もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー現代の仏教を考える会

   
女性と仏教

−平塚らいてふ

原始、女性は太陽であった

 平塚らいてふ(らいちょう、と呼ぶ)は日本歴史上、第一にあげられる女性解放運動家である。これほどの著名人でありながら、彼女の著書を見ると、奢りなく、名誉を求める気持ちがない。
 らいてふの思想の奥底には禅の思想がある。らいてふの女性解放運動へのあくなき行動力にも、本来の自己の慈悲心が実践行動にあらわれざるをえない、自ずからの働きだと思われる。
 らいてふの著作の中に、禅とかわりのある言葉が多い。ごく一部しかご紹介する。

人間の平等の禅思想

                          

『原始、女性は太陽であった』

  −『青鞜』発刊に際して  (第一巻 14頁、1911、25歳)
 らいてふたちは女性だけの雑誌『青鞜』を発刊したが、その冒頭に掲載した論文『原始、女性は太陽であった』は大反響を呼んだ。女性の自立、女性の人間としての解放宣言だった。
 彼女の論文から一部を抜粋する。

女性よ、潜める天才性にめざめよ

「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光りによって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」

「私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取り戻さねばならぬ。」

「私ども女性もまた一人残らず潜める天才だ。天才の可能性だ。可能性はやがて実際の事実と変ずるに相違ない。ただ精神集中の欠乏のため、偉大なる能力をして、いつまでも空しく潜在せしめ、ついに顕在能力とすることなしに生涯を終るのはあまりに遺憾に堪えない。」

「真空なるが故に無尽蔵の智恵の宝の大倉庫である。いっさいの活力の源泉である。無始以来植物、動物、人類を経て無終に伝えらるべきいっさいの能力の福田である。ここは過去も未来もない、あるものはただこれ現在。ああ、潜める天才よ。我々の心の底の、奥底の情意の火焔の中なる「自然」の智恵の卵よ。全智全能性の「自然」の子供よ。」
 女性も潜める天才性に目覚めよ。天才とは、自分で自分を縛っているものから解放されたところに現前する自然の、本来の自己であるという禅思想が基礎にあることがわかる。

学者批判

 いつの世もいるエセ・インテリを批判する。夏目漱石の言葉も思いおこされる。
「いっさいの思想は我々の真の智恵を暗まし、自然から遠ざける。智識をもてあそんで生きる徒は学者かもしれないがとうてい智者ではない。否、かえって眼前の事物そのままの真を見ることの最も困難な盲(めしい)に近い徒である。」

自我の解放

 釈尊は「実に全自我を解放した大自覚者となったのだ。」と釈尊を例にだし、女性解放のためには、自分で自分を縛っていることから解放せよ、と訴える。寺院や教会の宗教から脱することを訴える。彼女は、平成の現代人よりも、はるかに自立精神があった。
「女性よ、芥の山を心に築かんよりも空虚に充実することによって自然のいかに全きかを知れ。」

「発展の妨害となるものの総てをまず取除かねばならぬ。それは外的の圧迫だろうか。はたまた智識の不足だろうか。・・・その主たるものはやはり我そのもの、・・・
我れ我を遊離する時、潜める天才は発現する。」

「私どもの救い主はただ私どもの内なる天才そのものだ。もはや私どもは寺院や教会に、仏や神を求むるものではない。」
「女性よ、進め、進め」

禅からくる平等思想

 以上が『青鞜』からの抜粋であるが、この文章について、らいてふは、後の自伝で、次のように総括する。この女性哲学は禅からくる人間の根底の尊厳性、平等性からくる確信である。最近、禅は、差別観に悪用されたと禅を悪者にする学説があるが、それは当たらない。禅や仏教が悪いのではない。徹底しない僧侶や学者が悪用したのである。人を批判すべきであって、禅を批判するのは当たらない。だからこそ、禅や仏教の真意の解明が必要である。
「一口にいえば、女というもののなかに非常に立派な神秘的なものが潜んでいるのに、隠されていて誰も気がつかない。ほんとうはみんなとても偉いんだから、周囲に構わず、個人として女が内部に持っている能力を大胆に打ち出してゆけば、そのうちほんとうの女が出てくるに違いない−というのが、私の女性哲学であって、現在の女にはあきたりないけれども、女性の将来には、大きな可能性の潜んでいることを信じ、その一点にすべての希望をつないでいました。」

   
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