋したうような宗教風の恋をしてはならない。人間への恋、信仰、教祖への「恋」は、賢治のようなうぶな初心者の住むところではない。
 熱狂的な信仰は、その過程で常軌を逸脱して、家族や知人に迷惑をかけた行動を伴っていた場合、醒めて後は、人生を誤ったと後悔が大きく、その指導者を憎悪することがある。最近の悪徳宗教の元信者の場合にも見られるが、賢治の詩にも、それを見る。
 宗教教団は初心のものにいられるところではない。初心のものとは、いつか金や権力をめざす手先になってしまわないで、最後まで、初心の誠実な願いを持ち続ける賢治のような純粋の宗教を慕う人であろう。宗教は神や本当の自分を求める厳しいものなのに、語りあえる仲間、人間を求めてしまう。だから、宗教団体に長く属していながら本当の法華経精神や、仏教とは何か、人間とは何か、神とは何か、ということについて自己のはっきりとした信念を持っていないで「信者」だという人が多いであろう。宗教を道具にした人間仲間を求め合う恋に等しい団体などは、本当のものを求める人のいる場所ではない。
 こうしてこの詩も、国柱会からの離別をうたっている。金や政治や権力や教団内での名誉など関係のない純粋な宗教を求める人々とは異なる道を歩む宗教への批判であろう。

(注)

『心相』

 賢治の死の直前に書かれた文語詩の『心相』と『国柱会』という詩は、国柱会を軽蔑したことが明らかな詩である。
 『心相』という詩は、昔尊敬していた師を今は、「すえておぞましい」とか「腐った馬鈴薯」とあざわらう、という。

 こころの師とはならんとも、
 こころを師とはなさざれと、
 いましめ古りしさながらに、
 たよりなきこそこゝろなれ。

 はじめは潜む蒼穹に、
 あはれ鵞王の影共ぞと、
 面さへ映えて仰ぎしを、
 いまは酸えしておぞましき、
 澱粉堆とあざわらひ、
 いただきすべる雪雲を、
 腐(くだ)せし馬鈴薯とさげすみぬ。 (1)

 はじめは青空の鵞王と仰いでいたのに、今は腐って酸っぱい匂いを発散するでんぷんかすだという。腐った馬鈴薯だという。現代の人には、この譬喩はわかりにくいかもしれないが、私の幼い頃、私の家の近所に「でんぷん工場」があったのでよくわかる。でんぷんをとった残りかすが、おおきな囲いの中に山積みされていて、腐ってくるから悪臭を放つのである。今なら、臭いの公害だと騒ぐが、私の幼い頃までは、それで済んでいた。とにかく、いもからでんぷんをとった残りかすが腐ってひどい悪臭を放っていた。賢治は、ある人間をそのようなでんぷんかすのやまだというのである。同じような工場が賢治の近所にあったのだろう。
 賢治の周囲で、これほど、尊敬から軽蔑に変わった「偉人」は国柱会幹部しかいないであろう。国柱会は「それ本化の妙宗は、宗門のための宗門にあらずして、天下国家のための宗門なり、すなわち日本国家のまさに護持すべき宗旨にして−−」というごとく、国家と密接な関係を結ぼうとし、都市下層民や下層農民を切り捨てた国粋主義的なものだった、という。のめりこんだ信者は気がつきにくいが、賢治も最初は、熱狂的であったが、賢治の求める宗教とは異なることにやがて気がつき失望し、さらに後には軽蔑に変わった。
 この詩には国柱会への憎悪さえ感じられる。若い頃、家出して多くの友人知人まで裏切って飛び込んだが、行って幹部本人に接して見ると本などで書いているようなきれいごとではなかった。醒めて後には、若い人をそうまでさせてしまう宗教者が憎かったのではなかろうか。
 もし、宗教に眼がくらんで、常軌をはずれた人生を送った場合、後に醒めた時、その指導者を憎悪するほどに後悔するであろう。今でも、誠実な若者の人生を狂わす宗教が多い。人物崇拝、そして、純粋の宗教心を利用して金や労働を搾取する宗教もある。賢治は宗教を批判する童話を数多く書いている。それによく耳を傾けて、人々が宗教によって後悔をするようなことのないような時が来てほしいものである。
(注)

『国柱会』


   「外の面には春日うららに
    ありとあるひびきをなせるを
    灰いろのこの館には
    百の人けはいだになし

    台の上桜はなさき
    行楽の士女さゞめかん
    この館はひえびえとして
    泉石をうち繞りたり       (めぐり)

    大居士は眼をいたみ
    はや三月人の見るなく
    智応氏はのどをいたづき
    巾巻きて廊に按ぜり

    崖下にまた笛鳴りて
    東へととゞろき行くは
    北国の春の光を
    百里経て汽車の着きけん」(1)
 国柱会館に行った頃のことを回想したものである。後に冷めてから見ると、その幹部がもう病弱でやる気がないような様子を詩にしている。賢治は後に人々の助言をするようになるが、賢治の死ぬ前日でもたずねて来た人に面会したように、本当の宗教者ならば、真剣な人がたずねてくれば、会って熱心に教えるはずである。金や権力をめざす宗教者は、病気などになったら、金にならない活動には興味を示さない。そんな様子を批判的に詩にしている。賢治は本物の宗教者ならば、自分がそうであったように、人一人本当の人がいれば、十分と考えていたはずでこのように、人がいないこと、幹部が病弱であることを歌うのは、国柱会に批判的だからである。
(注)

名を求めず、報いを受けず、おごらず

 さも、賢治が最後まで国柱会を信奉していたかのように誤解するのは、『風ニモマケズ手帳』の言葉のせいである。
 『風ニモマケズ手帳』に賢治は国柱会幹部の高千尾師の奨めにより、法華経文学の創作を始めたと書いているが、これがあるからといっても、後に国柱会を批判したのは変わらない。高千尾師の奨めは、入信初期の頃、言われて、法華経文学を始める契機となっただけである。後に失望と軽蔑に変わったのであり、賢治の文学に国柱会の影響を強く見るのはおかしいと思う。賢治は、ここでいっているように、名誉を求めず、報いを受けず、おごらず、という態度であった。権力に近づく宗教者にはそれがない。
 
    「高千尾師の奨めにより
      法華文学の創作
        名をあらわさず、
        報をうけず、
        貢高の心を離れ、」(1)

(注)

誠の法華経をうたう

 有力な賢治研究者から賢治が国柱会の影響を大きく受けたという説が強くだされているので、反論する意味で国柱会批判の詩を検討してみた。
 それでは、賢治の法華経精神を表している詩をみてみましょう。いつか、ご紹介します。法華経精神も、世親、道元禅師、白隠禅師、良寛さまの法華経もあれば、日蓮上人、国柱会や、現代人の法華経解釈もあり、多様に深く浅く解釈されます。宗教的に深まった賢治晩年の詩は、特に宗教的に深くみなければ賢治の詩を理解したことにならないのではないかと思います。賢治の詩は、そういう意味では難解なのです。たとえば、縁起のみが仏教、無我説のみが仏教、目的のない坐禅が仏教などといえば、賢治の仏教とはほど遠くて、理解できないでしょう。
 
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