もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

川端康成と禅

 ノーベル賞を受賞した小説家、川端康成は、ストックホルムで『美しい日本の私』という題で受賞記念講演を行った。この講演内容は、道元禅師の本来の面目(本当の自己)を歌った和歌から始まって、一休、良寛、明恵など禅にかかわる人を紹介している。そして、自分の小説は、禅に通じるものと語っている。

『美しい日本の私』

 川端がノーベル賞を受賞した時スウェーデンで行った記念講演が『美しい日本の私』である。この中に自然と親しんだ仏教僧やその僧の和歌がたくさんでている。特に、道元、一休、良寛、明恵など禅にかかわるものが多い。最後に川端の文学は、禅に通じると言った。彼が自らそういうように、川端の文学の基底には禅が流れている。しかし、それが文学評論家からもよく理解されていないのである。

語った事項

 『美しい日本の私』という講演で語られた事項を列挙すると次のとおりである。

禅とは

 (A)★は禅に関連する人または事項である。(B>☆は、一見禅とは無関係のようであるが、禅に通じるものである。川端はノーベル賞記念講演で、日本は禅の国、私の文学は禅であると語ったようなものである。
 川端は受賞講演で、禅について説明している。

 「禅宗には偶像崇拝はありません。禅寺にも仏像はありますけれども、修行の場、坐禅して思索する堂には仏像、仏画はなく、経文の備えもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で坐っているのです。そして、無念無想の境に入るのです。「我」をなくして「無」になるのです。この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空(くう)、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです。」

 禅では、仏、開祖、教祖、指導者でさえ絶対崇拝の対象ではない。これらの桎梏からも解放されることがねらいである。経典、仏像、お守りなども崇拝の対象ではない。めざすは、ただ、本来の面目、真の自己のみである。そのためには、静かな時を持てる時には、坐禅する。活発に動きまわる時には、我をたてないで、目前のことに真剣にとりくんでゆく。やがて、我執の空しいことに気がつき、いよいよ我執を立てない生活をしていく。すると無の境地が現れる。せせこましい人間の我執がないところは、虚無ではなく、くめどもくめども尽きない、すべてのものが生じてくる泉のようなものである。

師にもたよらず自分で悟る

 「禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、禅の古典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。」

 正しい坐禅の方法、我見をたてない生活について師から指導を受けるが、禅は芸術やスポーツのように、頭で思想的に理解するだけのものではないので、師の指導を受けながらも、自分で行じて自分の身心で悟りを開くしかない。父親が芸術家であっても、その子も努力しなければ、父親の芸術が子に伝わらないのに似ている。いや、芸術もスポーツも伝わるというより、その個人個人が新しく獲得していくもの(真の自己はすでにあるが)だろう。禅も師から伝わるものではなく、弟子が自分で獲得していくものである。禅は信じるものでもなく、経典を勉強して理解するものではない。心身の生活が変化していくものである。新しい自己に生まれかわる(すでにあったものを自覚する)。このことを川端は次のように言う。

理屈の理解ではなく直観

 「そして、論理よりも直観です。他からの教えよりも、内に目ざめるさとりです。真理は、「不立文字」であり、「言外」にあります。」

 禅も、指導者が、口でもしゃべるが、結局、言葉で伝わるものではないものを体得していき、本当の自己を身体的に直観で自覚するものである。その意味で、言葉の外という。絵を習得するのも、言葉を理解するのではなく、手を動かして身体で覚えていくことに似ている。
 「倫理的」とは何か、と質問を受けて、いかに完璧に回答できても、その人が「倫理的」に生きているとは限らない。禅は、自我を脱落して、本当の自己にめざめ、その本質のままに生きることである。川端がいうように、理解したとて、理解しただけでは、それが実現しているわけではない。信心でもない。

道元で始まり道元で終わる

 受賞講演は、次の文章で始まる。

「  春は花夏ほととぎす秋は月
     冬雪さえて冷(すず)しかりけり
  道元禅師(一二〇〇年−五三年)の「本来の面目」と題するこの歌と、 −−−」

 さらに、講演がすすんだ中でまた、この歌をだして、良寛の歌をだす。

 「 形見とて何か残さん春は花
    山ほととぎす秋はもみぢ葉
 これも道元の歌と同じように、ありきたりの事柄とありふれた言葉を、ためらいもなく、と言うよりも、ことさらもとめて、つらねて重ねるうちに、日本の真髄を伝えたのであります。まして、良寛の歌は辞世です。」


 「本来の面目」とは、本来の自己である。普通、人は自我を自分と思っているが、それは誤解である。花、鳥、月、雪が本来の自分なのである。それが道元、明恵、一休、世阿弥、利休、芭蕉など、代々日本の芸術家たちが追求してきた「日本の真髄」である。道元禅師は、「尽十方界は是自己なり」(道元『正法眼蔵光明』)という。すべてが自己である。

私の作品は禅に通ず

 川端の、ノ−ベル賞受賞記念講演『美しい日本の私』は、次の文章で終わる。川端の作品は道元禅師と同じ、禅に通じたものなのである。

 「私の作品を虚無と言う評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の根本がちがうと思っています。道元の四季の歌も「本来の面目」と題されておりますが、四季の美を歌いながら、実は強く禅に通じたものでしょう。」

   
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