もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー現代の仏教を考える会

   
女性と仏教

貞心尼

良寛があまりに有名なために、貞心尼の禅境については、全く知られていない。良寛に禅の指導を受けて悟りを得た貞心尼のことをご紹介します。


良寛の生涯
貞心尼のこと
良寛に参禅
貞心尼悟る
愚説をいう文化人
良寛の最後
貞心尼の歌

良寛の生涯

 良寛は、宝暦八年(一七五八)、越後の港町、出雲崎の名主、橘屋の長男に生まれたが、十八歳の時、出家し曹洞宗の僧侶となった。二十二歳の時、岡山県玉島の円通寺へゆき、国仙和尚に坐禅の指導を受けて、約十年の修行の結果、悟りを得た。
 悟りを得た時、国仙が、道元禅師の『正法眼蔵』を見せてくれたが、道元禅師は、仏道は己自身のためではなく、人々を救うためにせよ、と書いていた。良寛は、自分の救いのためだけに修行してきた。この誤りに気がついて、これを機会に、師のもとを出て諸国を行脚(あんぎゃ)した。
 良寛は、諸国の僧侶をたずねて、自己の得た仏道がどこまで通用するか、また仏道の弘通を志す僧侶がほかにいないか、たずね歩いた。
 仏法の弘通を志して各地の僧侶をたずねたが、しかし、良寛と志しを同じくするような僧侶はいなかった。寺は江戸幕府の役場同然になって、僧侶は檀家の者がキリシタンでないことを証明する官吏となっていた。坐禅するものも、悟りを得る者もいなかった。仏道はまさに滅亡しようとしていた。
 ある詩の中で、良寛は、こういう。

 仏祖の法燈ようやくまさに滅せんとす
 誰ありてか焔をつぐ和尚の社
 犬質羊性何ぞ任に堪えん
 寤寐(ごび)之を思うて涙空しく下る  
   (寤寐:寝てもさめても)
 良寛は、僧侶を、犬や羊といっている。彼らに仏道をつぐ力はない。良寛の激した怒りと悲しみの涙を伝える。もう少し、同じ志を持つ僧侶がいればいいのだが、各地をまわってみたが、骨のある僧侶はいなかった。
良寛の書いた詩『唱導詞』の一節にこうある。

 大厦(だいか)のまさに崩倒せんとするや      
 一木の支える所に非ず        
 厦は、大きな家である。教団は、腐敗しまさに倒れようとする大きい家である。自分(良寛)のごとき小さな木一本ではささえられぬ。てまりつきつつ子供らと遊ぶ良寛の心の底には、この怒りがあった。
 教団に絶望して、もう行脚することもやめて、三十八歳の時、故郷へ帰り、あいていた五合庵に約二十年一人で暮らした。五十九歳の頃、ふもとの乙子神社の草庵に移った。六十九歳の時、島崎村の木村家の裏小屋に移って、文政十四年、七十四歳で死亡した。直腸ガンであったといわれる。

貞心尼のこと

 こうした良寛であるが、良寛の最晩年に貞心尼が参禅する。良寛は、近くの里を托鉢して回り、漢詩を書いた書を与えたりするうちに、良寛の徳を感じる人々があらわれ、阿部定珍、原田鵲齋(じゃくさい)ほか多くの支援者ができて、良寛のつつましい生活をささえた。彼らは五合庵をたずね、また良寛が彼らの家をおとずれて禅や歌について語りあった。何人かが、良寛の指導で坐禅をしたが、特に貞心尼がよく知られている。
 貞心尼は、もと長岡藩士奥村五兵衛の娘で、一七、八歳で、医者の関長温にとついだが、五年で夫と死別した。実家に帰って尼となり、福島(長岡市)の閻魔堂にいた。良寛にあった頃は、三十歳であった。
 貞心尼が、良寛をたずねて来たのは、良寛が七十歳の時であった。良寛は七十四歳で死亡するから、貞心尼がわずか二、三年で悟りに至るのも、奇跡に近い。道元禅師が如浄禅師にあったとき、「正師にめぐりあったのに、こんなにお年を召しておられるのか。」と師の死亡が先か、自分の開悟が先か、祈るような気持ちで修行に励んだことが思いおこされる。(詳しくは、拙著「道元禅師」)
良寛は多くの人によって、研究されているが、貞心尼のことは、歌の指導が強調されていて、貞心尼が悟りを得るまで禅の指導を受けたことは知られていない。彼女が、良寛の歌を集めて書いた『蓮の露』でさぐってみよう。

良寛に参禅

 良寛のうわさを聞いて指導を受けたくなった貞心尼は、自分で作ったてまりを持って、木村家をおとずれた。

 これぞこの仏の道に遊びつつ
    つくや尽きせぬ御法なるらむ   (貞心) 
 しかし、良寛は留守であった。貞心は、この歌を残した。良寛さまは、てまりが好きだと聞いておりますが、また、禅の高徳とお聞きしております。とすれば、てまりをつくのも良寛さまには、仏法なのでございましょうね。

 つきてみよ一二三四五六七八九十
   十とおさめてまた始まるを  (良寛)  
 この歌を見て、良寛はこんな返歌を作って持っていってもらった。そうだ。あなたも仏法のてまりをついてみなさい。息を、一つ、二つ、−−−十と数え、また一つから始めます。これは、坐禅の初心者が教えられる「息数観」(すうそくかん)である。こうして、息に心を集中して、みだりに迷いや概念に振り回されないよう定力を養う。良寛は、貞心尼を、禅へ誘った。こうして、貞心尼の参禅が始まった。
 貞心尼が来た日は、二人は夜おそくまで、仏道について語った。

   いとねもころなる道の物語りに、夜も更けぬれば

  しろたえの衣手寒し秋の夜の
    月中空に澄み渡るかも (良寛)    
 「いと」は、大変、「ねもころ」は、ねんごろ、熱心に。とても熱心に「道の物語り」をして、手のあたりが寒いので、外を見ると月が高く澄みわたっていた。「道」とは、仏道であることは間違いない。良寛の前に、ようやく、熱心な仏道の求道者があらわれたのである。

参禅問答

 良寛のいた福島と貞心尼のいた長岡はかなり離れていた。貞心尼がしばらく来ないと、良寛は次の歌を送ってうながす。仏道を忘れたのですか。道が隠れたのですか。良寛の研究者からは、男女の愛のことばかりで解釈するが、そうではない。禅の研究者からでさえ禅が理解されていないから、無理もない。

   ほど経て、御消息賜りける中に

 君や忘る道や隠るるこのごろは
    待てど暮らせど訪れのなき  (良寛) 

 山の端の月はさやかに照らせども
   まだ晴れやらぬ峰の薄雲    (貞心) 
 貞心尼はこんな歌も作った。良寛さまは、この私にもいつも照らしている仏性があるとおっしゃいますが、私の迷いはまだ晴れません。 それに対して、良寛は次の歌を返す。そうです。月(仏性)の光りは清く、すべての時代にすべての場所で、すべてのものを照らしています。だからあなたも仏性が根底に輝いています。やがて晴れてきますよ。

 ひさかたの月の光の清ければ 
   照らし抜きけり唐も大和も      
 昔も今もうそも誠も                (良寛)
 今はまだ、はればれとしないかもしれないが、後に必ず光が訪れますよ。そう信じられませんか。怠りなく励みなさい、と激励する良寛。

 晴れやらぬ峰の薄雲立ち去りて
   後の光と思わずや君      (良寛)  

貞心尼悟る

 こうして貞心尼は良寛をたずねて禅の指導を受けているうち、良寛はある日、使いの者から貞心尼の歌を受け取った。

 おのずから冬の日数の暮れゆけば
   待つともなきに春は来にけり  (貞心) 
   待つともなしに冬が去って自然に春が来ました。という一見平凡な春をむかえた喜びの歌のようである。良寛の研究者も気がついていない。しかし、良寛は、貞心尼の悟りの報告であると気がついた。わからないながらも、良寛さまのお導きのとおり、坐禅の日数を重ねていたら、悟りなどとてもと、悟りを待つ気はなかったのに、自然と悟り(春)が来ました。次の歌も届いた。

 我も人もうそも誠も隔てなく
   照らし抜きける月のさやけさ  (貞心)   
 覚めぬれば闇も光もなかりけり
   夢路を照らす有り明けの月   (貞心) 
 なにもかもへだてなく、月(仏性)は、照らしておりました。自覚(悟って)してみると、自分と他人のへだてもなく、闇も光もありませんでした。迷いの中でも、いつも、仏性の光明の中でした。これで、貞心尼が「無我」「自他一如」を悟ったことが歴然である。一人閻魔堂に住んでいた貞心は、坐禅に徹底したのであろう。かくも短期間に見性した。
 良寛は、貞心尼の見性の報告を受けとって、おめでとう、という意味の歌を送った。

 天が下に満つる玉より黄金より
   春の初めの君が訪れ      (良寛) 
 天下にどんな黄金が満ちているよりも、あなたに目覚めが訪れたことはすばらしい。ところが、良寛の多くの研究者は、「お便り」が嬉しいという解釈をしている。研究書は、みな、見性の喜び、とは解釈しておられないが、これは、悟りの報告と、ねぎらいの歌である。しかし、まだ真の「悟り」ではない。誰でも似たステップを踏む。もう一段の深まりが来る。
  
 手にさわるものことなけれ法(のり)の道
   それがさながらそれにありせば (良寛) 
 悟ったということがあってはいけません。それがそのままそれであるから。悟りを対象とみてはいけません。見るものが見られるものですから。悟ったという貞心に注意をしている良寛。見性したことも捨てさせようとする。

 春風に深山の雪は解けぬれど
   岩間によどむ谷川の水     (貞心) 
 案の定、悟った、と報告してきた貞心尼に迷いが生じた。この歌は、自然を歌ったのではない。心を歌っている。迷いが晴れたつもりでしたのに、まだ迷いが生じてきました。お導きください。
 この歌を見ると、さっきの貞心尼の報告は、ただの「見性」にすぎなかった。まだ、「大悟」真の悟りではなかった。まだ、先がある。
 
 深山辺のみ雪解けなば谷川に
   よどめる水はあらじとぞ思う  (良寛) 
 良寛は、貞心尼に一段先にすすむよう指導する。雪が解けた(悟った)のなら、よどんだ水などないはずと思う。そうでしょうか。見性した貞心を、さらに大悟に導こうとする良寛の慈悲心。上には上があることを体験的に知っている良寛でないとこうは指導できない。

 いずこより春は来しぞと尋ぬれど
   答えぬ花にうぐいすの鳴く   (貞心)
 次にこんな歌を貞心尼は作った。どこから春は来たのか、と尋ねても、答えてくれない梅の花に、うぐいすが来て鳴いております。これで、貞心尼は、見性したことも捨てて、本当に悟った。
 貞心尼は次の歌を作った。もう大丈夫です、という。

 君なくば千度(ちたび)百度(ももたび)数うとも
   十ずつ十を百と知らじを  (貞心) 
 良寛さま、あなたがいらっしゃらなかったら、どんなに長く坐禅しても、ごく当たり前の自分(本当の自分、ありのまままの自分)がわからなかったことでしょう。ここまでお導き下さった良寛さまに、感謝いたします。

 いざさらば我もやみなむ九の余り(ここのまり)
   十ずつ十を百と知りなば    (良寛) 
それでは私もおしまいにしましょう。十を十回で百とお分かりになったのなら。良寛は、もう私が指導することはない、と指導の終了を宣言した。貞心が大悟したと印可した。
 『蓮の露』を見ると、歌が並べてあるので、歌のやりとりで短期間に悟りを得たように勘違いしてしまうが、これは、数カ月あるいは、二、三年間の経過があると思われる。その間、貞心は良寛に坐禅のしかたを教わり、説法、独参を受け、自庵でも坐禅をしていたはずである。

    いざさらば、立ち帰らん、と言うに、
 霊山の釈迦の御前に契りてし
   事な忘れそ世はへだつとも      (良寛) 

    御返し
 霊山の釈迦の御前に契りてし
   事な忘れじ世はへだつとも      (貞心) 
 こうして生死を離れた仏性、久遠実成の釈迦牟尼仏を見た二人は、いつまでもこの仏道を伝え広めていくことを忘れてはいけません、誓いあった。自分だけの救いとせず、人の救いのために仏道を伝えていこう。

愚説をいう文化人

 二人のこの贈答歌を肉体関係と解釈する愚説がある。深い宗教的誓いを、俗的なエロチシズムでしか解釈しない。その人の程度が知れる。たとえば、次がそうである。
「この契りは、官能的なものである。そこで二人の心と肉体、生命と死が一致した。それこそ、無垢の愛の現実なのではないだろうか。」
   (『良寛入門』祥伝社、P233)
「まさに死を前にした晩年に、最も人生の難問である愛について、また男と女の肉欲について、まさに天真に任せて楽しむことができた。」(P237)
 現代の文化人は、良寛を自分と同等の人間と見て、自分の尺度ではかり、かくのごとく良寛をおとしめるのである。こうして、禅を知らない者によって、禅が軽蔑される。それが有名人によって行なわれるので、禅の軽蔑、軽視の影響が大きい。禅が学者によって、誤解され、そういうものを、文化人が読んで、浅い禅解釈がひろがって行く。日本の精神は、この程度に仏教や禅を理解する文化人によって導かれてきた。
 こんな理解のない文化人をしかる人もいる。もっと、禅や仏教の真意が理解されることを望む。
「分析する人や批判する人というものは、自分が正常人であるという錯覚に陥り易い。そして、相手が自分より桁違いに高いレベルの人物でも、まるで人物の方が高いかのように錯覚し、見下すように裁断する。ましてや、情報化時代と言われる現代では、我々は安易なあるいは誤った情報やデータに踊らされて、本当の探求からますます遠ざかっていないだろうか。」
   (長谷川洋三『良寛禅師の真実相』P16)

良寛の最後

 その後も、二人の交流は続くが、島崎と福島の間には、塩入峠があって、冬は貞心尼は良寛をたずねることができなかった。良寛が病気だというしらせがあったが行けないので歌を託した。

 そのままになお耐え忍べ今更に
   しばしの夢をいとうなよ君   (貞心) 
 すると、良寛から、次の歌が届いた。春になったら、すぐ来て下さい。会いたいものだ。
 
 あずさゆみ春になりなば草の庵を
   とく出て来ませ会いたきものを (良寛) 
 しかし、春を待つことなく、良寛は薬も食事もとらなくなった、というしらせがあった。自ら死ぬおつもりか、と責める。

    やまひのいとおもうなりたまひて、薬もいひ(飯)も
    たちたまひけると聞き読める

 甲斐なしと薬も飲まず飯たちて
   みずから雪の消ゆるをや待つ  (貞心)              
  
    かへし
 うちつけにいひたつとにはあらねども
   かつやすらひて時をし待たむ  (良寛)
 それに対して良寛のこんな歌が届いた。仏から預かったこの身、わざと薬や食事をとらないで粗末にすることはありません。そのほうが苦しくないからです。そうして様子をみております。
 だが、雪どけを待たず、良寛危篤のしらせが届いた。貞心尼は驚いて雪の塩入峠を越えて良寛のもとにかけつけた。
かくて、師走の末つ方、にわかに重らせたまう由、人のもとより知らせたりければ、うち驚きて、急ぎ詣で見奉るに、さのみ悩ましき御気色にもあらず、床の上に座しいたまえるが、おのが参りをうれしとや思ほしけん。
  いついつと待ちにし人は来たりけり
   今は相見てなにか思わむ  (良寛) (A288)

 武蔵野の草葉の露の長らえて
   長らえ果つる身にしあらねば  (良寛) 
 良寛が重態であると、連絡があって、貞心はかけつけた。その時、良寛の歌。喜びがあふれている。
 後者の歌の意味は、武蔵野の草の露が、いつまでもとどまることができないように、わたしも、ずっとこの世にとどまることができません。死を覚悟している。
かかれば、昼夜御かたわらに在りて、御有様見奉りぬるに、ただ日に添えて弱りに弱りゆきたまいぬれば、いかにせん。とてもかくても遠からず隠れさせたまうらめ、と思うに、いと悲しくて、
 生き死にの境離れて住む身にも
   避らぬ別れのあるぞ悲しき  (良寛) 
 貞心は良寛のもとで看護したが、まもなくお別れと思うと悲しくて、歌を作った。
 生死にとらわれる迷いの世界を離れたはずの御身にも、避けられないお別れがありますのが、悲しいことでございます。「生き死にの境離れて住む」同じ境地に住んだ貞心だからこそ言えた言葉である。
 良寛に見せるつもりではなかったろうが、みつかって、良寛から次の言葉がきかれた。

   御返し。
 裏を見せ表を見せて散る紅葉        
    こは、御自らのにはあらねど、時に取り合いのたもう。いと尊し。
 これは、良寛の自身の歌ではないが、最後の言葉であった。良寛は、型にはまった辞世など作りはしなかった。これは、借り物であった。
 天保2年1月6日、外では雪が激しくふる日に、良寛は旅立った。

貞心尼の歌

 そのほかに、貞心尼の歌を語紹介する。

  来るに似て帰るに似たり沖つ波   (貞心)   

     かく申したりければ、とりあえず、

  明らかなりけり君が言の葉       (良寛)
 前の句は、貞心の句。それに対して良寛が後の句をつけたという。

 来るに似て帰るに似たり沖つ波
   立ち居は風の吹くに任せて   (貞心)   (P175)
 貞心は、明治五年に、七十五歳で生涯を閉じた。これは辞世の句である。   前の句は、良寛と作った和歌と同じ。   次も貞心の歌。

 あとは人先は仏にまかせおく おのが心のうちは極楽  (七十五歳)
 貞心尼の歌は観念の歌ではなかった。自己をあきらめ、今に徹した悟道の禅者、貞心尼の「今に生きる」透徹した悟りの歌であった。

 女性で、これほどの禅者が生まれている。現代の女性の方も卑下せずに、禅をおこなっていく励みになるであろう。それにしても、現代の宗教者が、良寛さまのように、厳しくもやさしく、深い宗教に女性を目覚めさせているだろうか。女性には期待しないという実質的に女性を差別している限り、21世紀に世界を導く宗教になりえない。新興宗教は女性の求める心をつかんで、力を大きく活用している。女性が半数である。禅や仏教の学者も宗門も、女性に禅を実践してもらえるようにみちびかないと、将来のよりよき日本はないであろう。
   
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