もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と文学

岡本かの子

岡本かの子の生涯

 岡本かの子は、小説家であったが、仏教研究家としても有名であった。その小説は、当時から現代まで、十分評価されていないと言われている。川端康成が絶賛したが、かの子の小説は、人間の真の姿としての仏教が秘められている。その流れをついで、もっと密やかに小説にしたのが川端康成であった。  岡本の個々の小説のどこが仏教なのか解明することは興味あることであるが、時間もないので、一つだけにして、かの子の仏教観をご紹介したい。



二子で育つ

 岡本かの子は、明治二十二年(一八八九)東京青山の大貫家別邸にて誕生した。父大貫寅吉、母愛子の長女として生まれた。大貫家は、神奈川県橘樹郡高津村二子に代々居住する大地主だった。かの子が、四歳になった時、腺病質のため二子に帰り、もと薩摩藩の祐筆の娘だったという未亡人に育てられた。その乳母から源氏物語、古今集の手ほどきを受け、同村円福寺にあった鈴木孝順の松柏村塾に通い、漢文を習った。
 尋常第二高津小学校を終え、東京小石川の跡見女学校に入学。十六歳頃、大貫野薔薇の雅号で、『女子文壇』『読売新聞文芸欄』等に投稿し始めた。この頃から兄大貫晶川の文学活動がはじまり、谷崎潤一郎ら文人が大貫家に出入り、晶川は特に、谷崎に兄事し、尊敬した。しかし、谷崎は、終生、かの子を評価しなかった。十七歳の時、与謝野晶子をたずね、7月号の『明星』から大貫可能子の筆名で歌がのりはじめた。

岡本一平に会う

 明治四十一年[十九歳]の夏、父と共に信州沓掛に避暑し、追分の油屋に滞在した。同宿の上野美術学校生中溝を通じて、東京で岡本一平と知りあった。二年後、一平と結婚し、京橋の岡本家に同居した。しかし家人に気に入られず、二人は岡本の実家を出て、二人だけの居を構えた。明治四十四年、太郎を出産した。後、彫刻などで著名になる太郎である。

魔の時代

 一平とかの子は、芸術家同士の個性の強い性格から夫婦間に激しい相剋をきたし、結婚生活の幻滅を味わった。大正元年、一平は、朝日新聞の社員となり、収入が増大するにつれて放蕩が始まり、夫婦の危機に陥った。この歳、敬愛する兄晶川が、死亡して衝撃を受けた。絶望するかの子を見て、一平は、かの子に歌集『かろきねたみ』を刊行させた。しかし、翌年、母が死亡し、一平の放蕩が再燃した。電灯も切られ家計はどんぞこであった。この頃、かの子の実家、大貫家は破産しており、父の援助も断られた。こんな中で、長女豊子を出産したが、精神的におかしくなっていた。
 後に、太郎は、この頃のかの子は「狂気」だったと語っている。かの子は、自殺を思ったが、幼い太郎を見て決行できず、神経衰弱に陥って、岡田病院(精神科)に入院した。

異常な家庭

 翌年かの子が、岡田病院を退院すると、一平は妻を狂気に追い込んだ非を悔い、家庭をかえりみるようになった。しかし、魔の時代は続いた。四月、豊子が死亡した。自分を裏切った一平を愛することができず、かの子は、早稲田の学生堀切重夫と恋に落ちた。大正四年、誰の子供かわからない次男健二郎を出産し、七月死亡させた。
 一平は、それほど重夫が好きなら、堀切重夫を同居させることを認めた。しかし、一平は表面では寛大さを見せたが、内面では苦しさのあまり、鎌倉の禅寺に行った。まもなく一平は家を出て、かっぽれ一座に入門したりして、家庭は崩壊していた。ほどなく、かの子は、かの子の妹キンと重夫との恋を直感し、激しく嫉妬し、堀切は岡本家を去った。堀切は、福島でまもなく二十四歳で死んだ。

仏教に救い

 一平とかの子は、宗教に救いを求めようとして麹町一番教会(プロテスタント)に植村正久牧師を訪ねた。しかし、罪や裁きを言うキリスト教に救われなかった。ついで、親鸞の『歎異抄』により生きる方向を暗示され、仏教を熱心に勉強し始めた。この頃、弟喜七が自殺して不幸は続く。その頃、慶応の大学生、恒松源吉、安夫兄弟が岡本家に下宿し、経済にうとい二人の芸術家に替わって岡本家の家事を管理するようになった。
 大正十年[三十二歳]には、鎌倉建長寺の原田祖岳に参禅した。総持寺の新井石禅の講話も聞いた。この頃、若い川端康成(当時東大生)、宮本百合子と知り合った。康成は、かの子の文学の理解者であった。

奇妙な夫婦関係

 仏教によって、家庭をたてなおそうとしたかの子は潔癖から、禁欲を提案し、一平は承諾した。しかし、後に、かの子は、欲情に悩み後悔したが、一平には打ち明けず、かの子は、ひそかに、新田亀三と関係を持った。一平は、かの子の死後、新田からそれを知らされた。大正十二年鎌倉の平野屋に長期滞在したが、となりに芥川龍之介がいた。九月一日、東京に戻る日、関東大震災起こった。一時、鳥取の恒松安夫の実家に避難した。東京に戻り、芝区白金今里町に転居。この頃慶応病院に入院したのをきっかけとして医師新田亀三を知り、恋に陥った。かの子の希望により、新田亀三を岡本家に同居させた。一平は、かの子が夫に禁断を約束していたので、一平は、新田とかの子は、プラトニックな恋だと思っていた。

仏教研究者として有名

 かの子は仏教研究家として知られるようになり、「禅と生活社」の山田霊林により、仏教と芸術を結びつけた禅小説ともいうべきものを発表したり、講演やラジオ放送に多忙であった。昭和三年、『阿難と呪術師の娘』や『寒山拾得』を書き、読売新聞の宗教欄に『散華抄』を連載した。
 昭和四年[四十歳]、『わが最終歌集』を刊行して、かの子は、小説を志した。しかし、十二月、一家をあげてヨーロッパへ行くことになった。恒松安夫、新田亀三も同行した。太郎は絵の勉強のためパリに残り、かの子らは、ロンドン、パリ、ベルリンなどに半年ずつ滞在した。昭和七年、太郎を残して帰国した。帰国後は小説に取り組むつもりであったが、世間はかの子の仏教を求めた。昭和八、九年は、仏教に関してラジオ放送、講演、執筆を依頼され、多忙であった。この頃、『観音経を語る』『仏教読本』を刊行した。

小説を書く

 かの子が小説を書いたのは晩年の三年間だった。昭和十年(一九三五)[四十六歳]『上田秋成の晩年』『荘子』を書いた。翌年、『鶴は病みき』(芥川龍之介をモデル)で文学界賞を得て、文壇に認められる。しかし、否定する者も多かった。昭和十二年に書いた『母子叙情』が好評であった。『過去世』『金魚撩乱』『老主の一時期』『川』もこの年である。昭和十三年『老妓抄』『河明かり』を発表、油壷の宿で脳充血に倒れ、翌昭和十四年(一九三九)二月十八日永眠し、多摩墓地に埋葬された。四十九歳。
 没後、『河明かり』『ある時代の青年作家』『雛妓』『生々流転』など膨大な作品が発表され、世間を驚かせた。一平は、かの子の死後、新田から秘密を打ち明けられた後、昭和十四年、疎開先の浜松で知り合った八重子と再婚し、四人の子供を設け、昭和二十三年、六十二歳で没した。


 
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