もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
女性と仏教
仏教における女性差別(2)
女性蔑視の言葉
大越愛子氏は、女性に九つの悪法があるといって女性を蔑視している経典(増一阿含経)を指摘された(1)。
「世尊、長老に告げて曰く、−女人に九の悪法あり。いかんが九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉(欲が深いこと)なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋瞋恚(いかり憎むこと)多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。」
大越氏は「ブッダがこのようなことを言ったかどうかは定かではないが、」(2)という留保つき、仮定の言葉で議論を開始しながら、後には、もうゴータマ・ブッダの言葉と断定しているかのように論をすすめて、次のように結論される。
「こうした点からも、ブッダの宗教が特定の層の人間の煩悩を問題化したのであって、最も苦しむ層の問題にまで踏み込んだとは言い難いのである。」(3)
私は、大越氏が、原始仏教教団や、江戸時代、そして、現代の教団に女性差別を見るのはうなずける。しかし、上記のような経典の一節だけ(しかも「増一阿含経」は後の付加とされる)で、「ブッダの宗教」と決め付けをされる点、および、一つの例で、全体を否定する方法は、学問上、問題があると思う。こういう手法は、仏教への偏見を助長していきかねない。このような手法なら、ブッダの仏教の核心をついた上での議論ではないから、説得力が弱くなるであろう。なぜなら、証拠とされる経典の引用のしかたが、上記のように、学問的には、ブッダの言葉とは断定できないからである。ここは、「ブッダの宗教が」といわず、「原始仏教教団の宗教が」とすればいい。私は、多くの仏教学者がいうのと違って、小数の学者がいうところが、ゴータマ・ブッダの宗教をとらえていると思う。種々の汚い心を批判している元来の仏教が、女性蔑視をいうはずがないと考えるからである。蔑視は、煩悩であり、それを捨てない者は悟れないとしたからである。女性蔑視の言葉は、後世の教団の、実践もせず、悟りを得ず、実の悟りをしらない者によって、編集された可能性がある。これは、仏教学における課題である。疑問のある経典の言葉を根拠にして、「ブッダの宗教」というと、説得力が乏しく、せっかくの仏教批判であるのに、仏教関係者が無視するおそれがある。
私も、経典の中には、堕落したもの、実践を離れたために不毛の議論になっているもの、本来の仏教にはなかったものが混入している、と思う。女性差別の言葉も本来の仏教ではないものであると思う。そのようなごく一部の言葉で、他の大部分のよいところまで否定しないでもらいたい。ゴータマ・ブッダその人の宗教と、それからはずれたところもある原始仏教教団の宗教とは、厳然と区別して、正確な言葉で論じてもらいたい。さもなければ、ゴータマ・ブッダの本来の仏教が、学者によって誤解を拡大していく。仏教は現在も存続している。その全体を否定しても、社会によい影響はもたらさない。よい点は認め、悪い点を指摘し、改革していっていただく。そうでなければ、仏教者側からの反省、賛同は得られない。仏教には、本来、汚い心(女性蔑視もそれに含まれる)を煩悩といい、捨てるようすすめる実践があったのだから、仏教そのものの完全否定はかえって当を得ていない結果にあるだろう。
仮定から出発していながら、いつのまにか断定していく論が、仏教学関係の著書には多い。森章司氏は、次のようにいう。
「中道というのは苦楽・有無・自作他作という偏見(辺見)を離れるということであり、断定を避けて無記の立場を取るということでもある。これは換言すれば形而上的な議論を避け、形而上的な思索を離れるということを意味する。なぜなら形而上的な議論や思索は概念規定を伴い、仮定が断定になってしまいやすいからである。もしそれが公正無私な、ものの見方考え方が確立した仏の立場でまされるのなら何の問題もないであろうが、凡夫にはこれは至難のことである。ところが縁起の理法はこのような作業を経なければ、すなわちmanasikarotiされなければ追求できないものであるというわけである。」(4)
(manasikaroti:思惟する、考える)
(注)
- (1)大越愛子「女性と宗教」岩波書店、77頁。
- (2)同上、78頁。
- (3)同上、78頁。
- (4)森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」東京堂出版、1995年、536頁。
「変成男子」の説
女性の身体の不浄を言う言葉もあり、大乗仏教になって、女性は男性に変じることで成仏できるとする「変成男子」の思想も女性差別の思想を背景にしている(2)。法華経にも、それがある。女性のままでは、成仏できず、女性は一旦男性になってから成仏するというのは、女性差別の思想が背景にある、という。女性は、成仏できない、という女性蔑視を救済する教説でありながら、そこに女性差別思想があるという。
ここに、女性差別の思想があることは、私にも理解できる。しかし、これも、本来の仏教とは離れた状況設定になっている。
女性が男性に変わるという身体の変身は、元来の仏教にはない。元来の仏教は、そのままで、修行して苦から解脱する。もちろん、実際修行する者には、女性も男性も関係なく、戒定慧の修行をすれば、その性のままで、この世で解脱して、覚者(ブッダ)になれるのである。経典は、ドラマ仕立てにするので、おかしな状況設定をして、現代の眼から見れば、批判される。「変成男子」は、もちろん、大越氏のように解釈すれば、本来の仏教ではない。戒定慧の修行をすれば、誰でも悟る。何しろ、悟るということは、男女の相を超えた自己の本性をさとるのであるから、男女の問題ではない(2)。(法華経も善意にとれば、その意図があったのだろうが、現代の眼から見れば、女性蔑視となる。)
原始仏教の重要な教説は、四聖諦、「無常・苦・無我」説、十二支縁起説などにより、苦から解放され、煩悩を捨棄し、ブッダ(覚者)になることである。女性を蔑視するような誤った分別は、煩悩であるから、仏教でも禅でも、元来捨てるべきとされる。四聖諦、八正道、十二縁起などがブッダの宗教であれば、そこいは女性蔑視は入り込む余地はない。仏教における女性差別の問題は、元来、仏教の本質ではない問題(つまり、組織が巨大になってから、堕落した思想がはいりこんだ)なので、私には、議論するのが気が重い。だが、この問題で、仏教そのもの、禅そのものを全否定してほしくないから発言している。よくその精神を実践体得しなかった者による偏見、差別観がはいりこんだと思うからである。学問上、それを厳密に区別して解明してほしいものである。
(注)
- (1)大越愛子「女性と宗教」岩波書店、84頁-。
- 男女が根底において差別がないことは、キリスト教の聖書にも説かれている。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤの信徒への手紙-3)
宗教には種々の差別がある
なお、つけ加えるが、私は、大越氏の研究を否定しているのではない。確かに、仏教の経典の言葉、現実の教団の行為には、長い歴史の中で、種々の差別、偏見がある。宗教と女性の問題について、私も大越氏から多くのことを学ばせていただいている。私の言いたいのは、仏教の本来の教義と現実の教団の行為とを厳密に区別して、釈尊と原始仏教教団とを厳密に区別していくべきだというだけである。原始仏教経典においては、釈尊よりはるかに後世の不毛の議論におちた時代のものも含まれているので、経典のすべてを、ゴータマ・ブッダの教えだと断定せずに使用すべきであるという点である。
また、誠実な諸学者の研究により、これまでの仏教学、仏教とは何かについて種々の誤解や偏見がある、ということが指摘されていることである。著名な学者でさえ、そうである。だから、偏見ある学説を参照して、仏教はだめだと言ってほしくないことである。また、仏教以外の宗教に好意を示している研究者には、資料などの見方が仏教や禅に特に否定的になる傾向があることを自戒していただきたい。
長い歴史において、カースト制のあったインド社会で、仏教の教義も種々に展開した。教団も多様に分裂発展した。そこには、教義と歴史的教団の行為に、当時の社会にあった女性差別、女性への偏見が入り込む。それを明らかにされようとする大越氏の研究に期待する。そこから、ゴータマ・ブッダ(釈尊)、道元禅師、白隠禅師などの宗教の真実と誤解も見えてくると思われる。道元の言葉にも、現代から見れば、少数の人権侵害の言葉があると指摘される。しかし、だから道元の仏道は、差別の宗教である、というような完全否定の論調はしてはならないだろう。宗教にも、人にも、すべてが善でも、すべてが悪でもなくて、善い点もあれば、悪い点もある。
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