もう一つの仏教学・禅学

   
医学と禅

神谷美恵子

変革体験と宗教心の形成

親族にクリスチャンが多い

父は、内村鑑三のもとに集まった青年たちの「柏会」に属した。後に、クェーカーとなった。(J55)
母の実家は群馬県富岡の出。祖母(金沢なお)はクリスチャン。祖父、金沢知満太郎(生糸貿易商)は、母が 七歳の時、死亡。母の兄は医者になった。母の弟、常雄は無教会主義のクリスチャン。
母は、富岡市が派遣する給費生として、東京に遊学。クェーカーたちが創設した女学校へ行き、そこの寮で五 年間すごした。この学校の顧問であった新渡戸稲造のすすめで、前田多門と結婚。(J52−54)

「母は無教会主義伝道者を弟に持ちながら、この主義の排他性、非寛容性をきらい、クウェーカーのような寛容かつ不言実行を旨とする宗教のほうをはるかに高く評価していた。」(J99)

無教会主義の叔父

 父母が渡米し、母方の祖母の家に預けられた。そこには、独身の叔父、金沢常雄がいた。彼は、当時は役人だったが、間もなく辞職し、無教会主義のキリスト教の独立伝道者となった。
 美恵子は叔父に聖書を学んだが、彼の教えにはついていけなかった。

「彼は理想主義的できびしく、私は当時、叔父に叱られたおぼえしかない。ある時など、よほど私がわるさをしたとみえ、松の木の幹に荒なわでしばりつけられ、「あやまれ」と何度もどなられた。何をあやまらなければならないのか、それもわからず私はただ泣き叫びつづけた。」(J9)
「「この世は涙の谷である」と叔父は言った。女は、たとえ不幸になるとわかっている結婚でも、周囲からそなえられた結婚の機会があるならその生活に入り、よき妻、よき母となるべきであるが、それとて幸福になるためでなく、来世へ行くまで、生活を通して「神のみ栄(さかえ)をあらわすため」であるという。
(こうした特殊用語が信徒以外の者にとって、全く不可解なものであることをのちに私は知った。)
 男性はその職業を通してやはり同じ目的を果たし、来世に行って初めて至福が得られる、とくりかえしきかされた。」(J77)

ライ病の人々に出会って

 「        癩  者  に
      光うしないたる眼(まなこ)うつろに
      肢(あし)うしないたる体になわれて
      診察台の上にどさりとのせられた癩者よ
      私はあなたの前に首(こうべ)をたれる。

      あなたは黙っている
      かすかに微笑(ほほえ)んでさえいる
      ああ  しかし  その沈黙は  微笑は
      長い戦の後にかちとられたものだ。

      運命とすれすれに生きているあなたよ
      のがれようとて放さなぬその鉄の手に
      朝も昼もつかまえられて
      十年、二十年と生きて来たあなたよ

      なぜ私たちでなくてあなたが?
      あなたは代って下さったのだ
      代って人としてあらゆるものを奪われ
      地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。

      ゆるして下さい、癩の人よ
      浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
      そこはかとなく  神だの霊だのと
      きこえよき言葉あやつる私たちを。
  
      心に叫んで首をたれれば
      あなたはただ黙っている
      そしていたましくも歪められた面に
      かすかな微笑みさえ浮かべている。      」     (J188)

禁欲的キリスト者、藤井武に心酔

内村鑑三の弟子。恋愛否定、再婚否定。

「私はまだ恋愛も結婚もしていないながら、藤井先生の影響で、私のような者(つまり、他律的に悲しみの刻印を負わされてしまった者)は一切結婚しないに限る、という結論を導きだしてしまったらしい。」(J77)

三谷隆正を信頼

 この頃、三谷隆正を信頼(J79、83、93)
 結核の療養をしていた時、三谷から葉書をもらったのがきっかけ。晩年の三、四年間、年に二、三回、三鷹 の自宅にうかがい、一対一で話を聞いた。(J79)

「形式よりも生命が大切なこと、現世に生きていることの重要性、日々の卑近ないとなみの中に永遠的なものを生かして行く責任のあることーー以上のようなことが、先生の生きいきとしたお姿を通して、知らぬ間にこちらの心の深いところにしみこんでくるのであった。」(J81)

変 革 体 験

 美恵子には、光を見て絶望から希望へと精神的変革をとげた「変革体験」があった。
 衝撃的体験で人生観が変わったので、「2回生まれ」という。
 21歳の時、結核になり、軽井沢の別荘に一人こもって、お手伝いの夫婦に食事を作ってもらって、療養していた時であった。詳しくは、前に述べた(B245)。このほか、『遍歴』(J)には、次の言及がある。

「一階に住む夫婦とは、食堂と台所の間の小さな窓越しにあいさつを交わすだけであったから、ほとんど独りきりの生活と言えた。そこに淋しさがなかったわけではない。時には人恋しさから、窓辺にくるカラスの声が人の声のように思えて、カラスと話をしたことさえある。しかし、過去の苦しさの中で一種の「変革体験」とおぼしきものを経て以来、人は人間を超えたものに支えられているという意識があったし、だれに病をうつすというおそれもなく、自由に本を読んで暮らせることは最高の恩恵と感じられた。」(J87)

「私の「一冊の本」ともいうべきものにぶつかったのは、もっと時代を下ってローマ時代にあらわれた皇帝マルクス・アウレリウス(紀元一世紀)がギリシャ語で記した『自省録』をとりあげたときであった。
 この中で皇帝は自己に語りかけているのだが、ふしぎなことに、それがそのまま私に語りかけられているような思いがした。かつて悩みのどん底にいるときに経験した一種の「変革体験」ともいうべきものの意味をここで初めて明らかにしてもらっているという感じである。」(J89)

「クェーカーでは好んで「内なる光」ということを重視する。つまり、すべての人間の心の中に神的なものがある、という考えである。この光ということは、私がかつて絶望のどん底から救われたあのふしぎな光と同類のものとしか思われなかった。その光の性質や内容が人によって異なるのも当然と思った。」(J111)
「「じゃ、どんな風にあなたはこの神秘体験ということを考えられるんですか。」キャロライン・グレイヴスンはここで口をはさんだ。
「そうですね。単なる現象だと思うんです」と言いながら、自分もかつて、とつぜんの「光」体験によって心の泥沼から救いだされたことを思い浮かべていた。しかし今の自分は、つとめてすべてを客観視したかったのだ。」(J123)
ペンドル・ヒルで神秘体験が話題になった時、講師に質問されて答えた。

 教義によらず、理解によらず、人からの教えによらず、「光の体験」によって精神の変革体験をとげた美恵子であるから、教条主義の宗教を深いものとは思わない。そのような美恵子であるから、『生きがいについて』で、自覚体験が基礎となっている禅に親近感を示す。
 最後にご紹介する「わたしは器(うつわ)」でも、禅と全く通じるものがある。
 美恵子の生涯を動かしたのが、この変革体験で見た[光]=[愛]といってよいであろう。
 禅僧や農民や一般人が悟りを語っても、一部の禅学者は信じようとしないので、科学者である神谷美恵子が変革体験を語ってくれたのは貴重であると思う。  美恵子の体験は禅の「見性」と同じである可能性があるが、神谷は「自己を忘れる」というところを強調せずに(あるいは、そこは、見落としかもしれない)、無我の境からもとへかえるときの衝撃の瞬間を語っていると思われる。禅者は、光の瞬間ではなく、無我を重視する。無我の本質を自覚し、その本質に生きることを重視する。
 それだけの違いであるように思われる。禅に似ているのは、彼女も、この体験にとらわれず、作られた宗教を絶対視せず、「無我」に生きようとした人である点である。