もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

川端康成

川端康成と禅

 ノーベル賞を受賞した小説家、川端康成は、ストックホルムで『美しい日本の私』という題で受賞記念講演を行った。この講演内容は、道元禅師の本来の面目(本当の自己)を歌った和歌から始まって、一休、良寛、明恵など禅にかかわる人を紹介している。そして、自分の小説は、禅に通じるものと語っている。

川端の小説は禅の探求

 川端の小説を注意深く検討してみると、たしかに禅に通じる作品が多い。『竹の声桃の花』という短編小説は、中国の二人の禅僧が悟りを得た故事が題名になっている。竹に石が当たった音を聞いて悟りを得た禅僧と、尾根を歩いていて山里の桃の花を見た時悟りを得た禅僧は有名な話である。『片腕』という小説では、腕が声を出すが、臨済禅で有名な白隠禅師が始めた禅の公案「片手の声を聞け」が下敷きになっていている。『水月』という短編は、鏡が小説の中核となっているが、禅で「こころ」を鏡にたとえることからヒントを得たものであり、月をうつす水は鏡のようであるから、水と月も禅でよく使われるたとえ話である。これらの小説は、内容も禅のこころと通じるものがある。
 『雪国』『古都』『みずうみ』『山の音』なども、禅で探求する自己と自我が深く潜行して描かれている。なぜ、川端の作品がそうなのか。自我が人を苦しめるもとであり、自我に執着した我見が真実をくらますことを教え、本当の自己を探求するものが禅であるが、川端もまた、小説で人間の自我や、本当の人間の姿を描こうとしたために、川端の小説は禅と似てくるともいえよう。しかし、偶然の一致ではなく、川端は、『美しい日本の私』で語ったように、禅の研究をして、意識的に小説にとりいれていったのである。

◆仏典は世界最大の文学

 禅は仏教の正門である。川端は、仏教のお経が世界最大の小説だといっている。

「私の近作では「抒情歌」を最も愛している。「死体紹介人」や「禽獣」は、出来るだけ、いやらしいものを書いてやれと、いささか意地悪まぎれの作品であって、それを尚美しいと批評されると、情なくなる。私は東方の古典、とりわけ仏典を世界最大の文学と信じている。私は経典を宗教的教訓としてでなく、文   学的幻想として尊んでいる。」(『文学的自叙伝』)

 川端は自分の作品は批評家から理解されることが少ないと言っている。禅が研究者にさえも理解されないところと通じる問題ではあるまいか。自分ではつまらないと思っている作品を称賛されるところに、批評家を信じられなくなる川端の嘆きがある。逆に自分で自信を持った作品が理解されないということも多いだろう。
 自己の文学が禅に通じるという川端であれば、仏教経典が世界最大の文学というのは必然である。なぜなら、仏典は、禅の心、すなわち、人間とは何か、自己とは何か、ということを、例え話や、幻想世界の話の中に、織り込んで書いたものだからである。すると、川端も、小説に、そのような禅の心を織り込んだはずである。その代表的な例として、「抒情歌」がある。他にも、禅の心を織り込んだ小説が多い。

◆自分、万物一如

 川端康成は若い時に、東洋の宗教観を紹介している。自然と一つである自己を自覚することが救いになる。そこに宗教がある。自己の中に世界があり、世界の中に自己がある。自己と天地万物は全ての境界を失って一元の世界となる。ここに新しい救いがあるという。
 理屈での理解ではなく、体験、体得、体現になると、救いがある。人間の苦悩は、人間が生きている限りつきまとうので、「救い」は常に新しい問題である。「私」の問題である。

「自分があるので天地万物が存在する。自分の主観の内に天地万物がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の力を強調することであり、主観の絶対性を信仰することである。ここに新しい喜びがある。また、天地万物の内に自分の主観がある。また、天地万物の内に自分の主観がある、と云ふ気持で物を見るのは、主観の拡大であり、主観を自由に流動させることである。そして、この考へ方を進展させると自他一如となり、万物一如となって、天地万物は全ての境界を失って一つの精神に融和した一元の世界となる。また、一方、万物の内に主観を流入することは、万物が聖霊を持ってゐると云うふ考へ、云ひ換へると多元的な万物霊魂説になる。ここに新しい救いがある。この二つは東洋の古い主観主義となり、客観主義となる。」(大正十四年、『文芸時代』新進作家の新傾向解説)

◆作家は人生観の提示を

 こうして川端は、文学は人生観、世界観を示すものでなければならないと考えた。宗教がそうである。もし、そのような文学が可能ならば、「我々の祖先が仏の御寺」から得たものを文学から得て、宗教に文学がとってかわることになる。宮沢賢治も同様のことを言った。
 しかし、多くの作家はそのような人生観を提示していないで、形だけ新しいものを見せているようである。

「「文学に於ける個人の偉大さは、人生観を表示し、世界を解釈する力の大小で知れる。」と云ふのは正しい。のに、今日の新進作家は、表現を多少新しくしたが、人生を新しくしない。奇怪なことと云はねばならぬ。」(大正十二年『遺産と魔』)

「古き世に於て宗教が人生及び民衆の上に占めた位置を、来るべき新しい世に於ては文芸が占めるであろう。 我々の祖先が仏の御寺の詣でて聖から聞いたやうに、我々の子孫は文芸の殿堂の詣でて生くべき道を知るであろう。」(大正十三年『文芸時代創刊の辞』)

◆自然と合一

 川端の小説の場合、主人公が、自然とやものと合一するという体験をするものが多い。仏道は、自我を放下して、自然と一つである自己を自覚することである(といっても、自我があって、二つが一つになるというのではない)。自我は虚構であり、自己と自然がひとつであるのが、真の自己である。これが仏道であるが、川端文学の方法は、これと似たものとなっている。
 川端は小説だけでそういう世界を作っているのではなくて、川端自身がそういう世界に住んでいたのである。たとえば、次のような言葉がある。

「私は自分がその竹林の気持ちになってしまっている。」(『伊豆湯ケ島』) 「私の直観が窓を開き、驚きながら私が自然のなかに沁みとおってたたずむことがある。」 (『伊豆湯ケ島』)
   
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