もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー現代の仏教を考える会

   
女性と仏教

−平塚らいてふ

らいてふの参禅

 らいてふは学生時代と卒業後しばらくの間、熱心に坐禅をしている。指導を受けたのは、臨済宗の釈宗活、中原南天棒である。熱心に坐禅したので、わづか一年半で見性(けんしょう)している。その参禅の様子を彼女が書いた自伝からご紹介する。

哲学との出会い

 十七歳の時、日本女子大学に入学したが、校長の成瀬仁蔵に哲学を教育された。哲学や宗教に関心を持ったのは、この先生の影響であった。学友の表面だけを飾る風潮に反発を覚え、友人が少なく、孤独を感じた。
 「当時の女子大は学校の講義時間よりも、また、自学自習主義にかかわらず、自主的な研究時間などはなく、学生の同じような会合につぶす時間が実に多かったのでした。クラス会、縦の会、横の会、寮の会、家族会というぐあいに、いろいろな会合を開いて、上級生がリーダーになり、「実践倫理についてどう感じたか?」というようなことがテーマになって、みんなに感想を述べさせるのでした。感想のない人に対しても、こしらえた感想をいわせるというやり方ですから、真実の告白にふれることは少なく、同じような見えすいた附け焼刃をいう人が信用され、自己に忠実な者が認められないという結果になっていました。」 (日本図書センター発行、自伝『平塚らいてふ』42頁)

哲学書、宗教書を読みあさる

 孤独感から、図書館で、哲学書、宗教書を読みあさった。聖書を読み、本郷教会に出入りしたが、「海老名弾正牧師の雄弁に感心しただけで、私の魂が求めていたものは、ついに満たされませんでした。」(45頁)
 何回か通ううち、ある婦人から洗礼を強くすすめられるようになって、いやになって、教会に行くことをやめた。
「こうした休みのない暗中模索の精神生活の不安が反映して、だんだんからだの調子が悪く、鼻がわるい、咽喉(のど)がいけない、頭も痛むという具合で、なんども病院にはいっては、いやな鼻の手術をしました。校医は神経衰弱、それにバセドウ氏病の疑いもあるなどといいます。」(46頁)
 このころ、綱島梁川の「予が見神の実験」を読んで、感動した。
「この文章が、私の真理探究の態度に、一転化をもたらす一つの大きな暗示となったのです。・・・『予はわが深き至情の宮居にわが神在しぬと感じて幾たびかその光明に心おどりけむ。吾が見たる神は、最早さきの因襲的偶像又は抽象的理想にはあらざりしなり』という一節に至って、急に眼の前が明るくなってきたような気がしました。」(46頁)
 ちょうど、そのとき、偶然僚友木村政子の机の上にあった、今北洪川師の『禅海一瀾』を、読んで坐禅をしようと決心した。
「禅門に静座工夫という一種の内観法があること、この方法による修行者がついに到達し得られる悟り、見性ということは、 見神と同一体験に相違ないと思ったとき、大きな希望が湧き上り胸が躍りました。」(47頁)

両忘庵の釈宗活に参禅

 日暮里の田んぼの中の一軒家、両忘庵に行き、宗活老師に相見し、坐禅の指導を受けることになった。
「老師から『父母未生以前の自己本来の面目』という公案をただきました。『さあ、あちらへ行って坐り方をよく教わってしっかりやりなさい』 老師の言葉はたったこれだけのものでした。また教えられた通りのお辞儀を繰り返して、お部屋を出ました。」(48頁)

「両忘庵の参禅は、朝五時から六時位までで、冬の朝は提灯をつけて家を出て、牛乳配達か新聞配達しか通らない暗い淋しい道を歩かねばなりませんでした。それから学校にゆくのですが−病気以来寮を出て通学していましたから−いつも六尺先きの地上に、軽く半開の眼を落し、臍下丹田に力をこめて、一心に公案を念じながら、それこそ不動の姿勢で歩いていました。教室にいても講義は聴いているものの、やはりお腹の底ではたえず公案をみつめているのです。しまいには学校の途中の目白のお不動様の本堂に上って、不動明王の前で一日坐り通してしまうこともありました。本堂が何かで賑わうような時は、反対側にある愛染明王の小さな暗いお堂の方へ行って坐りました」(49頁)
 らいてふは、卒業後、津田英語塾で英語を勉強したが、津田を一年でやめ、成美女学校へ転校した。こういう中でも、両忘庵への参禅を続けた。ここでいうように、坐禅の時ばかりでなく、いつも、くふう(妄想をせず、エゴイズムの発現をしないなどの生活上の注意が含まれる)しているから、悟るのである。

体調が回復

 坐禅をするようになって、まず、体調が回復した。
「参禅を重ねても「本来の面目」は容易に通りそうもないのですけれど、私自信のうえには坐禅をつづけている間にいろいろの変化が知らぬまに起っていました。まずからだの調子が変ってきたのに気付きました。頭痛を忘れ、長く悩んだ鼻の通りもよく、声も出し易くなりました。からだが不思議に軽くなり、日に何里と歩くのに少しも疲れを感じません。夢というものをほとんど見なくなったこと、睡眠時間がわずかで足りることなども知りました。
 雑念がだんだんにへって、心がよほど透明になってきたからでしょう、視野が広くなり、ものの隅々が見えるようになり、いつも心たのしいのでした。」(52頁)
 このらいてふの実例でもわかるように、まず、その人の個別の苦悩の問題(人によって心の病気、心身症、対人問題、など様々)が解消する。だが、ここでとどまって、坐禅が悟りだというような曹洞宗系統の無事禅の過ちにとどまってはいない。苦悩の解消の次に、自己の本性を悟る、ということがなければ「無明」から、脱していない。何か、大きなストレスがあれば、崩壊する。エゴイズムの根が絶たれていないので、他者をも苦しめる。坐禅が悟りだという僧侶や学者が、悟らないで、そういう崩壊もせずすんでいるのは、社会人のように厳しい試練のないめぐまれた状況にあるからにすぎない。人々の苦悩は深い。

木村に続き悟る

 らいてふは、わづか一年半で見性した。無我は決して形容詞ではない。宗教にありがちな虚飾のことばでなく、事実である。多くの学者がいうような、無常、無我、縁起などとセットで論理的に理解されるのが真の無我ではない。それは、対象的に考えられた理法であり、その理法を考え、理解している自分が「無我」であることを証拠づけていない。考えている自己がある。無我でない。理解によるものならば、次のような喜びはない。西田幾多郎は、無字を許された時、「されどわれ喜ばず」と日記に書いているのは、それが、体験ではなくて、理屈で許されたからである。西田が真に見性体験をするのは、もっと後のことである。らいてふは、体験によったので、喜んだ。
「卒業の年の夏七月、公案を解決することができ、この修行にはいる最初の関門を突破したのでした。禅家の人たちはこれを「見性」と申しておりますが・・・。それはとにかく、私はその日、あまりのうれしさに、とてもそのまま真直ぐに家へ帰ることなどできず、田んぼ道をどこまでも、どこまでも歩いて日暮里から三河島の田んぼを、それから小台の渡しをわたって、西新井の方へ、帰りには豊島の渡船の方へ出て、飛鳥山に登るなど、どの道をどう通ったか日の暮れるまで歩きまわりました。足の疲れはもちろん、自分のからだのあることさえ忘れて天地の中にとけて歩いていました。「心身脱落」という言葉が禅書にありますが、ほんとうにその通りです。無我とは決して形容詞ではありません。これ以後、私は慧薫とよばれるようになりました。」(53頁)

「木村さんは私より一年たらず前に見性し、慧浩という安名をもらっていました。ふたりは連れだって大慧禅師書や臨済録の提唱をきき、接心の時は並んで坐禅りました。ほかに同じ女子大の英文科生もひとりいました。・・・女のひとはこの外に三、四名もあったでしょうか。」(53頁)
 釈宗活老師(次にでてくる中原南天棒老師の場合も)は、見性した人には法名を与えている。「悟りが真の出家」という立場をとられたのであろう。悟ると、これまでの自分が死に(無我を悟るから)、新しい自己に生まれ変わるから、誕生である。新しい名をもらう。

中原南天棒に参禅

 釈宗活老師が、布教のため、アメリカに行ったので、興津清見寺の住職坂上真浄老師に参禅した。さらに二十三歳の時、中原南天棒に参禅した。
「秋色深い山国の独居生活から、ふたたび東京にかえって来た私は、事件前の澄み透った三昧生活から堕ちた、自分の心境の濁りを大掃除するために、神田美土代町の日本禅学堂で、ふたたび禅の修行を最初に劣らぬ熱心さではじめました。ここへは西宮海清寺住職の中原南天棒老師が月一回上京されて参禅をうけておられたので、この南天棒老師に参じ、無門関第一則の「無」を最初の時に劣らない−いえ、それ以上の熱をもって取り組んだのです。」
 中原師に参禅中にも、「無」を通過した。
「さらに年末の臘八接心(ろうはつせっしん)には、わざわざ西宮の海清寺禅堂にまで出掛け、大勢の修行僧たちといっしょに、きびしい坐り方をしました。・・・・
いよいよ今日が最後という七日目にようやくのことで無字が通過しました。」
 見性体験は、前にしているが、それを他の師匠に言葉で報告(見解を述べる)するが、厳しい師は、言葉が妥当でないと許可しない。だが、体験はしているので、見解が七日目で許可されている。見性体験がないと、こういうわけにはいかない。らいてふは、二人に印可されている。確かな証拠である。
 その後も、しばらく参禅を続けているが(74頁)、やがてらいてふは師に参禅することをやめるが、禅はらいてふの生活そのものとなっていった。自伝や全集にみられる禅についての発言がその後みられる。また禅といわなくても、らいてふの活動には、人間の根底の本質は男女の性によって差はない、という強い確信が貫いている。これが、悟りを得た者が、実際に観る人間の真の平等である。悟りを得ないものが、禅の平等観を悪用するのとは、大きな違いがある。
   
このページの本アイコン、ボタンなどのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」