もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学-エックハルト 

禅、仏教との類似性(6)

 「  」はエックハルト言葉のそのままの引用である。他の文章で一段さげて太字にしているのは、エックハルトの言葉を要約(または大胆な意訳)して示している。

己れの本質・生命のすべてを得た!

 神を見た(禅でいう悟り)真っ最中の体験を詳細に語ると、聞く人が、理知的に理解しようとしてしまって、知見解会を働かせたり、程度の低いものに誤解し実践しなくなり、害になるから禅者は、あまり語らないで、実践を重んじる。エックハルトは理知的な西洋人らしく詳しく語っている。離在(仏教で言う無間定、無生法忍、禅でいう身心脱落、無、悟りの自覚直前の大死の時)の真っ最中の様子が各所に詳述されている(1)。ごく一部をご紹介する。
 原始仏教でいう「想受滅」、唯識説でいう「真見道・無分別智」の様相に酷似する。「私の調査メモ」をご覧下さい。  念が動かない、というのは、想受滅、無分別である。その時、自分がない、というのは「人空」「無我」である。虚無ではなくて「ただ善への愛からのみ行われるようになる」というのは、縁起のみある、ということである。仏教の言葉にすれば、このようになる。これは、禅の見性体験のまっただ中でも同様であることは、そこから出てから自覚される。そのようにいう禅僧が多い。
 その時「己れの本質・生命のすべてを得」る、という自覚は、禅、仏教の解脱、悟り、と同じ自覚である。また、生きて活動していながら、知りつつある自己も、感情も関知されない、「無我」「人空」、自己を忘れるという体験である。こういう言葉を見ると、エックハルトは、禅と全く同じ体験をしたことは間違いないであろう。エックハルトも忘我の境地とか無になるという(5)。
 そして、西洋の人が、東洋の禅の人と同じような自覚を得るというところに、この無我、空という、自己の本質は、彼らが知性でつくりあげた「思想」ではなくて、「実際」、人間の「原事実」であることの証拠であろう。エックハルトは、仏教のブッダであり、禅の「覚者」である。
 自己を一切忘れたとき、神を見る、そして神の中に(新しい)自己を見いだす(6)、ともいうが、禅者の自覚も同様である。
 ところで、エックハルトは、離在の体験の前から、いつも神はいたと悟る(7)すでに救われていた(8)と悟るという。すべての人が神性を備えている、神である、仏であると、気がつく。すべての人が神であり、平等である。仏教は、性本清浄、如来蔵、といい、禅では、悟る前から本来仏といい、エックハルトと仏教は全く同じように思える言葉である。

 しかし、陶酔の中に留まってはいけない(9)。神はいったん魅了し、その後、奪う(10)。この体験を得た人は、その後は、神の国の中まで入り込まず、そばで生活する(11)。世間的事物に惑乱されず、己のなすべきこと、己の仕事をなしていく(12)。そして他の人が惑乱するのを見ては、その人も自分と同じ境地になることを願う(13)。聖者のそばに坐している時は、まだ学んでいるのであり、真に聖者になったら師を離れて働くのである(14)。

 ここに大乗仏教の菩薩(ぼさつ)と同じ思想がある。事実であるから、思想というのはあたらないかもしれない。神を見た人は、もはや自己自身のために悩むのではなく、他の人々が苦悩しているのを見て、そのことを我がこととして悩み、どうすれば救えるかとあれこれ思いわずらう。神の子も菩薩も他のために悩みたまう。
 宮沢賢治も「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言った。賢治は、幸福とは思えなかった。世界に幸福でない人がいるから私は幸福ではない。子が苦しむのを見て、親が苦しむ。
 世の中の人は、苦しみ、心を病み、自殺するが、自分は幸福でありがたい、とは思えない。そのように苦しむ人がいるから、私もつらい。そのことゆえに、私は苦しい。だから、他の人の苦の解消のために、できることをしたい。苦の共感と慈悲は、キリスト者エックハルトと、仏教者と同じである。
 エックハルトは、大乗の菩薩である。合掌、礼拝。
   
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