もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学-エックハルト 

禅、仏教との類似性(4)

 「  」はエックハルト言葉のそのままの引用である。他の文章で一段さげて太字にしているのは、エックハルトの言葉を要約(または大胆な意訳)して示している。

悪い霊魂

 人が神であるというが、エゴイズムの人間、何かに依存した、そのままでは神とはいえない。神である人ならば、教会にも宗教にもイエスにも頼らない。そうならない人は悪い霊魂である、とまでエックハルトは言う。教会にとっては、ぶっそうな言葉である。
 人はそのままでは神ではない。神とひとつになって、神から離れなくなった人(魂)が神である。神となっていない人は、自分が高貴なものであることを知らず、心を自我で汚している。「悪い霊魂」は、我利、我執でよごれた心である。そのままでは、本当のキリスト者とは言えない。「最初の源泉」とは、人が全く認識を動かさない前のものであり、仏教でいう「如(にょ)」「清浄心」「仏性」であろう。父母未生前、本来の面目ともいう。まだ父母が生まれない前の本来の自己の姿、ともいう。苦悩は現代語でいえば精神的ストレスであろう。それは、人が目前に常にある神から心を離すから起こる。
 「天上と地上の火が接している」。「最初の源泉」は、時々刻々、汚れなく、平等であるが、エゴイズムの眼で、すぐ汚す。無私、自己放棄の眼が、真摯に扱うこともできる。天国と地上は、接している。
 我利、我執によって、清浄な心を汚す。我利、我執にまみれた眼で、見解を起こす(被造物)。それが苦を起こす。エックハルトの苦の構造は、仏教のものと同じである。
   
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