もう一つの仏教学・禅学
医学と禅
神谷美恵子
=ハンセン病に尽くした精神科医 =
神谷美恵子の生涯
- 1914年1月12日、前田多門の房子の第二子(長女)として岡山市で誕生。父は当時岡山県視学官。
翌年、内務省勤務となり、東京に転居。
- 1918年、4歳、父母とも渡米。美恵子は母方の祖母の家に預けられる。
- 1923年、9歳、父、国際労働機関(ILO)の日本政府代表として、ジュネーブに赴任。家族も同行。
美恵子はジャン・ジャック・ルソー教育研究所付属小学校に編入。
両親の恩師、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が国際連盟事務次長であったため、家族ぐるみの交友があった。
- 1926年、12歳、12月、帰国。翌年、カトリック系のS学園にはいる。
「私はめったに甲の評価を与えられることはなかった。」(J12)
「当時の私は野生のうさぎのように臆病でありながら、しかも本当は土や薮の中ではねまわっていたいお転婆な女の子であったらしい。それがカトリックの聖なる掟にがんじがらめに縛りつけられていた状態におかれていたのだと思う。」(J12)
幼い子供に、宗教を押し付けることがその子に幸福なのかどうかよく考えてみるべき問題である。
- 叔父、金沢常雄が無教会主義のキリスト教伝道者であり、美恵子は、その集会で聖書を学び始める。
- 1928年、14歳、父、朝日新聞論説委員になる。
病気と変革体験
- らい患者にあう(1933年、19歳)
常雄につれられて、多摩全生園にゆき、らい患者に始めて接し、衝撃を受ける。(J74)
「しかもこんな人たちが、たからかに賛美の歌を歌い、信仰によるよろこびの感想を次々と語っている。これはどういうことか、と私はふるえながらじっと聞いていた。このショックは一生つづくほど深いものであったことはまだその時知らなかった。」(J75)
- 結核になる(1935年、21歳)
津田英学塾本科卒業、大学部に進学、予科生を教えることで授業料を免除してもらう。
肺結核発病し、軽井沢の山荘で一人で療養。療養中に英語科高等教員検定試験の勉強をして受験し、合格する。(J85)この療養中に、変革体験。
- 変 革 体 験(1935年、21歳)
「何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真っ暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上からさっといなずまのようなまぶしい光が横切りました。と同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした。「いったい何が、だれが、私にこんなことを言わせるのだろう」という疑問が、すぐそのあとから頭に浮かびました。それほどこの出来事は自分にも唐突で、わけのわからないことでした。ただたしかなのは、その時はじめて私は長かった悩みの泥沼の中から、しゃんと頭をあげる力と希望を得たのでした。それが次第に新しい生へと立ち直って行く出発点となったのでした。」(B245)
これは、大きな経験だった。「変革体験」として『遍歴』でもしばしば、触れられている。(後述)
- 結核再発(1936年、22歳)
結核が再発、再度療養生活にはいり、独学でギリシャ語を学び、新訳聖書、『自省録』を読む。
「またひとりで山へ。今度こそ治るみこみはないだろう、と主治医の口ぶりからも察しられたので、本当に自分の読みたい本を読もうと考えた。すべて世界の名著を原語で読むこと、と決めた。」(J87)
- 結核治癒(1937年、23歳)
「ところが気胸術がうまく行ったためか、私はまたもや治ってしまった。余生を何に使うか。ふたたびこの問題が出てくる。」(J93)
津田梅子奨学金を受け、渡米。父もニューヨーク日本文化会館会長に就任したので、一家をあげて渡米。
キリスト教にふれる
- ペンドル・ヒルで学ぶ(1939年、25歳)
母のすすめでフィラデルフィア郊外にあるクェーカー教徒の施設に2月から6月まで滞在。(J99)
彼らは、「牧師はいない」「説教はない」「沈黙礼拝のみ」「伝道しようとしない」(J102)
ここで、ユニークな講師にめぐりあった。
- キャロライン・グレイヴスン(宗教が人間には必要と説く) (J119)
- ブリントン寮長(神秘体験を重視。日本の禅が先行している、と説く。)(J120)
「クェーカーでは好んで「内なる光」ということを重視する。つまり、すべての人間の心の中に神的なものがある、という考えである。この光ということは、私がかつて絶望のどん底から救われたあのふしぎな光と同類のものとしか思われなかった。その光の性質や内容が人によって異なるのも当然と思った。」(J111)
「この「不言実行」主義が私の心に深い感銘を与えたほか、彼らの寛容と謙虚にも目をみはらされた。」 (J102)
「しかし、現在の私は何々イズムというものに属したくない心境でいる。イズムよりも人の心のそれぞれのありかたのほうが大切だと思っているからだ。」(J99)
医学への進学
医学へ進むことを父が許可する。9月から、コロンビア大学理学部、医学進学コースに入学。
- 帰国(1940年、26歳)
日本に帰国し、東京女子医学専門学校に編入。
翌1941年、太平洋戦争起こる。
「活動だけしている人間の心は空虚なものだろうと思う。これからしばらく外部から何の行動をも強いられぬ生活のゆるされるのをたまらなく有り難く感じている。」(日記、1942/8/5、K30)
「明日からの禅修業にそなえて『国民の日本史』で鎌倉時代の仏教のことをよむ。政治的な権力と一切結ぼうとしなかった道元の風格に強くひかれる。」(日記、1943/3/31、K38)
- 岡山愛生園で実習(1943年、29歳)
夏季休暇中に、長島愛生園で十二日間、実習。(J157)
- 1944年、30歳
知人に精神分裂病の人がいて、精神科に関心を持つ。秋、女医専卒業、東大病院精神科医局にはいる。
「理想に向かって励んで行く勇気を致命的に挫くものは外側のものではない。内側の確信の崩れて行くのが一ばん恐ろしい。自らおかした失敗にもめげず、その失敗の結果を雄々しく負いながら、更に高いものをめざして立上って行こうとする人を誰がさげすむことが出来ようぞ。」(日記、1944/3/20、K53)
「年少の友X子さんが分裂病(または非定型性精神病)であることを知らないでつき合っていて、不可解な思いをしばしばしていた。偶然の機会から彼女の主治医島崎敏樹先生に出会ったこと、それが全く新たな好奇心をそそる対象として精神医学にひかれて行くもととなったこと」(J205)
「ラテン・ギリシャ・フランス・イギリス・ドイツの文学の本ばかりよくもこんなに読んで暮らしたものだ。
何故あの頃ちっとも書かなかったのだろう。もちろん書けなかったからだ。あのせまい偏屈な宗教のために口も手もしばられていたからだ。漸くこれらの文学の世界にさまよう事によって自分の異教徒的な原始的な魂のはけ口を見出していたのだ。」(日記、1944/9/24、K59)
- 1945年、31歳
終戦、父が文部大臣となる。美恵子、父を手伝って文部省に勤務。
結婚そしてガン発病
- 1946年、32歳
神谷宣郎(東大植物学者)と結婚。1947年、長男律誕生。49年、次男徹誕生。
35歳の時から、津田塾で英語を教える。
宣郎、大阪大学教授として赴任。
- 1951年、37歳
芦屋に住む。神戸女学院大学英語講師。
- 1952年、38歳
カナディアン・アカデミーでフランス語を教える。(J275)
自宅でフランス語を教える。(徹が結核となり、療養費をかせぐ必要があった。上級のみ残してやめる。)
「自由を得る道は、決して現在の束縛から逃げ出すことではない。そこにふみとどまり、あらんかぎりの智慧と力をしぼって努力し、束縛を束縛でなくしてしまうことだ。束縛を手なずけて、踏み台としてしまう事だ。」(日記、1954/8/27、K108)
- 1955年、41歳
子宮癌が発見されたが、ラジウム照射で進行をくいとめる。夫のすすめもあって、らいのために働くことを決心。《次は、11月10日の日記である。ガンの発見の頃のことである。》
「この頃毎晩八時間以上もねているのに何となく疲れがぬけない。顔はやつれつやがない。おもいなしかやっぱりガンの[消耗]の初めかな、と思う。きょうも一日その思いとともにすごした。それならそれで方針を、心の方針をたてるつもりだ。(ただ一日も早く知りたい。)残る生命をいとおしみ、大切に生きること。夫と子供とそして自分に対して、なし得る事をなしとげて死ぬこと。やっぱり宗教が信仰がよりどころであろう。しかしそれは自分の心の底の真実なるものでありたい。他人や他人の集団にコンフォーム[したがおう]とするものであってはならない。」(K117)
「私の生命があと少ししかないかも知れない、という事態になったとき、主人のほうから「レプラをやったら」と言い出してくれて、どんなにかとび立つ思いがしたことだろう。」(J279)
長島愛生園に
- 1956年、42歳
9月、精神病の調査のため、長島愛生園に行く。
- 1957年、43歳
長島愛生園の精神科の非常勤職員として、「らい」の精神医学的調査を行いつつ、定期診療に従事。
薬の開発で「らい」は不治の病ではなくなっていたが、患者は、療養所で生きていくことの意味感、
どんな存在価値を持って生きていくかということが重要な問題となっていた。
- 1960年、46歳
『癩の精神医学的研究』により大阪大学医学博士。神戸女学院大学社会学部教授、精神医学、仏語担当。
「人間というものを少しでもよくわからせてくれる本というものほど有難い貴いものはないように私には思われる。たとえば聖書というものがどんな貴い真理をあかすものであるにせよ、それはやはり精神の一形態を示すだけではないか。そこにはやはり自己陶酔があるではないか。もちろん陶酔は生きて行く上に不可欠な要素だけれど、自分の属する形態以外の形態をも理解し、多くの形態の中の一つでしかない自分の位置をも客観的に認識することこそほんとうの智慧ではないだろうか。精神医学はそれを可能にするはずだ。」(日記、1960/5/10、K140)
「午後YMCAで話。更年期主婦のオントロジカル[存在論的]な虚無感の訴えが一ばん心に残った。「何をみてもおもしろくない」「何もかもしんきくさい」「何のために生きているのか分からない」「女として終りだ」女の生き方、というものについて、同類として私は考えなくてはならない責任がある。女子大生を教える上からも。更年期にはじめて人間として生きはじめるわけだ。その時「実存」を確立できなかったら、余生はただ「生ける屍(しかばね)」になるほかないだろう。」(日記、1960/5/28、K140)
- 1962年、48歳
阪大助産婦学校で精神医学を教える。
- 1963年、49歳
神戸女学院大学は非常勤(64年辞職)となり、津田塾大学の教授に就任、精神医学、上級仏語担当。
「体力のおとろえつつあるとき、人間はよほど注意ぶかく仕事を選択する必要がある。名誉心にとらわれてはならぬ。ましてや物質的欲望にとらわれてはならぬ。この世を去るにあたって、何を優先的になすべきか。これを問題にすべし。」(日記、1963/11/1、K159)
- 1965年、51歳
定期診療を続けていた長島愛生園の精神科医長となる。津田塾大学は非常勤(68年に教授再任)。
『精神医学の歴史』執筆。翌年『生きがいについて』出版。
狭心症
- 1971年、57歳
『人間をみつめて』出版。12月、狭心症の発作。
- 1972年、58歳
愛生園辞任。『大川周明の鑑定』出版。
「夕べになりて明るくなるべしとのいにしえの人のことばは、生の終りになって、その真なることを示される。沢山の病める人の、ただひとりをもいやせぬ無力さも、神にゆだねまつりて残る日々をひたすら生きぬかんのみ。医師になってみても何一つ人間のことはわかっていないのを知る。これを知るための勉強であったらしい。」(日記、1972/10/18、K190)
- 1973年、59歳
狭心症で入院。『極限の人』出版。
- 1974年、60歳
一過性脳虚血性発作(TIA)で入院。『こころの旅』出版。
- 1975年、61歳
TIAで3回入退院を繰り返す。
- 1976年、62歳
津田塾大学教授辞任。TIA、狭心症で入院。
ヴァジニア・ウルフ『ある作家の日記』の翻訳出版。
- 1977年、63歳
宣郎、大阪大学を退官し、岡崎の基礎生物学研究所教授に就任。
TIAで3回入院。『神谷美恵子エッセー集』I、IIを出版。
- 1978年、64歳
TIAで入院。『精神医学と人間』を出版。
- 1979年、65歳
TIAで3回入院。『遍歴』を執筆、刊行は没後。
10月TIAで3度目の入院時、一時帰宅中に心不全発作をおこし、急逝。