もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
女性と仏教
仏教における女性差別(1)
仏教においても女性差別がある
大越愛子氏(近畿大学助教授)は、仏教教団には女性差別がある、と次のように指摘された。
「仏教においても女性に対する差別は、一神教に劣らず、徹底的である。そして近年衝撃的であったのが、日本で起こった、仏教系カルト集団による暴力事件である。彼らが援用した仏教教理から、一見非暴力的言説の中に、いかに多くの暴力的要素が含まれているかが明らかにされた。」(1)
「近年日本独特の世襲的仏教寺院システムの中で、不当な地位を甘受させられてきた寺院内部の女性たちから、体制仏教の差別性、暴力性への告発が生じてきている。
彼女らの立場は、仏教の原点に遡って、ゴータマ・ブッダの言動そのものを問題化する立場や、仏教の教義的問題はとりあえず不問に付して、仏教教団の制度的差別構造を問題化するにとどまる立場など多様である。本書では、仏教それ自体がもつ問題点および、それが制度化されたとき生じる問題などを、多面的に解明することをめざしている。」(2)
上記の「仏教系カルト集団」とは、オウム真理教であろう。これは、仏教ではないが、仏教を標榜していた。そういうカルト教団はほかにもある。カルト教団は、生きている教祖、会長など、そのトップを絶対者として信仰させるので、様々な形で、女性差別、抑圧が行われる。大越氏は、仏教だというカルト教団における女性差別は、もちろん、伝統教団における差別をも指摘している。
(注)
- (1)大越愛子「女性と宗教」岩波書店、63頁。
- (2)同上、65頁。
ブッダには女性の苦の共感がない?
大越氏は、仏教における種々の問題を論じられている。私も、現実に存在した仏教教団には、原始仏教の時代から現代まで、女性差別があるということは肯定する。組織は、大勢から構成されるから、権力闘争、いじめ、などつきものである。すべての構成員がゴータマ・ブッダのような聖者ではないから、女性差別もおこる。そのことは、肯定できる。だが、ゴータマ・ブッダ(釈尊)や、釈尊の仏教そのものに女性差別があるというのは、慎重に考えたい。
仏教とは何か、ということの大越氏の認識は次のようである。
- 「イエス・キリストの宗教が虐げられた民衆たちの悲しみの記憶から生まれたのに対し、ブッダの宗教は、恵まれた運命にあるものの実存的不安から生じた宗教であることの差異は重要である。」(1)
- 「女性たちの悲しみを自らの中に体現して死んでいったイエスに現れるような、女性たちの苦しみへの共感は、ブッダには見られない。既に指摘したように、この世の苦悩の全面的否定の教説は、苦悩の中にある差異を無化してしまう。」(2)
「この世の苦悩の全面的否定の教説」といわれるのは、何か仏教の誤解であろう。仏教は、苦を如実にみつめることをいう。否定はしない。苦をしっかりと見つめて、苦の様相と苦の原因をありのままにみつめる。そうすると、苦や自己の真実の姿がわかり、苦を感じていた事実が以前とは違った眼でみられるようになるのである。
古い経典とされる「テーリーガーター」には、子や夫を失った苦しみから出家したり、母と娘が同じ一人の男と関係(近親相姦)したことを知った苦しみから出家して苦から解脱したことを述べている。娼婦であった女性、飢饉に苦しんだ女性の声もある。こういう経典からでも、「女性たちの苦しみへの共感は、ブッダには見られない。」というのであろうか。
大越氏の経典の使い方に一言
仏教経典は、ゴータマ・ブッダが編纂したものではなくて、後世の教団の僧侶たちが編集したものである。彼らは、ゴータマ・ブッダのように、みな、解脱していたわけではない。現代の学者でも、仏教とは何か、ということについて種々の意見がわかれていて、種々の偏見、誤解、不純物が混入する。同様のことが原始仏教の教団における編纂作業の中で、ブッダの精神からはほど遠いものも経典にはいりこむはずである。
また、教団は組織である。組織の維持は、元来、仏教ではないはずである。自己の苦と煩悩(我執などから出る)をみつめて、そこから解放される道に、元来、教団という組織は無関係である。だが、出家者が多くなると、集団、組織維持の問題が起こる。組織の中で、権力を振るう者、上下関係ができる。エゴイズムが渦巻く。現代の教団を見ればわかる。決して組織的教団では、宗教の真実は貫通されない。組織維持のために、戒律が作られ、そこに女性差別がある、という。それは、純粋の仏教、純粋の宗教問題ではない。戒律も後世の教団によって、作られ、編纂されたものである。女性蔑視の観点の戒律も入りこむだろう
経典や戒律に書かれたものは、すべて「ゴータマ・ブッダのもの」だとして、女性差別の言葉を抜き出してきて、「ゴータマ・ブッダにも女性差別の思想があった。だから、仏教そのものが女性を差別するものだ」というふうに聞こえてしまうような論調はおかしい。どの宗教でも、教祖はすぐれていても、その後の現実の組織、構成員には、堕落したものがある。仏教における女性差別を論じる場合、そもそもゴータマ・ブッダの仏教とは何かをおさえた上で、議論すべきである。経典や律の言葉を引用して、「だから、ゴータマ・ブッダの仏教には女性差別がある」というのは、やめてほしい。なぜなら、そういう論法を用いられると、仏教そのものが女性差別の宗教であり、一段低いものになる。それよりも、女性平等を歌う、新興宗教がすぐれているという宣伝に、結果としてなってしまう。元来、すぐれたところのある仏教が否定されてしまい、現代の人々が、仏教から離れてしまうのをおそれる。
(注)
- (1)大越愛子「女性と宗教」岩波書店、71頁。
- (2)同上、73頁。
仏教は女性の苦も救う
現代の学者が書いた仏教書は、仏教とは何か、について誤解して書かれたものが多い。たとえば、仏教は縁起である、という無味乾燥な解説である。私は、実際の仏教は、生々しい現実の苦を救えるものだと思う。学者の書いた仏教とはかなり、違いを感じる。
「テーリーガーター」の女性の苦を記したように、現実に実践されている仏教は、現実の苦悩を救う、ということを目標とする。「テーリーガータ」には、夫、子供の死、不倫、近親相姦、自殺、飢饉など生々しい苦悩が書かれている。原始仏教における苦悩は、現代人の苦悩も同じであることは三枝充悳氏などの研究で判明している。
思想的にいくらきれいごとを言っても、現実に自殺をやめさせなければならない。種々の苦しさから、仕事、学業に手がつかない人も多い。そういう苦悩を解消できる面も仏教にはある。我執を捨てよ、といい、煩悩の捨棄を強調することころも経典にある。そうすると、経典に出てくる女性差別の言葉は、元来の釈尊の仏教にはないものであって、後の肥大化した教団になってから混入したものかもしれないはずである。経典の言葉を使う時に、すべてゴータマ・ブッダの言葉であるかのような言い方はやめるべきである。
「仏教とは何か」は、学問上解明されておらず、難しい課題である。「仏教とは、何か」ということについて、ある学者は「縁起説のみ」といい、ある学者は「アートマンの否定」といい、苦からの解放、無明からの解脱という。
専門の仏教研究者の間でも、種々の学説があるのに、仏教の専門ではない学者が、誰かの仏教書を読み、それで仏教とは、その程度のものという(仏教をつまらないものという)先入観をもって、断定する。その程度が仏教だと思って、自分の関心領域についての言葉を経典から抽出して、仏教(全体)に批判的、否定的な論調が生まれる。たとえば、「水子供養」は、元来、ゴータマ・ブッダのものではないが、仏教は、こういう供養をして、女性から搾取している、という指摘である(1)。これは、もともと、仏教ではない。こういう仏教ではないもので、仏教を批判する危険性は、解消してもらいたい。仏教学において、そもそも「仏教とは何か」を解明してもらいたいものである。
仏教、禅が多くの人に誤解されている。それを解消するためにも、仏教の実践をまじめに行う人がふえなければならない。だが、仏教、禅に関する学術書、啓蒙書に、誤解が多い。なかなか、元来の仏教が知られない。少しづつでも、少数の人であっても、知ってもらいたいと思う。
「女性と仏教」の問題も大きな問題であり、重要であるが、私は他に研究課題がある。とても私には研究する時間がない。この記事を読む人で、この問題に関心のある人が研究していただきたい。私は、断片的に、随想的に述べていきます。
(注)
- (1)大越愛子「女性と宗教」岩波書店、111頁-。
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