もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学-エックハルト
 

禅、仏教との類似性(2)

 「  」はエックハルト言葉のそのままの引用である。他の文章で一段さげて太字にしているのは、エックハルトの言葉を要約(または大胆な意訳)して示している。

キリスト教の目標

 神や仏を何らかの像のように描いて、天国を死後のこととか、自分の外の天国(銀河系宇宙のどこにあるのか!)にあるように思うのは空しい幻想である。エックハルトの考えるキリスト教は次のとおりである。

すべての人が神の善性を持つ
 すべての人が、神と同じ善き性を持つ。  何らかの像や姿を神として、自分の外に描くのは、真の神ではない。像、形から離れて善き性のものが神である。自己がそれと一つであるという自覚に到ることである。単に、何かを対象的に描いて、いつまでも、自己がそれではないというのではなく、一つになるという、実践的、行為的である。そして、その善きものは、すべての人が、持っている。こういう点は、本来、すべての人の性は、清浄であり、仏性を持つという。自己と仏性が二つあって、一つになるというのではないから、自己か仏性である、というのが仏教である。エックハルトは、同様のことを言っている。

自己(自我)を捨てよ
 その自覚に到るためには、自己を捨てなければならない。とは言っても、カルト宗教が言うような、財産、家庭、仕事をも捨てよというのとは、全く異なる。財産、家庭、仕事を捨てずして、自己を捨てるのは、仏教も同様である。「自己を捨てる、否定する」ということは、自我、我利、我執、エゴイズムなどの放棄が近いのであるが、通常、人が考えるものからさらに徹底した、自己放棄である。自己を捨てることによって、捨てれば捨てるほど、無私の眼が開発されて、捨てるべき自己が見えてくる。自己を否定するという実践、生活によって、神と一つであるという自覚がうまれる。  この自覚に至ると、自己は神と一つである、という自覚が生まれるが、自分のみを絶対者と言うカルト宗教の教祖などと違うのは、自分を放棄しているので、自分を絶対者として、自分をも対象化しないし、他者にも対象化を強いない。また、自分のみが、善性を持つのではなく、すべての人の善性を同時に自覚するから、自分のみを絶対視することもない。こういう点は、仏教や禅に類似する。

あらゆるところにおられる神に親しむ生活
 自己とともにいつでもごこでも神はあるから、いつも神に親しむ生活をしている人が、真に神を見る。いつでもどこでも神に親しむようになるのがキリスト教の究極の目標である。  道元は言う、自己が仏であり、山河大地が自己である、と。エックハルトが言うことは、これに通じる。物の中に一つ、一つ神や霊が宿るというようなアニミズムではない。物そのもの、全体が神であり、自己である。自己の周囲全体が神であるから、自己のいる所、いつでも、どこでも、神がある、神である。そのように信決定して、それに違背しないように、神に親しむ生活をしていくのである。
 禅も同様である。日本人は、自己の外に絶対者を見ない傾向(つまり宗教心が薄い)があるようだが、むしろ、その方が、この自己放棄の生活はしやすいと言える。自己の外に神を設定せず、自己の内(内外の内ではない。根底である。)に、神があると信じて、自己(我執)を捨てた生活をしていくのが、神と親しむことであろう。
 人が自己を完全に捨て切った(禅では自己を忘れる、身心脱落、という)とき、自己はない(無我)と悟る。そして、ものを創造する泉を自己の内に見る。我がなく創造するこのものは何か? 自分、他人の差別のない、神である、と自覚する。エックハルトは、自己を否定したとき、人間と神に相違がない、という。道元は「自己を忘れて仏となる」という。エックハルトの見た神と道元の見た仏とは同じものではあるまいか。私は、両者の文字の類似性と、所詮、自己放棄した人間がたどりつく心証体験(両者ともに、これが根拠となっている)に、民族の相異はあるまいと思うからである。
 エックハルトがいうキリスト教の目標は、自己を放棄した生活によって、神と一つである自己を自覚することにある、ということになる。
   
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